39年ぶりに“出会った”英国グリーナムコモンの女性たち 米国の核ミサイル配備に抵抗して19年

 6月3日の夜11時過ぎ、テレビのスイッチを入れたら、NHK・Eテレの画面で、高齢で大柄な外国人女性がしゃべっていた。画面の下の方に目をやると、小さく「レベッカ・ジョンソン」の文字。私は仰天してしまった。「39年前に、英国のロンドンで会った女性じゃあないか」。テレビの画面から、私は、その時の女性、レベッカ・ジョンソンさんが健在で今なお世界の核兵器廃絶運動の先頭に立っていることことを知り、改めてその生き方に感服せざるをえなかった。

 NHK・Eテレで放映された番組は『核ミサイルを拒んだ女たち 証言 グリーナムコモンの19年』と題するドキュメンタリーだった。2021年にフランスで製作された。

 1983年の秋、西欧で反核運動が高揚した。
 きっかけとなったのは、1979年12年に開かれた北大西洋条約機構(NATO)理事会の「二重決定」だった。一言でいうと、米国の新型中距離核ミサイル(パーシングⅡ、巡航ミサイル)のヨーロッパ配備を進める一方で、米国とソ連の間で中距離核戦力(INF)削減交渉を進める、という決定だった。
 これは、70年代後半からソ連がヨーロッパ向けに中距離核ミサイルSS20の配備を始めたことへの対抗措置だった。具体的には、83年後半以降にパーシングⅡ108基を西ドイツに、巡航ミサイル462基を英国、イタリア、ベルギー、オランダの5カ国に配備するというものだった。

 この決定に衝撃を受けたのは西ヨーロッパの市民たちである。「これでは、西ヨーロッパが米ソによる核戦争の舞台になるのでは」という恐怖がまたたく間に各国の市民の間に広がった。「ヨーロッパをヒロシマにしてはならない」という危機感から、「ノーモア・ユーロシマ」というキャッチフレーズが生まれた。「ユーロシマ」とは、「ヨーロッパ」と「ヒロシマ」をだぶらせた造語だった。

 81年後半から、西ヨーロッパ各国の首都や大都市で、米国の新型中距離核ミサイルの配備に反対する集会が相次いで開かれた。配備開始の83年秋には、配備反対の集会が最高潮に達した。とくに10月22日から30日にかけ、ボン、ロンドン、ローマ、パリ、ストックホルム、ウィーン、ブリュッセル、ハーグなどで大規模な反核集会が連続して開かれ、参加者は総計で約200万人に達した。世界のメディアは、こうした一連の反核集会開催を「西欧の“熱い秋”」と呼んだ。

 当時、全国紙の記者をしていた私は、これをこの目で見たいと、西ドイツと英国へ飛んだ。英国では、ニューベリーという町にあるグリーナムコモン米空軍基地へ向かった。ここに米国の巡航ミサイルが配備されることになったため、女性たちが基地周辺でキャンプしながら配備反対運動をしていると聞いたからだった。

 その米空軍基地は、ロンドンから西へ約80キロ、列車で約1時間のところにあった。牧場や林、畑が続く田園地帯のまっただ中だった。金網に囲まれた基地の周囲は約14キロ。金網の外の4カ所に、女性ばかりの「平和キャンプ」があり、その最大規模のものが基地正門のすぐ外にあった。そこには、ビニールとシートでつくられた粗末なテントが20ほど。女性たちはここに寝泊まりしながら、基地内の動きを監視していた。

米国の核ミサイルの搬入に反対して英国のクリーナムコモン米空軍基地の周辺で
キャンプを張る女性たち(1983年10月15日、筆者写す)

