1903年(明治36年)生まれの母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(1)

敗戦直後の雑誌2冊

 長兄の代になって実家が小さなビルに建て替えるとき、屋根裏の物置から母の遺品を持ち出したのだろう。12月の母の命日は過ぎてしまったのだけれど、手元に何冊か半端に遺された「婦人雑誌」を記録にとどめておきたい。当時の婦人雑誌は、A5判で60頁ほどで、ざら紙で劣化も著しく、スキャンするにも綴じが今にも崩れそう。いや崩れてしまっているものもある。

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 この『婦人倶楽部』(大日本雄弁会講談社、64頁)1948年7月号の「夏の新型スタイル集」、何と懐かしいファッションだろう、杉野芳子(右端中央に見える)のデザインらしい。こんなワンピースやブラウスを着ている人を、身近に見ることはまずなかった。グラビアと言っても白黒だが、水泳の兵頭(前畑)秀子とスケートの茨木(稲田)悦子の子育てさなかの写真であった。裏表紙の広告がおもしろい。家業は薬屋だったし、私は店番が好きだったので、薬や化粧品の名前や製薬会社にも覚えがある。仁丹、山ノ内、三共、武田などは今も健在であるが、クラブ乳液のクラブ化粧品は今のクラブコスメティックになり、バニシングクリームのマスターがいまのマスターコスメティックかは不明。当時母はまだ短歌を作り始めてはいないようなので、私の関心から、短歌講座「歌のこころ」というコラムは、名歌というよりは、子や妻との微妙な関係を歌った作品の鑑賞が興味深い。ちなみに、このコラムの右側は、芹沢光治良の「新婚」という連載物の最終頁である。

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 『婦人界』(婦人界社、64頁)の表紙絵は志村立美。当時は、おゃれをしようと思えば、洋裁や和裁のできる人に仕立ててもらうか、自分で縫うしかなく、必ず型紙が付つけられていた。ここでもデザイン杉野芳子、田中千代が活躍する。つぎの斎藤茂吉の巻頭言のカットが中川一政である。

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左頁下段が目次、上段が茂吉の「白玉の憂ひ」と題して伊藤左千夫の

・白玉のうれひをつつむ戀人がただうやうやし物を云はなく

を引き、豊麗な肉体にこもる日本女性の情調を詠んだものとし、健康な女体の美を称えている。読みものでは、美濃部達吉の妻、美濃部多美子の「夫とともに歩んできた道」では、達吉が詠んだ短歌も紹介されていたのである。息子の美濃部亮吉の孫を大層可愛いがっていたそうで、つぎのような歌を孫への手紙に書き添えていたという。

・夏木立しげれる宿にかはらねど幼き子等の聲は聞こえず

 また、自宅に上げた客が暴漢と化して達吉は銃に撃たれ、入院するが、そのさなか、1936年2月26日2・26事件が起きたが、つぎのように詠んでいたという。

・我はただ我行く道を歩むなりいかに嵐はあれくるふとも

 なお、中河幹子選の短歌欄と中村汀女選の俳句欄は、最終頁に掲載されている。一等賞金100円、この雑誌が40円だから3か月分にもならないが。

初出:「内野光子のブログ」2024.12.16より許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

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