2.23現代史研究会(報告者:矢吹晋、五味久壽、司会:矢沢国光)直前案内とレジュメ

第271回現代史研究会

日時:2月23日(土)1:00~5:00

場所:明治大学駿河台・リバティタワー1134号(13階)

JR御茶ノ水駅から徒歩5分

テーマ:中国の新体制(習近平)の今後と日・中・米関係の動向(仮題)

講師:矢吹晋(横浜市立大学名誉教授)、五味久壽(立正大学教授)

司会:矢沢国光

参加費:500円

参考文献:矢吹晋著『チャイメリカ』(花伝社)、矢吹晋著『尖閣問題の核心』(花伝社)

習近平中国の国家資本主義と日中関係(尖閣問題の核心)

横浜市立大学名誉教授 矢吹晋

1.  ロシア革命と中国革命の関係

20世紀前半に行なわれたロシア革命と中国革命との関係を最も分かりやすく説いたのは、毛沢東の次の一言であろう。曰く「ロシア革命の砲声が中国にマルクス・レーニン主義を送り届けてくれた」。中国は以後、ひたすら「ロシアの道」を模倣し続けた。一時、ロシアの道とは異なる中国の道を模索した。毛沢東が主唱した「大躍進政策」と「文化大革命」である。その試みは結局失敗し、2000~3000万人の餓死者さえ出た(推計方法は、拙著『中国力』41~42ページ)。理想社会を目指した結果もたらされた地獄図である。4分の3世紀の試行錯誤を経て、マルクス・レーニン主義の先達・旧ソ連は、アメリカ資本主義との生産力競争に敗れて、1991年に崩壊した。スプートニクをアメリカに先立って打ち上げ成功し、一時はアメリカを凌ぐかに見えた旧ソ連は、結局はアメリカとの生産力競争に敗れ、解体し、いわゆる東欧圏は拡大EUの一角となり、東西ドイツの統合が行なわれた。旧ソ連の崩壊後、中国を襲ったのは「蘇東波」というツナミである。詩人「蘇東坡」を1文字変えたこの表現は「ソ連東欧からの民主化の圧力」であった。ポスト冷戦期に誰もが、「次は中国の民主化」を想定したのは、中国の計画経済が基本的に旧ソ連と同じシステムで運営されていたことを裏書するものだ。しかしながら、中国が旧ソ連解体の道を歩むことはなかった。その理由は、2つ挙げられよう。

1つは鄧小平が事態を先取りして、「市場経済の密輸入」にすでに着手しており、これが人々に生活向上への希望を与えていたこと、もう1つは政治支配体制の徹底的な引き締めによる「管理社会」の構築である。この政経分離体制はこれまでのところ功を奏している。すなわち中国共産党の指導下における資本主義的原蓄の発展である。旧ソ連圏の解体以後、資本主義体制の勝利を語る声が大きくなり、1時は「アメリカの1人勝ち」を称賛する声が世界にこだまして、市場経済の勝利は磐石に見えた。だが、これを契機に加速度を増した新自由主義の暴走は止まるところを知らず、結局「アメリカの1人勝ち」は十数年しか続かず、「驕るアメリカ、久しからず」を絵に描いたようなありさまとなった。2008年のリーマンショックは、世界経済を大恐慌以来の危機に陥れただけでなく、3年後にはギリシャ・ソブレン危機を誘導し、それはEU全体に連鎖反応的な衝撃を与え、今日なお収束の兆候は見えない。

このような状況を踏まえて、Foreign Affairs (2011年11/12月号)は、「アメリカは終わったのか?」を特集し、雑誌『ニューヨーカー』のジョージ・パッカー記者の「破られた契約:不平等とアメリカの凋落」(The Broken Contract: Inequality and American Decline, by George Packer)を掲げた。これによると、1979年から2006年にかけて、アメリカ中産階級の所得は40%増えたが、最貧層では11%しか増えていない。これに対して最上位1%の所得は256%も所得が増えて、国富の23%を占めるようになった。これまで最大であった1928年を上回るシェアだ。アメリカはすでに甚だしい階級社会と化した。まさにアメリカンドリームの終焉を意味する。格差の拡大と富裕階級の固定化がアメリカ人の夢をもはや実現不可能なものとした現実を鋭く指摘したものであった。ニューヨークのウォールストリートを占拠した失業者たちが訴えたのは、まさにこの現実であったと見てよい。なぜこうなったのか。アメリカンドリームが存在した時代には、政府がさまざまな規制やルールを定め、所得の比較的に平等な配分を保証しようとしていた。商業銀行の資金が投資銀行に流れるのを禁止するグラス・スティーガル法(the Glass-Steagall Act)はその象徴であった。この規制により投機の行き過ぎや過剰競争は規制され、社会を安定させるためのさまざまな機関・制度が存在する国――これがアメリカであった。これらの機関は「公共の利益」を守るために機能した。中産階層の大国であるアメリカは、こうして守られてきた。顧みると、1978年頃のアメリカはベトナム戦費で疲弊しどん底にあったが、これは一見アフガンやイラク戦費に悩む現代と酷似する。しかし、決定的な相違点がある。それは1978年には「公共の利益」を守る規制や機関が機能し、アメリカンドリームを保証するシステムが生きていたことだ。

なぜか。大恐慌後の1933年から 1966年にかけての30年間、連邦政府には消費者・労働者・投資家を守るために、11の規制機関が設立されたし、さらにその後もこの傾向は続き、1970~75年には環境保護局the Environmental Protection Agency、職業安全健康管理局the Occupational Safety and Health Administration、消費者のための生産物安全委員会the Consumer Product Safety Commission を含む12の規制機関が次々に設立された。ところがこれらの規制措置や規制機関は、近30年間に「新自由主義」なる妖怪の圧力でほとんどつぶされてしまった。「公共の利益」を維持していたシステムのほとんどが大企業によって乗っ取られ、「公共の利益」の分野が、企業が利益を上げるためのビジネスの分野に変化した。かくてアメリカは、もはやアメリカンドリームが生きていた時代に戻ることは不可能だ。「アメリカは終わった(America is over)」。これがジョージ・パッカー記者の結論である。

以上を私なりに要約すれば、20世紀世界は「社会主義への希望」に明けた。1929年の世界恐慌以後とりわけ、社会主義への対抗を強く意識した資本主義世界の福祉国家を目指す経済政策によって補強され繁栄を誇ってきた。資本主義世界は社会主義システムの挑戦を見事に交わして、その生命力を誇示するかに見えた。しかしながら挑戦者ソ連が力尽きようとした1970~80年代に、アメリカは1人勝ちを謳歌してアメリカンドリームを食いつぶす愚行を演じた。その結果、挑戦者ソ連が1991年に解体して20年経たないうちに、リーマンショックに襲われた。とはいえ「アメリカの終り」は、旧ソ連解体の姿とは異なり、「終りの始まり」にすぎない。そこに新たな役割を担うべく登場したのが中国である。

Foreign Affairs (2011年11/12月)特集号が掲げたもう1つの論文は、「縮小の英知:アメリカは前進するために縮小せよ(The Wisdom of Retrenchment: America Must Cut Back to Move Forward)」で、その筆者はJ. M.パレント(Assistant Professor of Political Science at the University of Miami)と、P. K.マクドナルド(Assistant Professor of Political Science at Wellesley College)である。この論文によると、1999年から2009年にかけて、世界経済に占めるアメリカのGDPシェアは23%から20%へと3ポイント減少した。そして中国のGDPシェアは7%から13%へ、ほとんど倍増した。この発展スピードが維持されるならば、2016年には中国のGDPがアメリカを追い越す。[念のために記すが、この種の展望は世界銀行やIMFがしばしば行っており、特に楽観論な見方とはいえない]。論文「縮小の英知」によると、アメリカはいま覇権国家に通弊の3つの問題を抱えている。すなわち過剰消費over-consumption, ②過剰(対外)膨張over-extension, そして③過度の楽観主義over-optimismである。これに挑戦する中国は4つの矛盾を抱えている。すなわち①国内不安 domestic unrest, ②株式・不動産バブルstock and housing bubbles,  ③汚職・腐敗corruption, ④高齢化 aging populationである。「縮小の英知」が指摘したこれらの問題点は、ほとんど常識であろう。それゆえ、論文の新味は、これらの現状分析の論理的帰結として、「縮小Retrenchment」以外にアメリカの選択肢はない。それを明快に論じたところに、このForeign Affairs の特集の意味があるわけだ。

2.中国資本主義の成功とチャイメリカ構造

19世紀後半から約1世紀の混乱を経て独立した中国の共産党政権は、計画経済という名のアウタルキー経済を指向したが、毛沢東時代の終焉とともに、国際的立ち遅れを痛感した。毛沢東の後継者鄧小平は1978~79年は、「貧しい平等主義」路線では、政権を維持できないことを察知して、180度の政策転換を行い、改革・開放に転じた。すなわち対外的には鎖国から開放政策への転換であり、国内的には、計画経済システムを市場経済システムに改め、グローバル経済の「軌道」に、中国経済を乗り入れることを企図した。80年代初頭の「4つの経済特区」で試行された市場経済化は、沿海の主要都市に拡大され、やがて点から面へと拡大し、中国経済全体の市場経済化が進められた。遅れてグローバル経済に参加した中国は、豊富な低賃金を十分に活用して、世界の工場となり、元安の為替レートでひたすら外貨を蓄積した。これはほとんど飢餓輸出に似た強制貯蓄のメカニズムであった。中南海の指導部にとって90年代半ばの台湾の奇跡が実現した外貨1000億米ドルは、垂涎の的であり、彼らはほとんど外貨不足トラウマ、「米ドル物神崇拝」に陥った。1994年元旦の外貨兌換券廃止により、交換レートが実勢を反映したものになると、輸出入は黒字基調が安定し、これを交換して外資はようやく、人民元への信任を回復し、中国大陸への投資を開始した。その後、中国は貿易黒字と直接投資の流入を極力活かして外貨準備を積み上げ、2006年に1兆ドルを超えて、日本のそれをわずかに上回った。これは鄧小平路線の成功であるとともに失敗をも意味する。「成功」とは、経済的発展だが、「失敗」とは、政治改革の失敗である。鄧小平自身は最後まで、経済的成功を踏まえたうえでの政治改革を朱鎔基抜擢等により模索したが、鄧小平の後継者・江沢民と胡錦涛はいずれも政治改革を断念し、あるいは無期延期して、官僚資本主義への道に流された。その後米中経済関係は、発展し続けた。第2期ブッシュ政権でReponsible Stakeholder,オバマ政権でStrategic Reassuranceと密着度を深めた後、2010年夏の米国防総省報告がInternational Public Goodsのキーワードで中国軍の役割を称賛するところまで発展した。その直接的含意は、国連の平和維持活動、反テロ活動、災害救援活動において、中国軍がいかに国際貢献を果たしているかを繰り返し強調・称賛したものだ。すなわち中国軍が「中国の国益」を守るために活動することは当然だが、そのほかに「国際秩序を守る」ためにさまざまの活動を行っており、その役割はますます大きくなりつつあると称賛したのである。ペンタゴン報告書が中国軍に対して、このような微笑外交を送ることの遠望深慮は明らかだ。米中協調(結託)による国際秩序維持の枠組み作りを展望するためにほかならない。

