2010年ドイツ便り(その10)
《アフガニスタン戦争、8月6日のヒロシマ・ターク》
ドイツでは明らかにアフガニスタン戦争参加に対する厭戦・嫌戦の機運が高まりつつあるように思う。もともと「赤・緑連合」(SPDとGRUENEの連立政権)がアメリカの意向を受けてアフガン戦争参加(国連軍として)に踏み込んだもので、そのせいなのか、シュレーダーもフィッシャーもその後支持が急落して、結局政権交代に追い込まれたのはご承知のとおりである。「黒と黄色の連合」はその轍は踏まずと、アフガン戦争への積極的な増兵などには今のところ応じていない。
ところがここに来て、ラジオや週刊誌、新聞などの論調からうかがうに、どうもアフガン戦争への批判が国民の間にかなり増えているように思われる。それは当然アフガン戦争の仕掛け人であるアメリカへの批判ともなっている。「アメリカの口車に乗ってとんでもないことになった」という気持ちなのではないだろうか。
„Der Spiegel“の7月26日(Nr.30)の表紙見出しは「TASK FORCE 373 Die Afghanistan-
Protokolle: Amerikas geheimer Krieg(機動部隊373 アフガニスタン調書:アメリカの秘密情報=諜報戦争)」とある。
読んでいるとなかなか面白い。先ず、アメリカ軍と情報部に対して „Super-GAU“だという。このGAUというのは原子力発電所の事故の内で、予想される限りの最大の事故で、炉心が溶解し、放射性物質が飛散する場合のことであるらしい。これにsuperという形容詞がついているわけだが、少なくともこの記事は、アメリカの対アフガニスタン戦争がアメリカにとって泥沼の絶望的なもの(ベトナム戦争以上に悲惨なもの)になりかねないということを語っているようだ。
この調書(ドキュメント)のそもそもの始まりは、ある部隊が突然「諜報部」に昇格されて、アフガニスタンで反政府の反乱分子二人(もちろん仲間がいるわけだが)の捕縛ないし暗殺を命令されたことから始まっている。かなり具体的に捕縛・暗殺までのいきさつが書かれている。また今でも戦闘現場からの報道や、上級機関への報告の転送、また中には報告をすべて信じるなという警告付きの報告なども送られてきているそうだ。
先ごろ話題になった、スタンリー・マッククリスタル総司令官の交代劇は、彼があまりにもしばしばワシントンの政治支援の欠如について露骨な批判を繰り返したことがインターネット上で暴露(公開)された結果だという。
また、トップ・タリバンを極秘で探索するための、最高機密の情報部隊の動きまでが(一般の兵士との接触まで遮断されているにもかかわらず)、今やほぼ公開されている状態のようだ。
興味深いのは、アフガニスタン警察の報告書に「反アメリカの抵抗」を呼びかけたものまである(これは一部写真が掲載されている)。これではアメリカは勝てないだろう。まるで昔の映画『アルジェの戦い』の感激的な一シーンを思い出させる。
しかし残念ながら、ここではこれ以上の詳細は全て割愛させて戴く。また面白い記事が見つかればその都度ご報告させて戴くことにしたい。ただ次の点だけは注目に値するだろう。
こういう謀略の秘密をどこから仕入れたと思うか、と編者は問いかける。アメリカ人関係者自身(士官や政治家など)から聞いたのだというのがその回答だが、何と、正確に91731通の機密情報を入手したと書いている。そしてそれをインターネットで流すそうである(あるいは既に流れているのかもしれないが・・・)。WikiLeaksがそれだという。
そしてこの報道内容は、「シュピーゲル」誌のみならず、「ニューヨーク・タイムズ」紙とイギリスの「ガーディアン」紙にも同時に掲載されるという。
なぜこういうことをするのか?もちろんアフガニスタン戦争をやめさせるためだ。これはWikiLeaksの責任者であるオーストラリア人のジュリアン・アッサンジュも同様の考えだ。報道3紙はそれぞれの自主判断に基づいて、報道内容で競合しようということになっている。そしてこのアメリカの謀略の大衆的な公表こそが、アメリカ軍とその諜報部にGAUレベル以上の危機をもたらすというのである。だからこそであろうが、アメリカの国防相ゲーツはWikiLeaksに対して、国益に反した無責任報道だと噛みついている。
