TPP参加と日米首脳会談と

前の民主党政権時代からすったもんだの議論が続いていた環太平洋経済連携協定(TPP)への交渉参加をめぐる問題でようやく決着がついた。安倍晋三首相が3月15日、交渉に参加することを正式に表明、事態は交渉の中身に議論の焦点が移ることになる。

胡散臭い「日米同盟強化」

自民党は先の衆院選挙で「聖域なき関税撤廃を前提とした交渉には参加しない」という公約を掲げていた。交渉への参加を決めたのは表向き、その公約を守れる見通しがついたから、ということらしい。しかしこの主張はどこか、胡散臭い。安倍首相は2月の日米首脳会談のあと、「首脳会談で、聖域なき関税撤廃が前提ではないことが明確になった」と説明していた。が、これは首相が自分に都合よく解釈した一方的な思い込みではないかと疑われるからだ。

日米首脳会談で公表された「共同声明」はTPPについて「(日本は)すべての関税撤廃を(交渉参加前に)あらかじめ約束するよう求められているわけではなく、すべては交渉で決せられる」と述べている。声明を素直に読めば、交渉に参加したあとは「すべての関税撤廃を求められることも十分ありうる」と解釈することもできなくはない。この程度のあいまいな文言を基に、聖域なき関税撤廃を前提とはしないことが「明確になった」と断言できるのかどうか。

それに、「聖域なき関税撤廃」の有無だけがTPPへの交渉参加の可否を決める要因ではない。TPP交渉への参加は農産物の関税撤廃問題だけでなく、保険や金融の規制緩和や食品、自動車の安全基準の緩和など、国民生活のさまざまな部分に関わる問題を含んでいる。なのに、あたかも「聖域なき関税撤廃」だけが交渉への参加を左右する決め手であるかのように政治家が言い募り、メディアもまったく同じような視点でTPP問題を伝えている。問題のとらえ方がどこかいびつになっているように見えてならないのである。

そもそも、日米首脳会談の報道も胡散臭かった。日本の新聞はおおむね、安倍首相がオバマ大統領との会談で「日米同盟の強化」を実現し大きな成果をあげたかのように伝えた。産経新聞は社説で「日米同盟を名実ともに強化することで合意したことを高く評価したい」(2月24日)と書いた。読売社説は「安倍首相に対する米政府の期待の大きさが鮮明になった」(2月24日)と、首相を持ち上げた。読売はさらにTPPについて、「指導力を発揮し、TPP参加へ国内調整を急がねばならない」と首相に促している。

無批判に首相に同調

しかし首脳会談は、日本の新聞が書きたてたほど、大きな成果があったのだろうか。米国側は安倍首相への熱い期待を表明したのだろうか。オバマ大統領と安倍首相が大統領執務室で記者団の前で交わした短いやり取りの映像を見る限りでは、日米同盟の「信頼と強い絆が完全に復活した」と、「確信をもって宣言」したのは安倍首相のほうで、オバマ大統領は日米同盟が「アジア太平洋の安全の中心的な基盤だ」と、これまでの米国側の認識を淡々と述べたに過ぎない印象だった。

それを「『強い同盟』の再構築をめざす新たな出発点を(首脳会談で)確認した」(産経社説2月24日)と評価するのは、日本側の一方的な思い入れに思われてならないのである。それを裏付けるように、本来なら行われていいはずの両首脳による共同記者会見は行われなかったし、「実務的な昼食会」が晩さん会にとって代わった。会談翌日の米国の有力紙の紙面にも、日本の新聞報道に表れたような熱気や強い関心は見て取れなかった。

もっぱら「聖域なき関税撤廃」という文言に注意を払っていたかに見えた日本の新聞報道は、TPP参加の是非という目前の課題に目を奪われ、国内政治の動向ばかりを見据えた、きわめて内向きの視点に基づくものだった。日米関係をより長期的な視点からとらえて、首脳会談の問題点を的確に指摘していたのは、むしろ海外のメディアだった。