アメリカの従属国・日本がどれほど米国債を保有したとしても、まず政治問題にはなりえない。しかし中国は、場合によってはそれを売却することで対米圧力をかける可能性をもつ。ここで中国が失うのは、さしあたりは1兆数億ドルだ。アメリカが失うのは、「基軸通貨国としての地位」である。どちらがより多くのものを失うか。いくつかの見方が可能だが、アメリカとしては中国がそのような敵対的行為に走らないように、米中協調のシステムを構築することが喫緊の課題であり、この同床異夢が米中政府当局によって明確に認識され、その努力が続けられた。

このようにして成立した直接対話の枠組みをもつ今日の米中関係を、私は仮に「チャイメリカ(体制)」と呼ぶことにしたい。このチャイメリカは、かつての米ソ冷戦体制と似て非なるものである。すなわち米ソ冷戦体制下では、米ソが2つの陣営に分かれて対峙し、陣営間の貿易等経済関係は、極度に制約を受けていた。しかし今日のグローバル経済下のチャイメリカ構造においては、米中貿易はきわめて活発であるばかりでなく、低賃金と安い人民元レートを用いて、いわば飢餓輸出にもにた政策によって大量に貯め込んだ米ドルの過半部分が米国債等の買いつけに当てられている。こうして米中関係は、1方ではかつての米ソ関係のように軍事的対立を含みながら、他方経済では、「過剰消費の米国経済」を「過剰貯蓄の中国経済」が支える相互補完関係がこれまでになく深まっている。これがチャイメリカ構造の核心であり、今日の米中関係は、軍事・経済双方の要素についてバランスのとれた観察を行わなければ、理解できない。

3.中国官僚資本主義のゆくえ

では中国経済は、米国にとって、世界経済にとって頼りになるか。中国がさまざまの強さとともに弱点をもつ経済であることは、ほとんど常識であろう。とはいえ、中国経済は成長率が多少鈍化するとはいえ、今後少なくとも10~20年程度は高度成長を維持するであろう。中国経済において、最も重要な論点は、おそらく生産力の量的発展ではなく、その帰結として成立した特殊な国家資本主義、すなわち官僚資本主義体制ではないか。所得格差の拡大という量的な問題ではなく、すでに「官僚主義者階級」(毛沢東の表現)と呼ばれる階級が成立し、経済政策の中心がこれらの人々の階級的利害によって左右されていることが問題の核心ではないのか。その結果は「労働分配率の激減」や「ジニ係数の極端な悪化」に示されている通りである。2011 年7 月1 日、中国共産党は建党90 周年を祝賀したが、祝賀ムードから透けて見えるのは、社会の治安維持のために全力をあげる方針を繰り返す姿である。そのキーワードは、「社会管理」の4文字だ。中国の直面する重大な社会問題群、たとえば①流動人口、②インターネット言論の活発化、③都市・農村境界付近の社会治安問題、④犯罪者の管理、⑤ NGO・NPO 等社会組織などに対して、「ただ管理あるのみ」の政治姿勢である。市場経済システムの導入のもとで、経済活動に関するかぎり1定の自由化が進展したが、その背後で着実に進展してきたのは「管理社会」の構築にほかならない。これはほとんどジョージ・オーウェルが1948年に描いた未来図『1984年』に酷似する世界である。毛沢東は1964年5月に「官僚主義者階級と労働者・貧農・下層中農とは鋭く対立した2つの階級である」、「資本主義の道を歩むこれらの指導者は労働者階級の血を吸うブルジョア分子にすでに変わってしまったか、あるいは今まさに変わりつつある」と断言して、文化大革命を発動した。文革が失敗した後、ポスト毛沢東期に行なわれた、中途半端な市場経済への移行政策によって、ノーメンクラツーラと呼ばれる特権階級によって事実上の私物化(制度的なprivatizationではない )が行なわれ、「官僚主義者階級」が生まれた。この階級は、アメリカの1%の富裕階級よりも、より巧みに組織された支配階級に成長しつつある。高度成長の過程において労働分配率の激減をもたらし、ジニ係数を悪化させたのは、これら支配階級が経済政策を左右してきたことの帰結にほかならない。中国はいまや「アメリカ以上に所得格差の大きい」国と化しつつある。この文脈では、現存のチャイメリカ経済構造とは、「相互に所得不平等inequalityを競う体制」でもある。これが21世紀初頭の現実である。20世紀初頭には、人類進歩への希望が存在した。21世紀初頭の今日、失望・絶望という世紀末的状況が継続し、再生への光はまだ見えない。