僕は決して愛国主義者ではないつもりなのだが、やはり日本の国民、特にメディアはどうなっているのか、と悲しくなる。この種の真相解明は芸能人のゴシップ追及なんぞとは別次元のものであろう。真実を知ろうという気持ちがないのだろうか?だからいつまでも無関心なのだろうか。日本がこの戦争の加担者であること(アフガン沖での給油活動などでの戦争参加)を決して忘れてはならない。この謀略でどれほど多くの人たちが今、この瞬間でも犠牲になっているかを真剣に考える必要があるだろう。
先ごろ、イギリスではイラク戦争の責任追及と真相解明が公開で行われることになり、当時のブレア首相への審査があったことは既に日本でも報道されている。ところで、日本では当時の小泉首相など政治家への同様の審査はなぜ行われないのであろうか?ブッシュ政権の虚偽の報告(「イラクが核兵器を保持している」)に振り回されて、アメリカ断固支持をぶち上げ、国民の貴重な税金を惜しげもなくつぎ込んだ責任、沖縄を米軍基地として提供し、ここから米軍の爆撃機が飛び立っていたことの政治責任、そもそもなぜブッシュの報告を検証なしに丸のみしたのかの政治責任など、こういうことの追求はなぜ行われないのか?大手メディアまでがこの問題に知らぬ顔を決め込んでいるのは、彼らも「同罪」だと断ぜざるを得ない。
8月6日の「ヒロシマ・ターク」(広島Day)には、毎年のことながらドイツのラジオ(僕はテレビを持っていないので、ラジオしかわからない)は、朝から一斉に広島への原爆投下の祈り(別に教会が祈るわけではない)、その報道から始まる。正午過ぎには、ところどころ日本語が交じった現地からの報道がある。(当たり前のことだが、僕はそこだけ正確に理解できるので、一瞬、あれっ、こんなにドイツ語が判るようになったのかな、と思ってしまうこともある。)ここゲッティンゲンでは毎年、新市庁舎前の「ヒロシマ・プラッツ」(広島広場)で小さな集会が開かれる。確かめたことはないが、おそらくドイツ各地でこのような催しが開かれている可能性はあるだろうと思う。当事国の日本では広島、長崎以外では忘れられているだろうに、である。
それにしても、10.21「国際反戦デー」はいつの間になくなったんだろうか?「靖国詣で」を戦争への反省と勘違いしてはならない。
《最近のお話》
ゲッティンゲンのドイツ語の語学学校『ゲーテ・インスティチュート』の8月開校は5日からとなっていた。そのせいか、このところ日本人をよく見かけるようになった。多分ユーロ安のおかげで来やすくなったのであろう。数人の若い女性が日本語でおしゃべりをしながらすれ違って行く。「シュチュルテン」にも珍しく日本人の夫婦3,40代ぐらいの方が入ってきた。話しかけるのも気が引けるので、こちらは一人離れて、ドイツ人の5歳ぐらいの女の子が盛んになついて、店内を走り回りながら、僕のテーブルをその都度叩いて行くのに応えていた。ビールを運んできてくれたりの大サービスだった。学生アルバイトの若いボーイが、君のパパは?と尋ねたら、あっちといって指差した席に、大きなドイツ人の男がいて、「俺だよ」と言ったのには皆大笑いしてしまった。
日本人夫婦は、もちろん慣れていないからだろうが、一番奥の席に腰かけて、何やら不安そうに注文していた。ワインなどを注文していたようだったが、つまみで頼んだはずの料理があまりに大きすぎたせいか、びっくりしていた。そのうちお互いに日本語で会話し始めたので、こちらも日本人だとわかった次第だが、そのままやり過ごした。
姉妹のポーランド人アルバイトの話は既にしたことがあるが、もう一人、スイス人の女性でユリアという名前の若い女子学生のアルバイトがいる。ドイツ語圏の出身で、今は大学で政治学とアラビア語を専攻しているという。この女性が大変聡明な人で、ある日、店が割に暇だったので、少し質問などしてみようと思って、「パレスチナ問題」や「イラク、アフガン戦争」「既成のヨーロッパ中心史観をどう思うか」などについて尋ねてみた。
じつによく勉強しているのに驚かされる。こちらも、三木亘先生や板垣雄三先生から習った半端な知識で応戦したのではあるが、うれしくなるほど話が弾んだ。
「ヨーロッパ中心史観」には、はっきり、それは間違っているという。アラブやアジアやアフリカの歴史に対する無知からきている誤解と、古い植民地主義の結果だという。
「パレスチナ問題」に対し、この問題は微妙なところがあって言いにくいのだが、と断りながら、非常に慎重なもの言いながらも、ドイツ人がものを言えないのは、当然かつてのユダヤ人虐殺の経験があるからで、本当はイスラエル批判をすべきであるとの意味のことを言っていた(少なくとも僕はそのように理解した)。
