10/10 現代史研:内田論文へのコメント

内田論文へのコメント   青山雫 2015/10/10 現代史研

文法に従った言表はそれだけでは必ずしも真ではない

 対称性、それがナニか?So what

 体系的な言表はすべからく何らかの文法に従っている

   スピノザ エチカ  神の存在証明

 

資本論

労働価値説;直接単純労働だけが価値形成。イノベーション、マーケティングなどの価値を全く認めない

価値形態論;商品の中から貨幣が生まれ、資本に発展する。1971年金本位制の人為的廃棄

この二点において現代資本主義分析にはまったくの無用の長物。

 

だが、マルクスという19世紀に生きた共産主義知識人の発想を知る上では極めて面白く、それなりに奥深いものがある。

 

マダム・クイックリを手掛かりとする資本論新解釈の可能性

価値形態論移行規定

「商品の価値対象性はマダム・クイックリと違って、どこをどう捕まえればよいのか分からない」

シェークスピア 「ヘンリー4世」の一幕

Falstaff: Why, she’s neither fish nor flesh ;a man knows not where to have her.

Dame Quickly; Thou art an unjust man in saying so; thou or any man knows where to have me; thou, knave ,thou!

Falstaff:老いぼれ三流貴族。居酒屋の常連。Dame Quicklyと臭い仲?

Dame Quickly:女将 quickly:お手軽な女の意

have:多義的 掴む、理解する、食べる 意味を限定するならget、grasp、understandなど使うはず。シェークスピアの遊び心。

 

交換過程論 ゲーテ、「ファウスト」からの引用 初めに行いありき・・・

 

到る所に謎かけをしているようにも見える。教養がないと理解出来ないぞ、と上から目線?

 

19世紀的知識人の気取り

ただ赤旗振ってばかりの過激派の頭目ではない

シャレも分かるし、ヨーロッパ文明の成果の総体を引き受けた上で、人類の共産主義社会への移行を説いているのだ、というアッピール。それが資本論を独特に彩っていると見れないか。

 

哲学史的に見てもアリストテレス、スピノザ、フィヒテ、ヘーゲル云々への言及。カントは意外に少ない??

 

文学的素養の開陳

もちろん経済学説史的な考察が一番のウェイトを占める。

 

資本論=科学的社会主義の集大成

 

19世紀は自然科学の古典的隆盛期。

経済学も自然科学とくにニュートン力学に範形を求める。リカード体系。労働価値説=質量論

 

マルクスも大きく言えばその流れの中にある。当時の最先端の自然科学へのすり寄り。

初版序文 経済的細胞形態、化学試薬、顕微解剖、「抽象力」

物理学方法論 撹乱要因の排除、純粋、典型

資本主義の運動法則 自然科学的、絶対必然の鉄の法則(青銅?)

マルクスとしては思い切り最先端の自然科学、とくに物理学=ニュートン力学にお手本を求めたつもりで、自信満々だったのが、「観念論」「ヘーゲル弁証法」の烙印押されて再版後書で居直り。

ヘーゲルへの帰依をカミングアウト。ヘーゲル弁証法の唯物論的転倒。物理学的世界観にやや譲る形。→ロシアマルクス主義的解釈の一源泉。

実際は物理学的物質を主体=実体に置いたのではなく、そこに「人間労働」が置かれている。

 

大きく言ってリカードゥ体系=投下労働価値説にニュートン力学的インプリケーションを認め、その上向的展開に弁証法が活かされるのではないか、と資本論準備過程(グルントリッセ)で思い至ったのではないか。

 

ニュートン力学+ヘーゲル弁証法 

そこに資本論に結実するマルクスの面目があるが、同時に解決困難な問題を引き寄せることに。

冒頭商品章での価値実体の検出

使用価値を捨象して、交換価値を二商品間の等号=関係に置換。人間労働をニュートン力学の質量と同視する位置付け。すべての商品は人間労働=質量関係に置かれて同質化、平等化される。

全く平坦で揺らぎの排除された世界が現出。そこにそれを超える組織性が発現する潜勢力を見出すことは極めて困難に。

 

しかし、プルードン派や古典派経済学への批判として、資本主義の歴史的形態規定性を論証する必要に迫られる。

貨幣の必然性がその第一歩。それが価値形態論。

同質で平等な世界に非対称性=貨幣形態が生成してくることを論証することは原理的に無理。

無理を承知でコジツケを強行。

価値の実体=人間労働は純粋に社会的単位、だから商品の社会的関係に現象する。;言葉の遊び

価値表現:等価形態の使用価値で表現。あれれ商品の交換価値は「使用価値の捨象」ではなかったのでは??

拡大された価値形態=第二形態の逆転で一般的等価形態へ移行。平等な商品世界で特権的=排他的に一般的等価形態が成立することを説くことの困難に逢着。

初版では一般的等価形態の否定で価値形態論は終わる。なので交換過程論で商品所有者の行動論にその解決をゆだねるが、依然として同型の困難に突き当たる。

再版ではその問題を価値形態論ではシカト。交換過程論にはそのまま残存。

ファウストからの引用。「初めに行いありき」これが論証なのか??

 

内田説の誤謬

拡大された価値形態の逆転を、n種類の商品の拡大された価値形態がn種類あるから、それぞれについて逆転の確率が1/nでn種あるから1/nXn=1、つまり一般的等価形態の成立確率が1。よって必ずどの商品と特定は出来ないが、一般的等価形態の成立は必然である。

命題の定式が間違っている。

「n種の商品の拡大された価値形態のうちどれとは特定できないが、必ずただ一つの商品の拡大された価値形態が排他的に逆転する」を成立している命題として前提すれば、ある商品の拡大された価値形態が逆転してその商品が一般的等価形態の位置を占める確率は確かに1/nでそれがn種類あるから1/nXn=1になるが、出発点の命題が成り立つのかどうかが価値形態論で問われている。資本論ではどの拡大された価値形態も逆転する可能性があるのを認めざるを得なくなり、シカトしてしまう。

 

正しく定式化するならば、0種類逆転、1種類だけ逆転、2種類だけ逆転、m(0≦m≦n)だけ逆転の可能性があるので、それぞれについての場合の数の総計、すなわち1+n+(n-1)/2!+・・・+m!/(n-m)!+・・・1を分母として、そのうち1種類だけが逆転する場合、すなわちnを分子とした割り算をすべきで、分母は明らかにnより大なので結果は<1、つまり必然ではない。

高校2年生レベルの数学の話。大人のする議論ではない。

 

貨幣の資本への転化

カント的アンチノミーへの批判??

単に古典力学的な均衡論世界像を商品世界に持ち込んだことで惹起された疑似問題。

転変間断・均衡なき資本主義世界を記述するのに、古典力学的世界像を持ち込んだことによる困難。自作自演。

カントアンチノミーも古典力学的世界像から生じてくる。

空間は有限であると同時に無限である。

リーマン幾何学からすれば、三次元宇宙は仮に光速で移動したとしたら、出発点に戻る。球面上の移動に類似。有限であると同時に無限。閉じた空間。

 

「対称性」で回収できない資本論の論理的な不整合、飛躍、コジツケ、そこにこそじっくりと読解する価値がある。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study661:151010〕