4「官僚主義者階級」あるいは、国家官僚資本主義について

(1)トロツキーは『裏切られた革命』(1937年)で、「官僚制が生産手段を統制している」事実は認めたが、「特定の所有形態を欠いている」との理由によって、支配「階級」を構成しているとはいえないと考えた。したがってソ連にとって必要なのは、「十月革命のような社会革命」ではなく、「官僚制の排除を目的とした政治革命である」と結論した。

(2)その後、イタリアのブルーノ・リッツィは『世界の官僚制化』(1939年)において、官僚制はみずからに高い給料を支払うことによって、プロレタリアートの剰余価値を所有するようになった以上、ソ連では「新しい階級が発生した」と論じた。ただリッツイは官僚制の技能を高く評価し、宮僚と労働者階級との間のギャップが最小に至るべく労働者生活の物質的条件を高めるうえで官僚制が有効であると考えていた。

(3)リッツイに代表される「新しい階級」論をさらに徹底させたのは、ミロバン・ジラス(ユーゴスラビアの理論家、元大統領補佐)の『新しい階級』(1957年)であった。ジラスは「社会主義国家は政党によって運営されており、政党は官僚制である」、「官僚制は国有財産を使用、処分する権限をもつがゆえに1つの階級である」、「この官僚制は、権力とイデオロギー的独断主義という2つの重要な要素に依拠している」、「これは過渡的な現象ではなく、国家制度の特殊類型の1つである」、と主張した。

(4)その後、社会主義における官僚制の問題に対して、最も大胆な主張を展開したのが毛沢東であり、1964年5月にこう断定した。「現在のソ連はブルジョア独裁、大ブルジョア独裁、ナチスのファシズム独裁、ヒトラー流の独裁である。彼らはゴロツキ集団であり、ドゴールよりもはるかに悪い」(「対陳正人同志蹲点報告的批示1965年1年29日」『文選』34ページ。「在計委領導小組滙報時的1些挿話1964年5月11日」。拙編訳『毛沢東社会主義建設を語る』256ページ所収)。旧ソ連の現実の姿のなかに、中国の明日を垣間見た毛沢東は同年、こう敷衍した。「官僚主義者階級と労働者・貧農・下層中農とは鋭く対立した2つの階級である」「資本主義の道を歩むこれらの指導者[走資派あるいは実権派]は労働者階級の血を吸うブルジョア分子にすでに変わってしまったか、あるいは今まさに変わりつつある」。「社会主義における官僚制論」の系譜を考察してくると、21世紀初頭における中国の現実こそが、まさに「官僚主義者階級」が生産手段を所有し、名実ともにみずからの階級を再生産の条件を整え、中国国家資本主義が官僚資本主義として自立し始めたことを示している。毛沢東は条件が整う前に誤った戦闘を挑むことによって、戦闘の「主体と組織」、そして「希望」までつぶしてしまったように見える。現代中国の「労働者・貧農・下層中農」は、「血を吸うブルジョア分子」に闘いを挑むイデオロギーも組織もともに欠いている。権力の腐敗は、広がり深まりつつあるが、これに挑み、倒す者がなければ、権力がひとりでに倒れることはありえない。これが中国共産党成立90年後の現実である。

5.日米安保条約は尖閣諸島を守る保証となりうるか

米上院が法案を可決、尖閣防衛義務を明記と見出しをつけた記事が12月1日の日本各紙で報じられた。たとえば、共同通信は2012年11月30日、ワシントン電として、米上院本会議が2013会計年度国防権限法案への修正条項を盛り込むことを決めた、と報じた。これは「尖閣諸島が日本防衛義務を定めた日米安全保障条約5条の適用対象である」とする立場を明確にしているオバマ政権に対して、議会も足並みをそろえ、「尖閣の領有権を主張する中国を牽制する狙い」と解説した。さらに「提案者の1人であるウェッブ議員(民主党)は「アジア太平洋地域の重要な同盟国を支持する力強い意見表明」になるとして、日米同盟の重要性を強調する声明を発表した」と解説している。この解説は正しいのか。修正条項の決定は事実だが、意味をどう読むか、その読み方はかなり難しい。上院決議の含意を正確に読み取るためには、沖縄返還協定まで遡って、日米が、中国の存在を意識して、どんな約束をしてきたのか、これを検証しなければならない。まずこの記事の要点を整理しておくと、次の3カ条からなる。1.米上院は11月29日の本会議で2013会計年度(2012年10月~13年9月)の国防権限法案への修正条項を可決した。2.この修正条項では、「尖閣諸島が日本の施政下にある」ことを米国が「認識」している。3.米国が前述のように「認識」する「立場」は、「第3国[中国あるいは台湾を指す]による1方的な行動」によって「影響を受けない」。この3カ条を読んでも、その意味を正しく理解できる日本人はかなり少ないと思われる。1方で真実をぼかしつつ、都合のよい論点を強調することが沖縄返還以来、あるいはマッカーサー元帥による占領以来、行われてきたからだ。その過程を振り返らないと、今回のニュースの意味を正しくとらえられない。共同電は英文のほうがより正確なので、以下に全文を掲げておく。ただし、この英文を読んでも、やはりこの修正条項の意味を正しく理解できないと思われる。では、この記事で何が新しいのか。まことに意外や意外。新味はゼロである。

この記事の真の意味は、1.尖閣諸島に対する日本の権利は施政権のみであり、主権=領有権を含まない、と米国政府が内外に示してきた「米国の認識」を確認したこと、すなわち「主権と領有権の分離」という40年来の米国政府の立場を確認したことが第1である。

2.中国の尖閣に対する主権主張や1連の行動(たとえば反日デモや巡視艇派遣)など「中国の1方的な行動」によって、1.で述べた米国政府の立場は影響を受けない。すなわち1.で述べた立場を「米国は今後も継続する」という表明にすぎない。いいかえれば、米国の立場は40年前、「沖縄返還当時に示した認識と何も変わらない」という意思表示にすぎないのだ。では何が変わったのか。40年前には、徹底的にに隠して隠し回った「尖閣諸島the Senkaku Islands」という島の名が今回は明記された。違いはそれだけなのだ。日本の多くの国民は、尖閣をめぐる日中の衝突に恐れをいだき、日米安保の再強化に期待をつなぎ、これが日本の防衛に役立つと錯覚したはずだ。同盟国米国が安全保障条約に基づいて助けてくれると誤解したはずだ。そのように錯覚させることが今回の修正条項の意味である。これはほとんどリップサービスにとどまる。そのことを以下に解説してみよう。

次に、この修正条項の提案者の代表格のウェッブ上院議員の経歴を見ると、過去40年以上にわたって、海兵隊オフィサー、防衛計画担当者、ジャーリナスト、作家、国防省上級官員、海軍相、ビジネスコンサルタントと紹介されている。この問題において米国を代表しうる専門家とみてよい。そして修正条項の本文7カ条は、次の通りだ。重要な3、4、7項にのみ、訳文を付しておく。(3) 米国は尖閣諸島の最終的な主権については立場を取らない(すなわち中立を守る立場だ)が尖閣諸島における日本の施政権を認識している。(4)尖閣諸島における日本の施政権を承認する米国の立場」は、「第3者[中国]の1方的な行為によって影響されることはない、すなわち「中国の監視艇のような行動」が「日本の施政権を承認した米国の立場」に影響を与えることはない、の意である。(7)日本の施政権のもとにある領域が武力による攻撃を受けた場合は、米国憲法の条項と所定手続きにしたがって、日米共通の危険に対処するために行動する、の意である。ここでは、3、4項で明記された尖閣諸島を含めて「施政権のもとにある領域」と概括されている。これまでは、この種の概括方式で「含まれると理解される」などとぼかしてきた「センカク」の名を米国の法律として初めて特定したこと、これが今回の修正条項の意味だ。この程度の措置はほとんどリップサービスに近いと読むのが私の見方である。

上の3、4、7項から明らかなように、何1つ新しい内容は含まれない点が確認できるであろう。違いを挙げるならば、3、4項に「the Senkaku Islands(尖閣諸島)」がそれぞれ1回登場することだけだ。沖縄返還協定では、このキーワードが隠されていたのだ。すべて沖縄返還協定当時の立場と同じだ。「第3者の1方的な行為によって影響されることはない」とする言い方における「第3者」は、少なくともこの文脈では、「中国の覇権主義」に対する積極的な牽制に見える。だが、ここの史実は微妙だ。40年前の返還協定締結当時は、まだ「米国の同盟国」の地位を保持していた台湾政府側の対米議会ロビー工作が激しかった。対日返還協定において「センカクの亡霊」を「可能な限り淡く薄く」描いたのは、実は台湾のロビー工作に議会が配慮した結果と見てよい。当時の中華人民共和国政府はベトナム戦争をめぐって米国と敵対状態にあったことが想起される。こうして「40年前の米国」は主として同盟国台湾の中華民国政府と日本の対立を意識して、「中立の立場」を保持した。「現在の米国」は、台湾政府との外交関係はすでになく、79年の米中国交正常化によって生じた北京政府との関係を意識しつつ、「北京と東京」の間で「中立の立場」を堅持する方針を改めて明確にしたのである。ここで改めて、1971年6月17日に調印された「沖縄返還協定」(琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定、『わが外交の近況』(外交青書)16号、472‐476頁)を読んで見よう。第1条2項では、返還協定を適用される「琉球諸島及び大東諸島」の範囲について、「行政、立法及び司法上のすべての権力を行使する権利が日本国との平和条約第3条の規定に基づいてアメリカ合衆国に与えられたすべての領土及び領水のうち、そのような権利が1953年12月24日及び1968年4月5日に日本国とアメリカ合衆国との間に署名された奄美群島に関する協定並びに南方諸島及びその他の諸島に関する協定に従つてすでに日本国に返還された部分を除いた部分をいう」と書かれている。では、サンフランシスコ平和条約(1951年9月8日)第3条にはどう書かれているか。第3条にはこう書かれている。「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯1の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び1部を行使する権利を有するものとする」と。以上の規定から分かるように、「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)、並びに沖の鳥島及び南鳥島」を「米国の信託統治制度の下におくこと」を第3条は決めた。ここで「北緯29度以南」の南西諸島とは、「トカラ列島」とその北に位置する「屋久島」との間で線引きを行い、「屋久島以北」を日本の範囲に含め、「トカラ列島の口之島以南」を米軍の信託統治としたわけだ。ここから「口之島以南」を「琉球南西諸島」に含めたことは明らかだが、「南西諸島」なるものがいかなる島嶼から成るかについては、サンフランシスコ条約第3条では何も言及されていない。当時、日本側は尖閣諸島をほとんど忘れかけていた。サンフランシスコ条約から2年を経た1953年、米琉球民政府は「布告第27号(USCAR 27)」を出して、南西諸島の境界を「北緯29度以南」と定義して尖閣諸島を施政権の範囲に含めた。この「北緯29度以南」という定義は、「平和条約」第3条と同じ文言だが、ここでもこの範囲に尖閣が「含まれるか否か」は、何も明示されていない。いいかえれば、1946年1月29日の「占領軍訓令677号」(Supreme Commander of Allied Power Instrucrtion 677)においても、1953年12月25日付の「米琉球民政府布告27号(U.S. Civil Administration of the Ryukyus, Proclamation 27)」においても、「北緯29度以南」と緯度を示しただけで、尖閣諸島の名を特定されていない。