 テントにいた女性によると、英国各地から集まった女性たちがここで「平和キャンプ」を始めたのは81年9月から。それ以来、「非暴力」をモットーに、基地正門前での座り込み、基地への侵入、金網に身体を鎖でくくりつける、といった活動を続けてきたという。
 英国人と名乗る若い女性が語った。「常時、キャンプにいるのは4、50人です。年齢は19歳から65歳まで。もちろん、英国女性ばかりではありません。米国、ドイツ、フランス、デンマーク、スウエーデン、オーストラリア、ニュージーランド、日本からも来ています」。レズビアンも加わっていた。

 これまでに逮捕されたのは延べ約400人。そのうえ、地元の自治体によって何度もテントが撤去された。でも、そのたびにキャンプを再建したという。夜、テントに石を投げられることもある。自然環境も厳しい。10月半ばというのに風は冷たく、私が訪れた時、女性たちは、たき火をしていた。真冬には氷点下になるとのことだった。

 その後、ロンドンで、「平和キャンプ」のリーダーのレベッカ・ジョンソンさんに会った。当時、29歳。彼女はオートバイに乗ってやってきた。これで、ロンドン-グリーナムコモン間を往復しているとのことだった。
 彼女は語った。「わたしたちには、人間を絶滅させる核戦争を起こさせない義務があると思うの。私たち普通の人間には、自分の体しかない。だから、この体を使って核兵器に立ち向かうしかない。それが、わたしたちの非暴力直接行動なんです。わたしたちへの支援は世界の各地に広がっています」

 それから1カ月後、グリーナムコモン米空軍基地に米国の巡航ミサイルが搬入された。これに対し、平和キャンプの女性たちは、12月12日に両手を数珠つなぎして基地を包囲する抗議活動をおこなった。これには、西欧各国から約3万人の女性が駆けつけ、基地を取り巻いた。
 NHK・Eテレで放映された『核ミサイルを拒んだ女たち 証言 グリーナムコモンの19年』は、キャンプの女性たちのさまざまな抗議活動を紹介したものだが、この時の基地包囲の映像も収められていた。

 グリーナムコモン米空軍基地への搬入を皮切りに、米国の新型中距離核ミサイルは西欧各国に次々と配備された。西欧の反核運動は敗北した形となったが、グリーナムコモンの女性たちは、「平和キャンプ」をやめなかった。

 ところが、1987年、西ヨーロッパに配備されていた米国の中距離核ミサイルとソ連が欧州向けに配備していた中距離核ミサイルをも含むすべてのINFを廃棄する画期的な条約が、レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の間で結ばれる。
 米ソ両首脳をINF全廃に踏み切らせたものは一体何だったのか。私は、グリーナムコモンの女性たちをはじめとする西ヨーロッパの民衆による大規模な反核運動もその一つだったんだと思い、INF全廃条約を心から歓迎した。

 この条約に基づき、グリーナムコモン米軍基地から巡航ミサイルが撤去されたのは1991年である。しかし、女性たちは「平和キャンプ」をやめなかった。彼女たちがキャンプを閉じたのは2000年。この年、この米軍基地が閉鎖されたからだった。

 レベッカ・ジョンソンさんは、その後も英国内外で反核運動を続けたようだ。労働党の国会議員になった、という話が日本に伝わってきた。
 『核ミサイルを拒んだ女たち 証言 グリーナムコモンの19年』は、彼女がICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の共同議長を務めたことを伝えていた。ICANは、2017年に国連で採択された核兵器禁止条約の成立に貢献したとして、その年のノーベル平和賞を受賞した国際NGOである。39年前にロンドンで会った英国人女性は今や、世界の核兵器廃絶運動のリーダーとなっていたわけで、私は心の中で拍手を送った。

 それにしても、クリーナムコモンの女性たちの活動をドキュメンタリー映画にしたフランスの映画人に敬意を表したい。1954年に日本で起こり、世界に広がった核兵器廃絶運動で、最初に声を挙げたのはやはり女性たち(東京都杉並区の主婦たち)だった。でも、彼女たちを主人公にした映画はまだない。

初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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