「イラク、アフガン戦争」を起こしたアメリカにはアラブ学の専門家がほんの少ししかいなかった、という僕の指摘に対して、ドイツでも同じで、ゲッティンゲン大学でもアラビア語をやっているのは十数人だけだという。
ここに書いたのはもちろんほんのさわりだけでしかない。かつての十字軍の話や、11,2世紀のアラブ文化の隆盛、当時、ヨーロッパはまだ野蛮人国であったこと、トリポリの図書館にはこのころすでに約二十万冊の蔵書があったこと、アリストテレスもプラトンもアラビア語の文献を通じて最初にヨーロッパに紹介されたものであることなど、話は多岐にわたり、時間を忘れるほどだった。まだ大学の3年生だそうだ。日本の学生もきっとこのくらいは勉強しているに違いないだろう、と僕は信じたい。
「スイスをどう思うか?」と聞かれ、シラーのヴィルヘルム・テルを思い出す、と答えた。彼女はうれしそうに、テルの話はいまだにスイスではよく語られるし、演じられると言っていた。
僕の下手なドイツ語ではよくわからなかったんじゃないの?と聞いてみた。うれしいことに、そんなことはなかったよ。下手でもないんじゃないの、とお世辞を言ってくれた。ボンのC君に聞かせてやりたいと思った。また「合澤さんは運がいいんですね」というにきまっているだろうが・・・。因みに彼女はボン大学からゲッティンゲン大学に移ってきたそうだよ。
2010.08.12記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion091:100815〕
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2010年ドイツ便り(その9)
《面白そうな記事から》
1.„DIE ZEIT“ の7月22日号(Nr.30)の32面にGRAFIKという一面の「べた記事」があった。ちょっと暑さしのぎになるのでご紹介しておきたい。タイトルは「7つの大罪」となっている。「大罪」(Todsuenden)とはキリスト教で、「神の恩寵をも失うほどの罪」ということらしい。その7つとは、「驕慢」(Hochmut)「暴飲暴食」(Voellerei)「嫉妬」(Neid)「憤怒」(Zorn)「怠惰」(Traegheit)「けち」(Geiz)「情欲」(Wollust)である。
僕などはすぐに少なくとも二つは思い当たる節があってドキッとしてしまったわけだが、おそらく同じようにドキッとされた方が皆さん方の中にもかなりおられることと思う。日本の「蒸し風呂のような暑さ」は、この種の罪を言い逃れる格好の理由になるとは思うが。ところが涼しいドイツではそうはいかないらしい。先ず記事を、かいつまんで…。
「7つの大罪とは名言だ」との自画自賛から始まる。そして「なぜ十戒ではなくて7つの大罪なのか、十戒の方がクリスチャンにとっては完全な禁止条項ではないのか?」と問いかける。教皇ヨハネス・パウロ2世は、殺人、姦淫、背教を強く戒めたではないか、と。
しかし、これらの罪はありがたいキリスト教の教義によって「赦される」のである。もちろん、だからと言って、これらの罪が「罪ではない」などと言っているのではない。むしろ、7つの大罪は「悪習」なのであり、生活習慣病のごとく根付いて、「悪しき人格所持者」を作り出すところに問題があるとのことだ。このような人格保持者は先の3つの大罪に走りかねなくなる。これは教皇グレゴリア1世(540~604)がすでにおっしゃっておられたそうだ。
なるほどな、と思った。しかし、生活習慣病ともなるとなかなかやまるものではない。鉄の意志が必要である。すぐにあきらめることにした。やはりこれはドイツの話なんだ。以下続きを…。
そしてこの7つの大罪の分布図をドイツ地図の上に4種類に白黒の濃さで色分けしている(残念ながらそれはここでは掲載できない)。
先ず、「驕慢」の中心はミュンヒェンだそうで、その理由は整形外科医が一番多いからだという。「暴飲暴食」の中心は、オーパーラントという南ドイツ(僕はまだ知らないのだが)の町で、理由はミシュランの星を持つレストランが14もあるからだとか(行ってみたくなる魅力的な街だなと、われひそかに思う)。「嫉妬」の中心は、ブレーメンで、ここは「押し込み強盗の数がドイツで1番多い」らしい。
「怠惰」のトップは、旧東ドイツで、ポーランド国境に近いウッカーマーク(ここも全く知らない)というところで、なぜなら社会参加が最も少ないからだという。実際にはこの辺の住民は老人世帯が多く、ドイツの貧困地帯といわれているほどで、老齢年金に頼って生活している人が圧倒的だと言われている。かつて、「豊かなポーランド、貧しいドイツ」と言われた時のモデル地区である。若者は皆都会に働きに行っている。
「けち」の中心はハンブルクである。別にステーキの代わりにハンバーグをけちけち食べるからというわけではあるまい。理由はどうも、寄付をする人のパーセンテージが少ないからだということのようだ。この大都市は、一方で多くのドイツ人の垂涎の的である高級住宅街を持つが、他方でレーパーと呼ばれるいかがわしい低俗な歓楽街も持つドイツの一大商業都市である。かつてのハンザ同盟の盟主をリューベックから奪ったことで有名だが、貧富の格差の大きいことでも名高い。„DIE ZEIT“は本拠をここに置いている。
最後に「情欲」。この中心はデュッセルドルフといわれる。もちろん、いかがわしいショップやクラブが多いのがその理由である。しかし、この指摘には少し複雑な感情が交じる。というのは、この町はドイツの日本人街ともいわれ、ほとんど日本語だけで生活できるともいわれている、それほど日本人が多い町である。周辺には日本の現地工場もあるし、日本の商社が多いのも特徴だ。まさか、そんなことはあるまいね、と思いたいが、僕はそれほど日本人(同胞であるが故にか?)を信用する気にはなれない。余談だが、先日飲み屋で隣り合わせになった4人組の家族は、ケルンから休暇で来ていた人たちだった。ケルンとデュッセルドルフは隣り合わせの関係のような大都市であるが、彼らの話では、両都市はいつもケンカをしているほど仲の悪い関係にあるのだという。どういうわけかは聞かなかったが。しかし、ケルン人がゲッティンゲンに来てまで「ケルシュ」(ケルン・ビール)ばかり飲んでいたのには、あきれてしまった。
2.„FOCUS“の7月26日号に小さくのっかっていた記事がある。それは原子力発電所についての最近のドイツ人の意識変化についての調査である。今の政権与党は原発再開を事あるごとに主張しているのであるが、それでは国民は・・・?
2005年には、原発反対…59%、原発賛成…36%であった。
2010年は、 原発反対…81%、原発賛成…17%と政府の意向にもかかわらず、反対派が圧倒的な多数を獲得してきている。日本では「革新政党」も含めて、この問題に無関心すぎるのではないのか?どうしてこういう大きなうねりにならないのだろうか?そう遠くない内に「大間のマグロ」が汚染マグロになるかもしれないのに、のんきなものだ。
《アパートの件、その後》
この「ドイツ便り」の初回に、アパートの件でいかに頭に来たかということを書いた。金の問題ではなく、こちらのプライドの問題だ(沽券にかかわる)と思い、いろんなドイツ人に相談もした。ユルゲンが早速電話で抗議をしてくれた。いかにも几帳面な彼らしく、A4の紙にやり取りの一部始終をまとめて持ってきてくれた。彼の話では、相手もなにやかやと複雑な言い訳をしていたようで、結局はNachmieterを許可するという形で、9月は他人を入居させてもかまわないということで話をつけたということだった。
ドイツ人はしばしばこういうやり方をする(ドイツ合理主義の表れか?)。例えば学生などが3カ月ほど帰省するときにも、人によってはその間他人にまた貸しをして家賃を浮かせる事がある。もちろん、正式には管理人の承諾が必要なのだが、学生では「ヤミ」でやっている奴らが多いようだ。
僕のアパートの規則では、見つかれば即座に「契約違反」で「立ち退き要求」が来ることになっている。そのためユルゲンがこれを正式認可をさせたわけだが、さて今度は僕の番で、どういうふうにNachmieterの求人広告を書き、どこに掲示すればよいか、初めての経験なので要領がつかめない。しかもユルゲンは7月末から8月11日まで夏の休暇を取りアルプス縦走(ミュンヘンからオーストリアを抜けてイタリアまで)に出かけてしまった。仕方なく、ラルフに相談した。彼は快諾してくれて、「キヨシは日本語で書け、おれがドイツ語のチラシを作ってやる」と言ってくれた。それで、どこに貼ればいいのか、と聞いたら、「シュチュルテン」と大学とスーパーなどに貼ればよかろうという。早速シルビアに了解を求める。彼女いわく、「メニューの中に貼っておくのが一番だよ」と。
実際には僕は後釜はそう簡単には見つからないだろうと思っている。しかし、こういう経験は実に貴重なものだ。しかもシルビアのこの回答にはいささか感激させられた。(もちろん、東洋の君子の端くれとして、こんな厚かましいことは固辞させて戴いたが)。