そのうちの一つ英誌『エコノミスト』(3月2日号)は、首脳会談を自画自賛した安倍首相に「(日本の)政治家やメディアが無批判に同調した」と書き、米国側は日本の新しい指導者に「期待」よりも不安を抱いていることを指摘している。同誌によると、オバマ政権は安倍首相の歴史認識や対中国政策に懸念を抱いており、とくに「尖閣諸島をめぐる日中間の軋轢が手に負えなくなりかねず、下手をすれば米国まで巻き込む可能性があるときに、安倍首相の真意をはかりかねている」という。「オバマ政権側に信頼の問題があるとすれば、安倍首相自身の信頼性が問題かもしれない」との指摘は、日米間の「信頼と強い絆が完全に復活した」という安倍首相自身の言葉とはまるで正反対の思惑が米側にはありうることを示唆している。

当局頼りの報道

日米首脳会談を日本のメディアは特大の扱いで伝え、米側のメディアはあっさりと、時にはまったく無視する、という報道のパターンは、いまも30年前、40年前とほとんど変わらない。戦後、日本にとって米国が外交上も政治、経済上も強大な影響力を持っていた時代には、それも仕方なかった。が、日本が世界第2の経済大国になった1970年代以降も、日米首脳会談の報道に限ってみれば、報道のパターンは不思議なほど変わらない。おそらく、日本側の政治とメディアの世界に、何事につけしばしば米国を過剰に重視する、米国頼み、米国頼りの心理が抜けていないからだろう。

日本のメディアが日米首脳会談を内向きの視点から一面的に報道しがちな原因の一つは、取材・報道の構造的な問題にもある。ワシントンで行われる会談ともなれば、首相番記者のほか、外交、経済担当記者ら大勢の記者が、日本から首相に同行する。会談の中身やその周辺の情報は、首相官邸や外務省の報道官が逐一、同行記者団に提供する。記者団はほとんどその情報だけを頼りに、日本への記事を執筆、送稿する。米政府側の見方や第三者の視点に基づく情報は、当局の提供する大量の情報に押されてニュースに割り込む余地がほとんどない。結果として、日本の読者、視聴者は当局提供の情報に基づく同じようなニュースを読まされ、見聞きさせられることになる。

こうした、日米首脳会談報道の仕組みは、この何十年、ほとんど変わっていない。今回の首脳会談でも、TPPをめぐる「聖域なき関税撤廃」問題に大きな比重を置いて報道され、『エコノミスト』が指摘したような米側の懸念に言及する報道はあまり見当たらなかった。限られた視点からの一面的な情報や見方を横並びで伝える報道は、読者、視聴者に対して十分にメディアとしての責任を果たしているとは言えそうにない。

重いメディアの責任

政府が交渉への参加を正式に表明したとはいえ、実際に日本が実質的な交渉に加われるのは夏以降になる。しかも先に交渉を進めているTPP参加十一か国は、今年中の交渉終結を目指している。多分野にわたる複雑な交渉をまとめるのに十分な時間が残されているとも思えない。後から参加する日本は、すでに合意された事項については自国に不利なものでも受け入れざるを得ないという。交渉で日本に認められる選択肢はおのずと限られるだろうし、イニシャティブを発揮できる範囲もそれほど広くはあるまい。

安倍首相は参加を表明した記者会見で、交渉に当たっては「国益を守る」意思を繰り返し強調した。「交渉参加は国家百年の計」とも言った。しかしそれだけ重大な国の政策決定に先立って、TPPをめぐって政治はどれほど真剣な議論を国民の前でしてきたか。メディアはどれだけその背景や問題点を市民に丁寧に提示してきたか。交渉の今後を見守るメディアの責任は、一段と重い。

日米首脳会談を足掛かりに一気にTPP交渉へと動き出した安倍政権は、「国益」という重荷を背負って、複雑な外交交渉の袋小路に足を踏み入れたように思えてならない。

初出:{メディア談話室}(『メディア展望』2013年4月)より許可を得て転載。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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