いや、これは1971年の沖縄返還協定においても同じことは、すでに触れた通りである。こうして敗戦直後に「北緯29度ライン」を境界として日本が南北に2分され、その南部が米軍の施政下に置かれ、1971年に復帰するまで、尖閣の名が日米間で議論されることはなかった。

「協定本文」に尖閣諸島が現れないだけではない。「合意議事録」(1971年6月17日、外交青書16号,479-482頁)の中にも見当たらない。曰く「第1条2項に定義する領土」とは、日本国との「平和条約第3条の規定に基づいてアメリカ合衆国の施政の下にある領土」を指す、と説明されているだけだ。より具体的には、「次の座標a~fの各点を順次に結ぶ直線によつて囲まれる区域内にあるすべての島、小島、環礁及び岩礁」と説明されている。すなわち、a北緯28度東経124度40分、b北緯24度東経122度、c北緯24度東経133度、d北緯27度東経131度50分、e北緯27度東経128度18分、f北緯28度東経128度18分、の6点を通って再びa北緯28度東経124度40分にもどる6角形で囲まれた地域内の「島、小島、環礁及び岩礁」を日本に返還したのである。

このように島嶼名を特定せずに、奄美大島を除く沖縄列島と大東諸島の範囲を緯度と経度の範囲だけを示する止めたので、普通の読者には、尖閣諸島が含まれるのか否か、どこにそれが書かれているのか、チンプンカンプンだ。なぜこのような扱いをしたのか。他方、次の解説も行われている。返還協定の調印に際して、国務省および日本官員は「平和条約調印時に言及された南西諸島」には、「尖閣諸島が含まれる」ことを沖縄返還当時に日米関係者が「理解し合った」、とする事実が米議会の公聴会の記録に残されている、と解説したのはMark E. Manyin著、 Senkaku (Diaoyu/Diaoyutai) Islands Dispute: U.S. Treaty Obligations, Congress Research Service, September 25, 2012.である(以下『2012年版』と略称)。全10ページから成る『2012年版』は、2012年の激しい反日デモの1週間後に、1996年9月30日に発表された全5ページからなるLarry A. Niksch, Senkaku (Diaoyu) Islands Dispute: The U.S. Legal Relationship and Obligations, Congress Research Service, (以下『1996年版』と略称)をベースとしつつ、約2倍の分量に拡充したもので、尖閣問題に対する米国議会の立場を細部まで解説している。これは議会の決議そのものではないが、議員たちがこの問題について判断するために必要な基本データが過不足なく情報提供されている資料であり、尖閣問題に対する米国議会の動向を知る上で必須の文献だ。『1996年版』の副題は「米国の法的関係と諸義務」であり、『2012年版』の副題は「米国条約上の諸義務」である。前者はいわゆる台湾海峡の危機に際して発表され、後者は今回の尖閣衝突を踏まえて、米国の尖閣問題に対する基本的立場と、日米安保によって米国が負っている義務との関係を解説したものだ。

この重要文献についての3照が日本ではほとんど行われていない。逆に、米国政府筋や、1部のジャパンハンドラーたちからリークされる1方的な情報によって、日本の政治が操作されているのは、まことに由々しい事態ではないか。沖縄県民の強い反対を押し切ってオスプレイの配備を強行する世論操作のために、日中衝突が利用されているのは、長期的に見ると、日中・日米関係の基礎を危うくするものであり、国民は強い警戒の眼差しを向けるべきだ。

