<近代の超克>論を刺戟する交換論―清家竜介著『交換と主体化』(御茶の水書房、2011年刊)書評

1.問題の所在

社会において交換が成立するには、交換主体のほか、必ず媒体が必要である。それは、先史社会や野生社会ではフェティシュなど聖なる存在であり、有史社会や文明社会では貨幣である。貨幣が用いられず何の媒体も介在しないように見える物々交換にも、媒体は存在しているのである。あるいはまた、古代の交易は、玉(各種のタマ、先史)から金(各種のカネ、文明)へと転回するが、前者は交換の対象というよりも、聖なる存在として交換の媒体であった。

先史社会や野生社会では、人間は儀礼(rite、ritual、cultus)を執り行うことにより自然との間で何らかの交換を行なう。その時、自然は儀礼によって自然神(存在者)として出来(しゅったい)する。社会制度=労働組織もまた儀礼によって生まれる。あるいはまた、労働の組織化に必要な存在として神々が産み出されることになる。儀礼は神々を産み出す行為である。それに先立って神は存在しない。儀礼とは、その後に神を創り出す行為なのである。

先史社会は以下の三つの要素から成り立っている。原始労働(物質的生産)・自然信仰(儀礼的行為)・氏族制度(人間組織)。先史の生活者たちは儀礼を生産に先行させる。先史人や野生人は、あらゆる事柄・行為を儀礼でもって開始するのである。

そのほか、儀礼とは、人間(自然的存在=動物)が人間的存在になるための必須条件である。自然的存在(モノ)を神的存在にすることにより、人間(モノないし動物)は人間(神的存在をつくりだす存在)となった。これをさしてフェティシズムという。これまで宗教学や哲学、経済学や心理学などで通説だった解釈、物神崇拝は人間が人間以下のモノにひれ伏す幼稚な観念、という解釈は間違っている。事態はむしろ逆である。物神崇拝は、人間が人間になるために必須の条件なのである。

私は儀礼を二種類に区分する(石塚正英「儀礼の二類型とその意味」、『理想』第678号参照)。第一類型は神々を創り出すものであり、第二類型は唯一神や最高神、絶対神にひれふすものである。前者は生活儀礼であり、後者は宗教儀礼である。通説で流布されている物神崇拝は儀礼の第二類型に関連する。その前に儀礼の第一類型に関連するフェティシズムが存在している。この二つは、歴史的にみるならば時間的に前後しているが、存在論的には第一が第二の必要条件になっている。野生人=非文明人は第一の儀礼にのみ関連するとも考えられるが、現代人=文明人は第二の中に第一が隠れるようにして二種の儀礼を日々通過している。

さて、交換に関係する媒体のうち、ド・ブロスが特徴づけしたフェティシュなど聖なる存在は野生=非文明社会に特徴的であり、マルクスが物神に喩える商品や貨幣は文明社会に特徴的である。併し、両者は基底において媒体としての共通性をもっており、後者は前者と断絶して存在するのでない。とりわけ後者は前者のバリエーションなのである。右に記した文章、「この二つは、歴史的にみるならば時間的に前後しているが、存在論的には第一が第二の必要条件になっている」はフェティシュと貨幣の間にも妥当するのである。そして、私のこの議論にもっとも近いところで交換論を提起しているのが著者清家竜介の学位論文がもとになっている本書『交換と主体化』なのである。

2.本書の特徴

人は身体においても精神においても、ときとしてずっと非文明的ないし辺境的なままで過ごしてきている場合がある。その事例として地動説に対する天動説の関係が指摘できる。科学知・理性知がしっかり根を下ろした現代社会でも、我々は日常生活では天動説に即した観念――「朝日が昇る」など――を捨てないでいる。2004年2月に行なわれたある調査では、小学生の四割が「太陽は地球の周りを回っている」と信じている(2004年4月12日付『読売新聞』記事「太陽は地球の周りを回っている…小学生の四割」)。こうして欧米的文明社会においてさえ、大人の世界では地動説が承知されつつも、子どもの世界ではけっこう天動説が愛好されているのだ。あるいはまた、大人の世界ですら、我々は現在のところ理性知や科学知の視座から地動説を認めつつも、実際には経験知や感性知の視座から天動説にしたがって生活している。頭脳は地動説を承認するものの、身体は天動説を心地よく受け入れるのである。地動説すなわち科学知からはとうてい承認しがたいものの、現代人は、日常生活ではすっかり天動説すなわち経験知に依拠して生活しているのである。

その際、経験知や感性知の立場を前近代的と見なして拒否するのでなく、これを知の体系の一方の極に据えて、また他方の極に科学知や理性知をおき、双方を交互的な運動や相互的な往還といった動的なサイクルに位置付けしなおし、総合していくことが意味をもつであろう。その先に見えてくる新しい知について、私は「歴史知」という術語をあてがっている(石塚正英『歴史知と学問論』社会評論社、2007年参照)。清家は、そのような立場に近しい文章を記している。

「本書は、『交換する動物』としての人間という視角から、近代という時代の牽引者でもあった経済学的なホモ・エコノミクスとは異質な重層的な人間像を提示することを目的としている。」「それとともに『交換する動物』としての人間像の解明から、現代の危機の在り処を照らし出してみたい。」(はしがき3頁)

「本論文が扱う社会的交換形式は、主として以下の四つを想定している。それは『贈与(互酬)』『等価交換』『資本制交換』『再配分』である。」「本書の主題は・・・それらの諸交換形式の『重層的な相互関係』とそれによって産出される『重層的な主体性』を明らかにする事にある。」(序論11頁)

「その重層的な諸交換形式の在り方は『贈与(互酬)』を一階とし、その上に『等価交換』、さらにその上に『資本制交換』が折り重なる三階建ての建物としてイメージすることができる。そして『再配分』は、それらの交換形式によって形成された社会的諸関係を垂直に貫き、人々の相互作用の中からコミュニティのまとまりを作りだす。」(序論13頁)

「現代を生きる人間像は、複数の社会的交換形式の作用に横切られ、その効果によって複数の性格を刻み込まれた『重層的主体』である。」(序論13頁)

清家は、複数の社会的交換形式の一つとしてトロブリアンド諸島の儀礼的交換方式「クラ」を取り上げている(22頁~)。文化人類学者マリノフスキーは、1910年代にオーストラリアやニューギニアで数々のフィールド調査を行なった。その際彼は、ニューギニア東端に位置するトロブリアンド諸島に残る一種の交換経済に注目し、著作『西太平洋の遠洋航海者』(『世界の名著』第59巻、中央公論社、1967年所収)の中で、その成果を記述した。そこに読まれる「クラ」という交換方式は、現今風に謂えば一種の地域貨幣をもちいたものである。マリノフスキーが前掲書で語る「クラ」について、少々長いが以下に引用しょう。

①クラとは、部族間に広範に行なわれる交換の一形式である。それは、閉じた環(わ)をなす島々の大きな圏内に住む、多くの共同体のあいだで行なわれる。この環は……ニューギニアの東端の北および東にある多数の島を結ぶ線によって表される。このルートにそって、二種類の、また二種類にかぎる品物が、つねに逆の方向に回りつづける。/このうちの一つの品物は、つねに時計の針の方向に回っている。すなわち、ソウラヴァと呼ばれる赤色の貝の、長い首飾りである。逆の方向には、もう一つの品物が動く。これは、ムワリという貝の腕輪である。/これらの品物はそれぞれ、閉じた環のなかを動いていくあいだに、種類の違ういろいろな品物と出あい、つねにそれらと交換されていく。……品物のどちらをも長期にわたって所有しつづけることはない。(146~147頁)

②クラは不安定な、内密の交換形式ではない。まったく逆で、神話に根ざし、伝統的な法にささえられ、呪術的な儀礼にとりかこまれたものである。(150頁)

③(クラで行なう交換の――石塚)この共同関係(パートナーシップ)は、若干の形式をふくんだ一定のやり方で結ばれ、終生の関係をつくりあげる。……二人のクラ仲間は、おたがいにクラをする義務があり、そのおりに他の贈物をも交換する。

④二つの重要な原理、すなわち、クラはある時間の間隔をおいてお返しのくる贈物であること、および、等価物の選択は与える側にあり、これを(受け取る側が――石塚)強要することはできず、また値を争ったり、交換を取り消すこともできないことの二つが、あらゆる取引きの根底にある。(163頁)

⑤なかば商業的、なかば儀礼的な交換であるクラは、ものを所有したいという深い欲望をみたそうとして、それ自体を目的として行なわれるのである。しかし、ここで注意せねばならないことは、それが、普通の所有ではなく、特殊な型の所有であって、二つの種類の品物を短期間だけ相互的に所有することである。所有の状態は、恒久性の点では完全ではないが、その代わりに、つぎつぎと所有する人の数の点ではたいしたもので、累積的所有とでもいったらよかろうか。(332頁)

清家が「クラ」に注目した意味は、重層的な諸交換形式の一階を明らかにすることだ。では、二階、三階はどのような事例でいかように説明されているだろうか。

二階すなわち「等価交換」の構築は、国家の創生、労役や貢納を課すが、しかし下位の部族社会での互酬は崩さない「一者の支配」をもって始まる。あるいは国家間の交易、商品の流通の活性化、東地中海沿岸地域に於ける鋳造貨幣の登場、ギリシアにおける実在抽象の哲学、蓄財術=商人術の開始とともに始まる(84頁~)。さらに、元来はキリスト教的互報性=パンと葡萄酒による神との交換=儀礼に起因するものの、中世カトリックにおける地獄落ちの者の煉獄による救済と「適切な利子」(96頁~)による交換の質的転回から産出されるのである。

