なぜ、ソ連映画だったのか
10年以上前にも、当ブログで触れているのだが、私が通っていた頃のソビエト映画祭のプログラムやキネ旬の特集などが、「日本におけるソビエト文化の受容」の研究を進めている知人からもどってきた。ロシアのウクライナ侵攻以来、当時見ていたソ連映画はどんなだったのだろうという思いに駆られていたので、さっそく読み返している。かなりは、忘却のかなたであるが、あれほど熱心に毎年ソビエト映画祭(在日ソ連大使館主催)に通ったのはなぜだったのか。
書庫の隅から見つけた、私の昭和(2)昭和40年代のソ連映画(2010年4月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/40-7f18.html
60年安保反対運動のさなか、通っていた大学の自治会は、「全学連反主流派」が主導していた。1960年6月15日樺美智子の死、その年末に、大学歌人会で、一・二度顔を合わせたことのある岸上大作の自死に直面した。たしかに情緒的な反応をしていた時期もあったが、既存の革新政党への疑問が去らなかった。職場では、70年安保を体験することになり、大学の二部に通う同僚職員が、いわゆる「過激派」のデモに参加して逮捕されたときの職員組合の冷たい対応が、余りにもセクト的であったことを、苦々しく思い出す。
何で知ったのか、1964年の秋、初めて、第二回ソビエト映画祭(10月26~28日 有楽町読売ホール、新潟巡回)に出かけている。プログラムには、「ソビエト映画・一九六四年―誕生四十五周年を迎えて」の解説が付されている。上映は「アパショナータ」「怒りと響きの戦場」「白いキャラバン」(グルジアフィルム)「私はモスクワを歩く」「ハムレット」(1964年)だった。「白いキャラバン」以外はモスフィルム撮影所製作であり、新作の「ハムレット」を除きいずれも1963年作であった。何を観たのか定かでないなか、「私はモスクワを歩く」だけが印象に残っている。偶然出会った男性3人、女性1人という4人の青年たちのモスクワの街での一日のできごとを描いた作品で、けれんみのない、清新な青春群像にどこかほっとした思いがしたのである。監督のゲオルギー・ダネリヤ(1930~2019)は、ソビエト、ロシア時代を通じて、さまざまなヒット作を生むが、検閲との折り合いをつけてきたらしい。この「私はモスクワを歩く」にも、ロケ地やセリフにまでチェックが及んだという。脚本・テーマソングの作詞のゲンナヂ・シュバリコ(1937~1974)は、この作品の10年後に自死したということである。つぎの上段の写真で、左で首をかしげている「モスクワっ子」を演じたニキータ・ミハルコ(1945~)は、俳優から監督も手掛けるようになるのだが、現在は、プーチンを支持し、ウクライナ戦線に送られた囚人の兵士を英雄視する発言などで、ウクライナの裁判所からは「領土保全の侵害」の疑いで逮捕状が出ているという。
ソ連映画といえば、「歴史・革命もの」や「レーニンもの」などの個人崇拝的なプロパガンダ映画が多く、その種の映画を見るときは、どこか不信感を拭えず、冷めた目になってしまうのだった。
「私はモスクワを歩く」には、スチールにしたい場面が数多い。上は、グム百貨店内のレコード店で店員のアリョーナと青年たちが出会う場面。レコードというのも懐かしいが、古めかしいレジスターも。真ん中の青年には何かともめているらしいが婚約者がいる。左右の青年と店員と関係が微妙なことになる。下のシーンは、主人公たちとは関係ない?カップルで、濡れながら裸足で踊る恋人を自転車で追い巡る青年との場面、ポリスボックスから警笛がしきりに聞こえてくる。「警笛」がほかのいろんな場面でも鳴り続けるのも興味深い。それにしても、今、ユーチューブで見られる字幕なしでも十分楽しめるが、会話が分かったらどんなにかと。https://www.youtube.com/watch?v=vbjs5zfxDMs&t=2829s
1965年、第三回も10月下旬(虎の門ホール 大阪・広島巡回)で、短編を含むと7本を上映、もちろん全部を観てはいないが、今でも思い出すのが、短編ながら、ラトビアのリガを舞台にした「ふたり」(リガ・フィルム製作 1965年)である。音楽大学に通う青年が美しい女性に出会うが、彼女は幼時に爆撃で聴覚を失い、言葉が不自由であった。彼女は音のない音楽の世界へと導かれ、青年は彼女の書く文章によって、愛は深まっていくという展開だったと思うが、ラトビアの過酷な歴史を忘れるほど、港町リガの街並みに魅せられた。監督ミハイル・ボーギンの映画大学卒業制作であったという。間違いなく私も若かったのだなと思う。「戦火を越えて」(1965年)は、戦地で負傷した息子と彼を訪ね巡る一徹な父親との物語であるが、グルジアフィルムの製作であった。
1966年、第四回の長編「ポーランドのレーニン」(1965年)はモスフィルムとポーランドの合作であり、「忘れられた祖先の影」(1964年)はウクライナのキエフ撮影所製作であって、各民族共和国製作の映画が日本でも多く紹介されるようになった頃だった。
1967年第五回は<ソ連50周年記念>として、「ジャーナリスト」(ゴーリキイ撮影所製作 1967年)、アルメニアの「密使」(アルメンフィルム製作 1965年)、ゴーリキイ撮影所とポーランドとの合作「ゾージャ」(1967年)の長編が上映された。「ゾージャ」は、女性の名前で、ボーギンの長編第一作。プログラムの解説によれば、1944年のポーランドの小さな村で、戦火の合間、再編を待つ部隊の兵士とゾージャ、村人たちとの愛と信頼を描くが、私には、ラストの、ふたたび、ドイツ軍との戦闘へと向かう兵士との別離の画面だけがかすかに甦るのである。
