ちょうど、73年前の4月13日の夜から14日の未明、東京池袋の私の生家は、城北空襲で焼け落ちた。母と小学生の次兄と3人は、すでに、千葉県佐原の母の実家に疎開していたのだが、薬局を営んでいた父と薬専に通っていた長兄が被災し、命からがらに川越街道を走りに走って、ひとまず、知り合いだった板橋の農家にお世話になったという。
当時は、電話もない、大本営発表のラジオニュースだけが頼りの時代であった。安否は何で確かめたのだろう。その空襲から数日後だったのか、親類が営んでいた佐原駅前の食堂で、憔悴しきっていた父と長兄を迎えたことは覚えている。父が、池袋から佐原を訪ねてくることはそれまでも何回かあったようなのだが、その都度、かならず、森永のキャラメルとかサクマのドロップとかをお土産に持ってきてくれたことも覚えている。その日も、私は、そんなお土産をねだったのだろうか、父が、持ち帰った、たった一つの小さな肩掛け鞄の焼け焦げた角を指して、家から何一つ持ち出すことができなかったという意味のことを聞かされたかすかな記憶もよみがえる。
こんなことを思い出したのは、実は、昨日4月12日、ある法律関係の雑誌のインタビューを受けていたからだ。これまでのいくつかの市民活動でお世話になっていた弁護士のTさんの紹介での企画だったらしい。インタビューアーの弁護士Mさんは、これまでも雑誌でのインタビュー記事の百数十本をこなされているベテランである。もはや、私は、まな板の上のコイなのかもしれない。
どういうわけか、東京の空襲時の話や私の進学時や就職・転職時、さては子育て時代に苦労した話や短歌との出会いという、かなりの昔話に花が咲いた。Mさんも女性が仕事を続けることへの関心が高かったのかもしれない。さて、どんな記事になるのかしら。
そして、今朝、『東京新聞』28面の「きょう城北大空襲 桜 戦争と平和」という記事に出会った。家を焼かれた被災人口64万人、死者約2500人であったという。
東京の空襲は、1944年11月24日の中島飛行機武蔵製作所から始まり、連日、家屋を焼き、死者を出し、1945年8月15日の敗戦の日の青梅空襲まで続く。1945年3月10日の下町大空襲の死者は10万人ともいわれ、5月25日の山の手大空襲も7000人以上の死者を数える。
本ブログにもかつて掲載したこともあるが、我が家の「罹災証明書」を再掲したい。また「国債貯金通帳」をスキャンしてみた。
この「罹災証明書」によれば罹災日4月13日、証明書の発行日が4月14日になっているが、当時池袋警察署は無事だったのか、調べてみると、やはりや4月13日には焼け出されていて池袋本町2丁目の「重林寺」が仮庁舎となったとある。なんとその重林寺は、一家が、翌年疎開先から池袋の焼け野原のバラックの家に戻った時、私が転校した池袋第二小学校の臨時教室にもなっていたのである。
「豊島信用組合」の通帳で、1943年8月から1・2か月に一度、15円から40円程度が「受入高」として記載されている。利子が64銭、2円4銭などの記載も見える。最後の2行の受入れ日付の記入がなく、昭和20年4月22日に200円、6月21日130円拂出している。表紙にも、頭注にも「便宜拂出」として「千葉銀行佐原支店」の押印があるのがわかる。疎開先の佐原で、空襲罹災後1週間ほどで200円が下ろされている。当時の「100円」って、どれほどだったのだろう。罹災後の一家の疎開先の佐原信用組合に開いた父名義の「報国貯金通帳」「国債貯金通帳」「貯金通帳」というのも残っているがわずかな出入りしかない。
初出:「内野光子のブログ」2018.04.13より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/04/1945414-eb5e.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion7563:180416〕