さらに三階すなわち「資本制交換」は、国民国家あるいは近代市民社会の生成とリンクして構築される。その過程で、貨幣を媒介にした交換、自我をも抽象化する交換は、ジンメルのいう「公正(Gerechtigkeit)」、レヴィナスのいう「正義のメディア」を産み出すのである。こうして市民社会において「交換の正義」が社会の原理となるのである(114~116頁)。清家は、ゾーン・レーテルほかを援用しつつ「貨幣を媒介にした等価交換の効果によって、商品を排他的に占有する相互に独立した私的所有者としての法的な”personne(人格)”が成立可能になる」(120頁)とするのである。

その際、清家は、近代市民社会を2種に区分し、次のように結論づける。「資本制交換によって牽引される物質的再生産の領域である”buergerliche Gesellschaft(市民社会)”と、物質的再生産の領域に対する意識的な反省形式であるコミュニケーション的行為によって営まれる”Zivilgesellschaft(市民社会)”は、いわば等価交換から産出されるコインの裏と表として不可分の関係にある。」(180頁)また、マルクスに引き付けてこうも結論する。「マルクスにとって資本主義とは、物神崇拝の一形態である。物神崇拝としての資本主義において、資本とは世俗の神であり、資本家とは、世俗化した宗教の祭司であり、労働者は神に捧げられる犠牲の身体にほかならない。」(149頁)

以上、私なりに清家の議論を辿ったが、最後に清家のいう「再配分」を検討する。これは一階から三階までの重層的な構築物を垂直に貫き「人々の相互作用の中からコミュニティのまとまりを作りだす」ものである。全体を貫くのだから、全体に妥当するものを意味する。一つは「互酬」である。「実際のところ貨幣に媒介された等価交換は、あくまで自然の贈与や家族の互酬性を土台にして展開されている派生的現象にすぎない。」(145頁)いま一つは「犠牲」である。「祭祀・互酬共同体を論じる際にも、『インセスト・タブー』という断念や「供犠」などの犠牲が、その成員たちに要求されていることを指摘した。近代以前の祭祀・互酬共同体は、数々の贈与を要求する犠牲のシステムであった。ジンメルがいうには、財を生産するために要求される自然に対する労働もまた犠牲の行為である。」(140頁)清家は、アダム・スミスも労働を犠牲と捉えているとしつつ、互酬と犠牲をもって「再配分」のたて軸を設定するほか、「租税」をも事例に列記する。「租税国家としての国民国家は、市民社会を構成する成員から租税を徴収し、それを『再配分』することによって拡大した一つの共同体として社会統合を達成する。『再配分』という垂直的な財貨の流れは、実質的に租税国家が担う『国家行政(Polizei)』によって行われる経済政策や社会政策として具体的形態を与えられる。」(165頁)

3.本書を将来に活かすには

歴史知を知のパラダイムとする私は、もし<近代の超克>がなされれば、貨幣は神々=フェティシュ(存在者)にもどると思う。私は、つとに19世紀の社会主義者プルードンとヴァイトリングの交換銀行論に注目してきた。彼らはともに貨幣の廃止を説いた。ただし、二人とも一気に貨幣を廃止しようとはせず、まずは貨幣に備わる二つの役割――交換と蓄財――のうち、蓄財を否定して役割を交換のみに限定しようとした。それを目的にしてプルードンもヴァイトリングも、第一に貴金属貨幣を排除して労働紙幣を発行する無償信用(無利子)の銀行を設立しようと考えた。交換銀行ないし為替銀行である(石塚正英『社会思想の脱構築―ヴァイトリング研究』世界書院、1995年参照)。

そのように限定された交換は最後の晩餐におけるイエスのパンと葡萄酒のようなものである。中世キリスト教のパンと葡萄酒は儀礼の第二類型に相応しい交換=手段だが、イエスのパンと葡萄酒は儀礼の第一類型に相応しい交換=媒体である。手段は目的に従属するが、媒体は目的そのものと一致する。中世以降キリスト教会のパンと葡萄酒は<想像の見立て>に過ぎないが、使徒とともに食するイエスのパンと葡萄酒は<実現の見立て>である。後者において、最後の晩餐はカニバリズムの予告である。イエスの血肉を以って神と人は交換するのである。

