1903年(明治36年)生まれの亡母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(2)

 晩年に購読していたらしい、二・三の雑誌

 1955年10月号の『婦人公論』は創刊四十周年記念特大号とある。目次で執筆者を一望すると、当時の女性作家、女性論者が総動員されていて、中央公論社時代の面目躍如の感があり、壮観でもある。創刊が1916年(大正5年)1月なので、大正から昭和の激動の40年間を駆け抜けてきた雑誌である。「目で見る婦人公論四十年史」は、大正6年10月の神近市子大杉栄刺傷事件(日影茶屋事件)から昭和30年8月6日原水爆禁止世界大会の広島大会会場の写真で終わるは40頁近いグラビアが圧巻である。窪田空穂選による「歌壇」があるはずなのだが、破り取られているのは、その頃から母が短歌を作り始めたのではないかと伺わせる証ではないか。別冊付録「女の一生100問100答」は残念ながら残されていない。

195510

 

195510_20241217152601


グラビアには、マダム・マサコによるフランスのヴォーグ紹介があるが、ここでもこれらファッションは、遠い憧れではなかったか。実用的で、働くイメージの強いファッションは今でも通用するのでは。

 1958年2月号『婦人指導者』は『婦人と教育』の前身らしい。この頃の母は、末っ子の私がすでに高校生で、長兄も結婚したので、家業や家事から解放された感があったのだろう。長兄が生まれるまでの数年間小学校教師をしていたので、もう一度学びたい、社会とのつながりを持ちたいと思い始めたのではないか。私の小学校時代はPTAのクラス役員などもしていたが、そのための外出を父親は快くは思っておらず、「また、行くのか」と嫌味をいわれていた記憶がある。また、1958年当時、ご近所の島田美恵子さんが主宰する「母親勉強会」にも入り、町内会の婦人部(?)にも顔を出し、夏祭りの出し物の踊りの指導などもしていたらしい。


暉峻とし子、山川菊栄の名も見える。さまざまな形の地域の婦人団体の活動報告が続く。


NHK第二放送で1957年10月14日から5日間にわたって放送された「女子教育史」が好評だったのを受けて、誌上録音し、その一回分が掲載されている。番組の冒頭では与謝野晶子「山の動く日来る」が朗読されたらしい。

  1959年7月発行の『土曜会会報』23号(土曜会、20頁)というサークル誌が残っている。ちょうどこの号には、1959年度の総会報告が掲載されていて、会員70名とあり、もう一つの会員アンケート紹介は、名簿も兼ねていて、住所・子供の年齢性別・職業・活動歴・会への希望が一覧できる。母は、「職業欄」に「時事問題に悩んでいる(安保、勤評)。教員をしている子も大学に行っている子もこれを中心に話すので」と記し、「希望欄」には、「時事問題などの講演を聞きたい」として丸岡秀子、市川房枝、伊藤昇、波多野勤子の名を挙げている。

 しかしこのサークル誌が発行された1959年の夏には、がんの手術をしたのだが、手遅れのため12月には、亡くなっているのである。その年の博文館の「当用日記」も残されている。夏以降、短歌の下書きや走り書き、もちろん家族のことはもちろんだが、病状と悪化への不安が綴られていて、読むのがつらい。

 母親は、何を学びたかったのか、何をしたかったのか、私には、それを尋ねる余裕もなく、母を見送ってしまった。もう少し長生きをしてくれたなら、私の最初の職場には、波多野勤子さんの『少年期』のその「少年」が、アメリカの国連勤務から帰国、教員になった大学に勤めていたり、二番目の職場では、丸岡さんの親戚がいらして、お宅に連れて行ってもらったり、近年は、市川房枝記念会ともご縁があって、『女性展望』に執筆させてもらったりして、現在は維持会員でもある。共通の話題が、たくさんたくさんあったのに・・・。もっともっとと話したかったのに。


メジロが盛んに来るようになった。皮まで食べ尽くしているんがわかる。ヒヨドリは、例年より少ない

初出:「内野光子のブログ」2024.12.17より許可を得て転載

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/12/post-c22532.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔culture1370:241218〕