(2020年6月5日)
昨日(6月4日)、香港ビクトリア公園では天安門事件の犠牲者追悼に1万人を超える人々が集まって集会が開かれた。31年前、北京で民主化を求める民衆を武力鎮圧した中国当局は、今なお、香港の追悼集会を快く思っていない。その意を承けた香港警察当局が、新型コロナ対策を理由に集会を禁止したが、これを押しての1万人を超える市民の集会参加となった。
香港市民は、禁止されていない少人数のグループに分散し、ソーシャルディスタンスを保つ形で、ロウソクに火を灯して集まった。31年前の弾圧による死者を悼むこの行動には、さすがの警察当局も「違法集会」としての制圧を控え、集会は事実上容認された。
暗闇の中の、無数のロウソクの光が美しく感動的である。しばし考える。どうしてこんなにも美しく、こんなにも感動的なのだろうか。
己が魂を護ろうと権力に抵抗する人の姿は、それだけで十分に美しい。大義のために、不当な権力に抗う人々の姿はより美しい。民主化を求めて犠牲になった人々を悼むための、不当な権力の制止に屈しない多くの人々の行動はこの上なく美しく、感動的である。
31年前のあの事件の後、中国の党と中央政府は、巨大な経済発展をなし遂げることで、国民の口を封じることに成功した如くである。パンを得て口を封じた人々の姿は、けっして美しくない。パンのみにては生るにあらずと心を決めた香港市民の行動こそが感動を呼んでいる。
同じ6月4日、香港立法会(議会)では、美しくない多数派の醜い多数決で、「国歌条例案」が可決成立した。この議会は、市民の意見を反映する構造を欠いている。直接普通選挙にはなっていないのだ。親中派が議席の過半数を占める、汚い仕組みで成りたっている。
雨傘運動時のような、また昨年の逃亡犯条例反対運動のような、中国当局の心胆を寒からしめる大規模大衆運動がやりにくいコロナ禍の今を狙っての国歌条例案の上程。火事場泥棒は、どこの国でもことさらに醜い。
権力にへつらう態度は、それだけで十分に醜い。パンを口にするために、人権や民主主義を抛つ国への阿諛追従はさらに醜い。強大な権力に抗う人々をいけにえに差し出そうという阿諛追従はこの上なく醜い。
中国国歌「義勇軍行進曲」は、帝国主義列強なかんずく侵略者日本の皇軍との闘いの中から生まれた中国人民の崇高な歌である。その国歌が、醜い過程を経て成立した醜い法によってでなければ、その尊厳が守られなくなったのだ。
国家に対する愛着や敬意を強制することはできない。国歌尊重の強制は逆効果と知らねばならない。国家が国民に愛国心を強要し、その手段として国歌の尊厳保持を法で固めなければならないと考えること自体が、既に国家の側の敗北であり失敗である。
もちろん、罪はあの「義勇軍行進曲」にあるのではない。罪はもっぱら愛国心を強制しようという中国当局と、これにおもねる香港議会内親中国派にある。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2020.6.5より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=15028
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9818:200606〕