清家も話題にするフランクフルト学派は、鋭敏にも、ギリシア・ローマ以来の文明社会に疑いを突き付ける。成立事情からして、市民社会は文明社会である。ヨーロッパの文明社会は、まずもって「啓蒙」というクッションを設定することで、非ヨーロッパの自然的社会  を踏み台にし、同時に、人間による自然の支配を前提条件として拡大してきた。そればかりか、20世紀になって、市民社会において人々は、外なる自然のみならず内なる自然をも支配・搾取しはじめた。いまや、これまでの市民社会を克服して、自然との共生を可能とするような社会観・人間観の樹立が必要になっている。私たちは、このフランクフルト学派の世代の延長上に生きている。すなわち、自然と共生できる人間、あるいは未来の人類と共生できる人間の育成に努めだしたのだ。この動向は、例えば、国連・環境と開発に関する世界委員会(ブルントラント委員会)が1987年に打ち出したスローガン「持続可能な開発(sustainable development)」に、如実に表明されている。ここにきて、近代ヨーロッパで生み出され問いかけられてきたさまざまな人間観に対する、ありうべき一回答が示唆されたのである。人々は、自然をも人格ある存在者、人権を有する市民とみなすという、一種のヴァーチャル・リアリティを自明の前提とし、さらには、環境倫理学の立場を尊重しつつ、外なる自然および内なる自然と共生する人間という見方を確立すべきなのである。

動物の血肉はイエスの血肉である。私にとって、ミメーシスとは<想像の見立て>でなく<実現の見立て>である。模倣でなく成切りである。カンガルーの毛皮を着て踊るカンガルー・トーテム人は、こうしてカンガルー神に一致するのである。そのような意味でのわがミメーシス観を清家は了解してくれそうである。曰く、

「本書は、新たなコミュニケーションの流れを生ぜしめる主体を『相互主観的なミメーシス的主体』として捉える。・・・ミメーシス能力は、他者そのものを認識しようとするため、硬直した概念の同一性をも超えた、微細な認識を可能とする。それゆえミメーシスという能力は、生活世界を異にする人々の間のコミュニケーションの流れを生み出してゆく基盤となる。このようなミメーシス的主体が、相互主観的に、身体の制約を超えて意識を拡張する電子メディアに媒介されることによって、新たなコミュニティ形成の運動を始動させている。」(196頁)「ミメーシスは、人間同士の連帯を超え、自然との和解をも可能とする融和の願いが込められていた。」(248頁)「万物を含めたあらゆる他者へと共鳴するミメーシスという心的働きがある限り、われわれは、隣人と手を携え、人間的な生をも超えて受苦者たちの姿に応答し、犠牲のシステムに対する批判と連帯の歩を止めることはない。」(249頁)

なお、最後に批評を三つ加える。第一は「犠牲」に関してである。フェティシズムの儀礼に犠牲は介在しない。祭壇で殺される動物は、別の神にささげられる生贄ではない。フェティシュは神そのものである。神々が殺されるのである。対して、神々の代理である偶像(イドル)は生贄を求める。フェティシュとイドルの違いは決定的であって、それはド・ブロス『フェティシュ諸神の崇拝』(杉本隆司訳、法政大学出版局、2008年)を読めばよく分る。また、ド・ブロスに依拠した石塚正英『フェティシズムの信仰圏』(世界書院、1993年)を読めばよく分る。

批評の第二。清家は近未来のコミュニケーションにとって「身体」は「制約」であるかのように捉える。「身体の制約を超えて意識を拡張する電子メディア」というような表現がそれを裏付ける。しかし、電子メディアは身体それ自体の拡張である。電子メディアは従来の身体観を変容させたのである(石塚正英『複合科学的身体論』北樹出版、2004年参照)。いずれにせよ、人間と人間、人間と自然の共生を実現する結節点は身体なのであって、これを介さない交換はありえない。ときおり、身体を介さないブレイン・マシン・インターフェイスをコミュニケーションの理想とする主張に接するが、あきれるばかりである。

批評の第三。私は目下フレイザー『金枝篇』(国書刊行会、2004年~)の完訳監修をしているが、その際、以下の点に気をつけている(日本語版監修者解説から)。①「未開人(savage,)」「未開人(primitive man)」は「野生人(自然に即して野に生きる人の意味)」や「先住民」などの訳語を使う。「未開」という概念は文明の側で造られたもので、21世紀的妥当性はない。②国家を形成するに至らないような少数民族の名称に記される「○○族」の「族」を使用しない。「○○人」あるいは「○○の人々」とする。「族」という概念は国民国家の側で造られたもので、21世紀的妥当性はない。

清家は「未開社会」を頻繁に使用するが、それは著者の今回の学位論文の精神には不釣り合いと思う。

 〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study433:120114〕