繰り返す。サンフランシスコ平和条約調印時には、「南西諸島」に尖閣諸島が含まれるか否か、留意されていなかった事態をそのまま受けて、返還協定においても、それが含まれるか否かは、協定にはむろん明記されていない。合意議事録でさえも、緯度と経度でしか示されていない。このように曖昧模糊とした指定範囲内の島嶼のなかに、尖閣諸島が含まれるか否かについて、日米の当局者、すなわち、Robert Starr, Acting Assistant Legal Adviser ; Harrison Symmes, Acting Assistant Secretary of State ; Howard McElroy, Country Officer for Japan)および日本官員(不詳)が協議して、この指定範囲内には「尖閣諸島が含まれる」ものと「理解し合ったunderstood」にすぎないのだ。これは、当時の米国議会で、専門家やロジャース国務長官が証言した(asserted)ことが議会公聴会の記録として止められているにすぎないのである。1.協定本文に書き込まず、2.合意議事録でさえも尖閣諸島の名を特定せず、3.単に「緯度と経度」だけから成る6角形を示して、その範囲内に尖閣諸島が含まれることを、少数の日米担当者が「理解しあった」にすぎないのだ。いまなら誰でも知らない者はないセンカクが40年前には、この程度の扱いしか受けていなかった。

沖縄返還協定における「日米合意の真相」をこのように追及してくると(悪名高い沖縄密約はあえておくとして)、当時の福田赳夫外相の怪しげな答弁の背景も、おのずから透けて見える。

福田赳夫外相は1971年12月15日3院本会議でこう答弁した。「(久場島=黄尾嶼、大正島=赤尾嶼について) 尖閣列島で米軍の射撃場にされてきたのだが、そのことをもって、尖閣列島で米軍の射撃場なんかがあってけしからぬじゃないかと、こういうお話ですが、これこそは、すなわち尖閣列島がわが国の領土として、完全な領土として、施政権が今度返ってくるんだ、こういう証左を示すものであると解していただきたい」。 福田はここで明らかに、「aわが国の領土として、完全な領土として」、「b施政権が今度返ってくるんだ」と述べ、a=b としている。だが、米国の論理はa≠bなのだ。

いま紹介した『2012年版』はこう述べている。「ワシントンは断じて釣魚/尖閣諸島に対する日本の主権を認めたことはない(Washington has never recognized Japan‘s sovereignty over the Diaoyu Islands, known in Japan as Senkaku).」では、何を返還したのか。「米国は1971年に調印された沖縄返還協定で、東シナ海における係争中の島嶼[尖閣]における日本の施政権だけを認めた(The report said the US recognizes only Japan’s administrative power over the disputed islands in the East China Sea after the Okinawa Reversion Treaty was signed in 1971)」に過ぎないのである。米国は主権(sovereignty)とは明確に区別して、施政権(administrative power)だけを返還したと明言しているにもかかわらず、この趣旨とは正反対の趣旨で福田は答弁している。あるいは、誤解したふりをして国民にウソをついたのかもしれない。誤解であれ、ウソであれ、このような外務大臣の無責任答弁に接してきた国民が、主権=領有権の返還と誤解して、国民の不満が中国側に向けられ、反発するに至った経緯は、明らかだ。今回の尖閣紛争は歴代の日本政府の責任によるものと見てよい。ちなみに、伊関佑2郎政府委員にいたっては、12月15日3院本会議で答弁不能に陥った。「あれは行政協定の問題になりますかどうか、ちょっとそういう話がございまして……[絶句]沖縄の南でございますね。私のほうもあの点は詳しいことは存じません」。久場島や大正島の射撃場がどこにあるかさえ、外務省高官が知らなかったのだ。

この間の事情を『2012年版』は、こう解説している。「返還協定の合意議事録では、琉球・大東諸島の範囲を布告第27号(USCAR 27)において指定されたものとしている(An Agreed Minute to the Okinawa Reversion Treaty defines the boundaries of the Ryukyu Islands and the Daito islands “as designated under” USCAR 27) 」「そのうえ、合意議事録に書かれた緯度と経度の範囲内には、尖閣=釣魚島が含まれるように見える(Moreover, the latitude and longitude boundaries set forth in the Agreed Minute appear to include the Senkakus (Diaoyu/ Diaoyutai)」。

この英文表現に注目したい。「尖閣が含まれるように見える(appear to include the Senkakus)」という言い方は微妙だ。米国の専門家が読んでも「尖閣が含まれるように見える」としかいえない書き方、すなわち尖閣列島を字面で特定しない書き方で書かれたのが合意議事録なのだ。「上院は沖縄返還協定の批准を考慮した際に、尖閣諸島を日本の施政権に返還するけれども、日本、中国、台湾の主権については、「米国は中立の立場(a neutral position)をとる」と国務省は主張した(During Senate deliberations on whether to consent to the ratification of the Okinawa Reversion Treaty, the State Department asserted that the United States took a neutral position with regard to the competing claims of Japan, China, and Taiwan, despite the return of the islands to Japanese administration.)」「1996年、2010年、2012年と相次いで、尖閣諸島の緊張の火が燃え上がったが、米国は尖閣諸島の主権について中立の立場を再3繰り返してきた(Successive U.S. administrations have restated this position of neutrality regarding the claims, particularly during periods when tensions over the islands have flared, as in 1996, 2010, and 2012. In short, while maintaining neutrality on the competing claims, the United States agreed in the Okinawa Reversion Treaty to apply the Security Treaty to the treaty area, including the Senkaku (Diaoyu/ Diaoyutai)」。

