12月12日世界資本主義フォーラム:青才高志氏-「株式資本論」に期待すること

12月12日(土)の世界資本主義フォーラムで青才高志氏が「株式資本論」について話してくれることになった[文末に案内]。

「世界資本主義フォーラム」はマルクス経済学者・岩田弘の学問の継承を原点とする広場(フォーラム)であるが、「株式資本論」は、岩田「世界資本主義論」が宇野「純粋資本主義論」から抜け出て新たな資本主義論を構築する際の、要石に当たる。青才高志氏の「株式資本論」に期待する所以である。

岩田「株式資本論」の要諦は、「(株式会社は)社会的な資金を集めて(重工業化による)大きな固定資本に投資するための形式ではない。固定資本の巨大化によって価値破壊できなくなった現実資本の価値を利子率で還元[割り算する]して貨幣資本に擬制するための形式だ」という点にある。

青才氏によれば、「株式資本論」についてのこうした見方は、マルクス経済学の世界では以前からあり、他人資本の自己資本化[資金調達の「出資」化](河合)か、自己資本の他人資本化(馬場)[自己資本の動化モビライズによる「資金」の動員]か、というかたちで論議されてきたという。

岩田「株式資本論」は「自己資本の動化モビライズ」論の線上にあるが、この論争の枠にとどまらぬ意義を持っている。それは株式資本が世界資本主義の産業資本主義段階から金融資本主義段階への移行を用意した、という意義である。

青才氏は、岩田「株式資本論」を継承しつつも、そこに含まれる曖昧な点を問題にする。曖昧な点とは、第一に、株式資本の二つの機能――「動化」と「動員」――の関連についてである:

株式資本の種差は,本源的には,「(利潤を求める)資本の動化」にあるが,その上に[「その後に」ではなく,「その上に」]「(利子を求める)資金の動員」がのっかり,株式資本の成立を通じて長期資金供与を困難とする信用の限界は突破される。

第二に、現実資本に対する「擬制資本」としての「株式資本」の価値、つまり「株価」が、「企業の利潤を利潤率で還元」した価格か、それとも「株式配当を利子率で還元」した価格か、という問題である:

株式流通が,-面において「資本の動化」であるとともに他面において「資金の動員」である限り,株式の売買価格(株価)は,一面において利潤を利潤率で割った価格であるとともに,他面において配当を利子率で割った価格であることになる。

岩田「株式資本論」では、現実資本のレベルでの利潤率の均等化が、固定資本の巨大化によって妨げられ、貨幣資本の利子率の均等化によって擬制的に実現する(だけ)とされる。したがって株価は「利潤を利子率で還元」したものとされる。

青才氏はこれに対して、「利潤全体を問題にするという岩田株価規定の意義を継承しつつそれを批判的に改作する」として、次のように批判する:

「利潤全体」が問題になるとすると,その場合には「利潤率」が問題になるしかなく,岩田氏の言うように「利子率」での資本還元が問題になるとすると,その場合には「利潤全体」ではなく「配当」(将来の配当増大の予想も含めて)が問題になるしかない,ということを主張するものである。

利潤か配当か、利潤率か利子率か――こうした混乱が生ずるのは[というより、これを混乱と見るのは]、経済学の方法における原理論の位置づけに関連するように思う。利潤、利潤率、配当、利子率といった用語は、原理論の概念を表しているのか、資本主義の現実的過程を表しているのか。いずれともとれる。

宇野弘蔵は、原理論を資本主義の歴史的過程から離れた「純粋資本主義論」として構築し、岩田弘はそれに対して、資本主義の現実的歴史的過程の内的論理を模写した理論として原理論を構築した、ということになっている。

宇野弘蔵『経済原論』も「株式資本」について次のような規定を与えている:

産業資本も株式形式をもって形成され、その運営によって得られる利潤が、株式によって配当として分与されることになると、資本は、この配当を利子として資本還元される擬制資本を基準として、商品化されて売買されることになる。[宇野弘蔵、経済原論、岩波全書1964]

これだけ読むと、岩田「株式資本論」と同じではないか、と言いたくなる。しかし、宇野がここで言う「配当」や「利子」は、いつの時代のどの国の経済ということを離れた「純粋資本主義」モデルの中の話であり、重工業化や固定資本の巨大化や、集中合併といった歴史的過程とは無関係である。実際、宇野は、こうした「株式資本論」の延長に「金融資本」を規定することはできず、「産業資本」、「金融資本」といった規定は、原理論ではなく段階論で扱うべきだと、(註)の中で断っている。

では、宇野が原理論の中で「株式資本論」を説く必要性はどこにあるか?剰余価値の利潤、地代、利子への「分配」をもって資本の運動の全体像を完結させるためである。

このような「純粋資本主義論としての原理論」が資本主義の現実的歴史的過程の分析――段階論、現状分析――にとってはなはだ物足りないものであることは、2008金融恐慌を経験した今日、ますます痛感することである。

株式会社形式は、重工業の資本蓄積に新たな様式をもたらした、と岩田は言う。

※    引用は、岩田弘、資本主義経済の原理 http://www5e.biglobe.ne.jp/~WKAPITAL/genri-6.htm

 「1890年代後半の好況期から1907年の恐慌にいたる時期の重工業を基軸とする好況的発展期」の資本蓄積について「重工業の拡大を資本市場の拡張が、もはや鉄道投資を媒介にしないで、直接に支えていた」とし、その意義を「以前のイギリスを中心にする貨幣市場―資本市場―国際的鉄道投資―重工業という連関にかわって、貨幣市場―資本市場―重工業という直接的な連関が、資本主義的蓄積過程の主軸として登場するにいたった」と総括しているが、それはともかくとして、「貨幣市場の社会的資金が資本市場(鉄道証券、公債、重工業証券などの流通市場)を介して直接に重工業に投資資金として投ぜられる関係が成立」していたという指摘は、現代資本主義の分析を考える際、重要である。 1980年代後半以降の「金融のグローバル化」は、岩田が「1890-1907年の重工業の資本蓄積様式」として描いた様相[貨幣市場―資本市場―重工業という直接的な連関]とも質的にちがった姿へと発展しているからである。

まず、「資本市場」に流通する金融商品は、企業の株式・債券や政府公債だけでなく、住宅等各種債権の証券化商品、証券デフォルトに支払う保険金などさまざまな金融デリバティブであり、また、「資本市場」「貨幣市場」自体が国民経済の国境を越えた「グローバル市場」として形成されている。

それだけではない。資本市場・貨幣市場を論ずる以前に、今日、「貨幣」自体が、第一次世界大戦以前の国際金本位制時代の銀行信用貨幣とは大きく異なっている。金・ドル本位制が崩壊し、ドルの基軸通貨としての地位が年々低下し、「複数通貨の変動為替相場制」という不安定な国際通貨システムの上に、グローバルな「金融資本」――グローバル・マネー――が国境を越え経済的分野を超えて投機的に移動するようになった。グローバル・マネーは新興国にブームとバストをもたらし、日本やユーロ圏諸国のような先進国にも長期不況や世界恐慌突入寸前の世界金融危機をもたらしている。

 青才氏は「原論を現状分析の装置として再構築する。」とその経済学の目的を述べている。こうした新時代の「資本」の形態と運動様式を「株式資本論」の延長として解明することを期待したい。

1212日「青才高志・株式資本論」世界資本主義フォーラムのご案内

<矢沢国光>

●日時 20151212日(土) 午後2時~5時

●会場 立正大学品川(大崎)キャンパス 9B15教室[9号館地下1階]

 品川区大崎4216 電話0334922681

最寄り駅からの地図は http://www.ris.ac.jp/access/shinagawa/index.html

  キャンパス地図は   http://www.ris.ac.jp/introduction/outline_of_university/introduction/shinagawa_campus.html

●講師 青才 高志(信州大学経済学部名誉教授)

●テーマ :株式資本論の再構築―岩田弘の提起に学びつつー

※  参照文献

a「株式資本論の再構築」(SGCIME編『資本主義原理像の再構築』,御茶の水書房,200312月)

b「株式資本論について」(山口重克編『市場システムの理論』御茶の水書房,1992

c「岩田株式資本論の検討」(『信州大学経済学論集』,第48号,2002) 

https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/586/1/KJ00004011461.pdf

●資料代 500円。どなたでも参加できます。

● 問合せ・連絡先
矢沢 yazawa@msg.biglobe.ne.jp 090-6035-4686

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/

〔study681:20151209〕