最近、神奈川大学の非文字資料研究センターからブックレット『国策紙芝居―地域への視点・植民地の経験』(大串潤児編 神奈川大学評論ブックレットシリーズ41、御茶の水書房 2022年3月)をお送りいただいた。数年前に、神奈川大学での「国策紙芝居」の研究会に参加し、その後のシンポジウムには参加はできなかったが、非文字資料研究センター編著の『国策紙芝居からみる日本の戦争』(勉成出版 2018年2月)をいただき、当ブログにも何回か紹介しているので、ご覧いただければ幸いである。今回の、上記『国策紙芝居―地域への視点・植民地の経験』は、ブックレットながら、地域や植民地の現場を訪ね、資料を発掘し、戦時下の体験者の証言も収め、大変興味深く、充実した内容に思えた。
「国策紙芝居」というのがあった~見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために(2013年12月6日)
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『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(1)(2)(2018年3月28日)
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私の紙芝居体験は、敗戦直後の街頭紙芝居であった。もう記憶もあいまいになっているのだが、銭湯の横の路地に、毎日自転車でやって来るおじさんは、太鼓をたたいて、辺りの子どもたちに知らせてまわる。空き地で遊んでいた子も、家から出てくる子も駆けつけて、いつも10人以上は集まっていたように思う。たしか10円で紙芝居の台の下の箱のイモ飴を割りばしのような棒に絡めて売ってから、紙芝居が始まるのだった。冒険もの、母もの、時代ものが定番ではなかったか、みな続きものだから、毎回通う羽目になる。おじさんのセリフと演技、太鼓に、思わず息をのみ、また涙することもあった。当時は、小遣いなどはもちろん持たせてもらわないから、私は、その都度、店に立つ、父や兄から5円?10円硬貨?をもらって駆け付けたように思う。たしかにアメを買わない子も一緒だったから、おじさんも黙認?していたようだった。
上記の書によれば、この時代の街頭紙芝居は、第二次の戦後復興期の紙芝居ブームのさなかだったらしい。そして、第一次のブームというのが、一九三五年前後から始まる、戦意高揚、戦争協力を主旨とする「国策紙芝居」の時代だった。「国策紙芝居」は対極として、便乗絶叫型と家族愛型があり、前者の典型として近藤日出造の「敵だ!倒すぞ米英を」(大政翼賛会宣伝部 1942年12月)であり、後者の典型が国分一太郎脚本の「チョコレートと兵隊」(日本教育画劇 1941年7月)であったという(13頁)。近藤も新聞紙上の漫画で、国分も作文教育で、戦後に目覚ましい活躍していた人物として、私も記憶している。
本書は、サブタイトルにもあるように、国内では、北海道札幌市京極町、水上町、須坂市、但馬市出石町、豊岡市、亀岡市、大津市、福岡県朝倉市などでの現地調査により、資料館や収集家を訪ね、紙芝居の発掘や体験者からの聞き取りを行い、台湾での調査も実施した成果、韓国の研究者とも連携して、植民地での紙芝居研究が収められている。
私は、かつて「台湾萬葉集」や「日本占領下の台湾における天皇制とメデイア」についての論稿を執筆したことがあるが、「紙芝居」まで、その視野になかったので、多くを教えられた次第である。
いまの日本では、多くは、幼稚園、保育園などで、紙芝居を演じられることが多い。大人たちは、紙芝居ならぬテレビやスマホをはじめ、インターネットを筆頭にさまざまなメデイアを通じて、大量の情報を得る便利さの中で暮らしている。しかし、その反面、情報操作も多様化、国際化が進行し、知らない間に、操作された、限られた情報を与えられ続けている状況にあるともいえる。ふたたび「国策メディア」に組み込まれないように、「不断の努力」が必要だと思い知らされるのだった。
初出:「内野光子のブログ」2022.5.3より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12003:22504〕