要するに、(1)尖閣諸島の主権争いに対しては、「米国は中立の立場を堅持する」が、(2)「日米安保条約が尖閣諸島を含む地域に適用される」ことは、沖縄返還協定で確かに合意している。

ここから米国の2段構え(2枚舌か)は、明らかであろう。尖閣を含む沖縄は日米安保の適用範囲内だが、尖閣自体の主権についての争いには、米国は中立の立場を堅持する、というものだ。これは実際には、何を意味するか。米国は尖閣を守るのか、守らないのか。事実上は守らないし、守れない、と私は考える。尖閣を守らない理由としては、まず3カ条を挙げられよう。①主権の争いには、米国はコミットしないと、まず逃げている。米国は「中立の立場」を堅持するのだ。②尖閣のような小さな島嶼の防衛は、日本が「第1の責任primary responsibility」を取るべきだ。③日米安保条約の発動については、米国憲法に定められた議会の承認手続きが必要である。

この種の手枷足枷は、尖閣衝突の際には、「日米安保は使わない」と言明しているに等しいのではないか。少なくとも中国は米国が中立の立場を取ると期待してパネッタ国防長官を暖かく歓迎した。米国を束縛する条件は、それだけではない。米中貿易は2011年時点で、往復5000億ドルで日中貿易の2000億ドルの2.5倍である。その貿易黒字で貯め込んだ中国の外貨準備3兆ドルの過半数は、米国国債の購入に充てられている。米中双方は日本との貿易の2.5倍の貿易を失いたくないし、また「中国の過少消費」(過剰貯蓄)が「米国の過剰消費」を補う経済的補完関係、すなわちイソップ童話にいう「働きアリ」と「怠惰なキリギリス」の関係をも大事にしたい。米国から見て万一、どちらかを捨てる決断をせまられた場合には、「日本を捨てて中国を選ぶ」ほうが現実的利益が大きい。加えて、米中はともに核兵器大国である。小さな火花も核戦争に拡大する危険性がある。この文脈では日米安保条約は、すでに「名存実亡」なのだ。かつて、1978年訪中した園田直外相に対して鄧小平は、すばり「中ソ軍事同盟」は、すでに「名存実亡」と率直に真意を吐露して、日中平和条約の調印へと、大きな決断を行う契機をつくった往時を想起したい。以上の諸条件を総合的に考慮すれば、「米中は戦わないし、戦えない」のだ。グローバル経済体制下における世界ナンバーワンとナンバーツーを占める米中経済の「相互補完・依存構造」はいまやビルトインされた。今回の日中衝突以後、「日米安保の再強化」により、中国の武力と対決することを主張する人々が日本では異様に増殖している。この現実は、アメリカ頼みに希望を託する人々に冷水を浴びせるものではないか。

ここで私自身がかかわりをもつ小さなエピソードを紹介しておきたい。小著『チャイメリカ』の分析を気に入ってくれた日本・中国通のアメリカ人専門家、スチーブン・ハーナーは、『フォーブズ』に持つ自らのブログで、小論「日米安保条約スクラップ論」を紹介してくれ、さらに「著者インタビュー」まで試みてくれた。それを読んだ、米議会筋に近いと思われるアメリカ人が、ハーナーのブログに、次の書き込みを行って、『2012年版』が9月25日に改定出版された事実を教えてくれたのだ。曰く、「日本の野田首相は『尖閣諸島は歴史的にも国際法から見ても日本の固有の領土であることは疑いない。領有権の問題は存在しない』と主張している。野田は日本国民にウソをついている。この点では、ヤブキ教授が正直なのだ」( Japanese prime minister insists that “There is no doubt that the Senkaku islands are Japan’s inherent territory in terms of history and international law,” Noda said.“There is no problem of sovereignty.” He is lying to Japanese. Professor Yabuki is an honest man.)

http://www.forbes.com/sites/stephenharner/2012/10/03/interview-with-professor-yabuki-on-the-senkakudiaoyu-crisis-and-u-s-china-japan-relations/

尖閣諸島についての日中首脳間のやりとりの経過を、私は事実に即して説明したにすぎないが、私の分析が野田首相の主張よりも、真実に近いことをこのアメリカ人専門家は認めたわけだ。そしてさらに一言、こうダメ押しした。「中国は沖縄返還当時に、米国や日本と外交関係を樹立していなかったので、沖縄返還は中国の同意なしに行なわれた(China had no diplomatic relations with US and Japan at the time and the transfer was done without China’s consent.)。この1文は、強力な中国支援を意味する。というのは、日本側の尖閣主張のなかに、「中国はこれまで領有権を主張してこなかった」という1項があるが、これについて中国は、自らの主張を行う場を持たなかったではないかと、中国に贔屓しているのだ。沖縄返還当時に、台北からの抗議を受けて、米国がセンカクを亡霊のように扱った史実と2012年の時点で議会調査報告が、北京の立場にこのような暖かい理解を示した事実—-両者を重ね合わせて考えると、米国のしたたかなアジア戦略を痛感せざるをえない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study575:130222〕