パンフの装丁は、なかなか定まらなかったようで、A4の横組みで始まるが、B5の横組みになり、B5の縦組みに落ち着く。
日本でのソビエト映画
ソビエト映画の国際的な進出は著しく様々な国の映画コンクールで受賞が続いている。日本では、1966年7月~8月に国立近代美術館において「ソ連映画の歩み」と題して、1924年~1961年製作の16本を上映している。手元のパフレット「ソ連映画の歩み」(山田和夫ほか編 フィルムライブラリー助成協議会)によれば、私は、ここでエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」やグリゴーリ・チュフライの「誓いの休暇」を観ていたらしい。翌年の秋にも同美術館で「ソ連映画祭の回顧上映」が開催されているが、私が出かけた形跡はない。
「ソ連映画の歴史(1)誕生から大祖国戦争まで」を岩崎昶 , 「同(2)大祖国戦争から今日まで」を山田和夫が、「ソ連の撮影所」を牛原虚彦が書いている。ソ連全土で撮影所は41を数える。山田和夫は、フルシチョフの政治路線は「矛盾と破綻をむき出しにした」との評価であったが。表紙絵のドームの中は「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段のシーンのようだ。
また、『キネマ旬報』も1967年11月下旬号で<ソビエト革命五十周年記念特集 ソビエト映画の全貌>と題して、かなり多角的な特集を組んでいて、これは購入していたものと思われる。1967年前後には、革命50年周年を記念するか革命や歴史をテーマとする作品が目白押しの中、文芸大作「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、「カラマーゾフの兄弟」なども一般上映されている。
当時のソビエトは、1953年のスターリン没後、1956年、フルシチョフによるスターリン批判―個人崇拝と粛清排除によって、大きな転換期を迎え、1964年10月にはフルシチョフが失脚するという微妙な時期でもあった。革命や「大祖国戦争」のリアリズムによる伝達、いわばプロパガンダの要素が高い作品より、現代の都市や農村の生活、家族や個人の内面に目を向けた作品が好んで製作され、歓迎されるようになったのではないか。そうした映画の端々には、公式的な官僚主義の体制をそれとなく批判するセリフや映像が散見できるのであった。
そして、70年代のソビエト映画祭は
私が観た映画で、かすかに記憶があるのは・・・。
1968年第六回「月曜今でお元気で」(ゴーリキ撮影所 1968年)
1969年第七回「夜ごとのかたらい」(モスフィルム撮影所 ?年)
1971年第九回「デビュー」(レン<レニングラード>フィルム 1970年)
「白ロシア駅」(モスフィルム 1971年)
1972年第十回「うちの嫁さん」(トウルクメンフィルム 1972年)
1973年第十一回「おかあさん」(モスフィルム ?年)
「ルカじいさんと苗木」(グルジヤフィルム?)
1974年第十二回「モノローグ」(レンフィルム1973年)
第十回の出品作品は、上記以外の「先駆者の道」(モスフィルム 1972年)は、宇宙開発の先駆者の半生を描き、「ルスランとリュドミーラ」(モスフィルム 1972年)はプーシキン原作、古代キエフ公国の人びとを異民族の襲撃から守った英雄のファンタジックな児童向けの作品という。そのパンフからはらりと落ちてきた新聞切り抜きには、当時のソ連映画について、端的につぎのように報じていた。
「ここ数年ソビエト映画はやわらかくなりつつある。本国では「社会主義リアリズムに忠実ではない」と、当中央委から大目玉をくったというが、日本ではむしろこの軟化がソビエト映画のファンをつくっている。」(毎日新聞 1972年10月17日)
いまから思えば、プーシキンの原作の児童向け物語ではウクライナのキエフはどう位置づけられていたのだろうか。独り身の気ままな私のソ連映画祭通いは、1974年で終わる。
その後の、ソビエト・ロシア映画祭は
ソビエト映画祭は、1991年第二十三回まで開催されたようであるが、その後は、「ロシア・ソビエト映画祭」として、実行委員会形式で散発的に開催されていたらしい。2006年には、日ロ国交回復50年を記念し、「ロシア文化フェスティバル」の一環として、東京国立近代美術館フィルムセンター、ロシア・ソビエト映画祭実行委員会の共催で「ロシア・ソビエト映画祭」が開催されている。12年間の空白を経て、「日本におけるロシア年 2018年 ロシア・ソビエト映画祭」として、国立映画アーカイブが引き継いでいるが、定期的に開かれているわけではないようだ。
上記は、ネットから拝借した1989年のプログラム。1991年まで続いているが、どんな映画が上映されていたのだろう。「秋のマラソン」はゲオルギ—・ダネリアの監督作品である。
初出:「内野光子のブログ」2022.12.7より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/12/post-3f8eb2.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12616:221208〕