早速実行にとりかかった。次の心配は、本当にドイツ人などから電話がかかってきたらどう説明すればいいのだろうか?というものである。悩みはいつになっても尽きないものだ。
ところで、なぜアパートの入居条件が今年から悪くなったのだろうか。ひと月以上が過ぎて初めて事情が判りかけてきた。入居者がかつてと違って激減しているのだ。多分半分ほどの部屋が空き部屋になっているのではないだろうか。僕の周囲の部屋も閑散たるもので、 中国人とスリランカ人のほかには、黒人の女性を見かける程度だ。昔は一晩中うるさかった時もあったが、今は静かなもんだ。その点はありがたい。(ただし、ドイツの大学の夏休み=ゾンマー・フェーリエンは、約3ヵ月間で、新学期は10月からという点は考慮すべきではある)。
追記。前にも書いたが、このところ「シュチュルテン」は毎日大入り満員。先日は夕方の8時に行ったら、店に入りきれないほどで、外もいっぱい。トルコ系ドイツ人のおばさんが一人でため息交じりで走り回っていた。しかも、僕が見まわしたところ、地元のドイツ人たちが夫婦や友人たちときているケースが多いようだ(何人かとはこちらも顔見知りになって挨拶ぐらいは交わす仲になっている)。客筋はいいように思う。去年顔見知りになった地元の年配の夫婦に、今日はすごいね、といったら„Ja,voll“(いっぱいだ)と言っていた。ざっと勘定したら、40人以上はいた。これではシルビアもウエイトレスのおばさんも大変だ。料理が抜群だから評判になったのだろう。美味しくて丁寧で、しかも安い。量が多すぎるのがちょっと気になるが…。ユルゲンまでが、「キヨシ、いいところを見つけてくれてありがとう」などというぐらいだ。
料理人は3人から2人に減った。先日1人がポーランドに帰ったからだ。シルビアの兄さん(がっちりした体格の中背の50歳前後の人)も来ていて、一生懸命空き皿の片づけなどを手伝っていたが、料理人のおばさんと一緒にラルフが運転する車で帰省した。夜中に走って、往復15時間ぐらいの距離だそうだ。
「キヨシ、アルバイトしないか?」とまたシルビアに言われてしまった。
2010.08.10記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion089:100811〕
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2010年ドイツ便り(その8)
《ポーランドのことなど》
「シュチュルテン」に働く人にポーランド人が多いということは先日ご報告したとおりである。ある時、例によって厨房が片付いた後、中で働いている人たちが出てきて、何やら甘い物とか、アイスクリームなどを僕の席のすぐ脇で食べ始めた。アルバイトに来ている女子学生(ポーランド人の姉妹)も一緒になって、総勢5人。ものすごい早口のポーランド語(実際にはどの外国語も他国人には早口に聞こえるそうである。日本語も、ドイツ人にはかなりな早口に聞こえると言われたことがあった。)で、なにやら話をしている。ときどきシルビアがこちらに気を使って話しかけてきてくれる。僕も時々は話に加わって(もちろん、ポーランド語は全く分からないので、いつものブロークンドイツ語でではあるが)、主に女子学生たちと話をした。
彼女たちがグダニスクの近くからきているということが分かった。最初はポーランドのどの都市がきれいか、天候はドイツに比べてどうか、などといつものどうでもいいような話ばかりしていたが、そのうち、ショパンの時代にポーランドが二つに分裂して相互に争ったこと、その後も様々な侵略に会いながら今日に至っていること、などが話題になってきた。僕がグダニスクのことはギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』と、ワレサ元大統領の「連帯」運動で知っていると言うと、急に皆の話がそちらの方に移ってきた。「ワレサをどう思うか」という質問には、「最初の『連帯』の頃はよかった。しかし大統領になってからは、アメリカ寄りになってしまった」と手厳しい批判だった。そういえば、かつてマグダレナというポーランド人の女子学生にも同じ質問をして「ワレサは素晴らしいのではないのか?」と聞いたところ、鼻先で笑われたことを思い出す。
話のついでだと思い、ローザ・ルクセンブルクもポーランド出身だったが、知っているかと聞いてみた。皆の目つきが真剣になってきた。お前はローザについて知っているのか、と尋ねられた。もちろんだ、僕らの学生の頃は、彼女の本を読んだことがあったし、今でも日本ではローザ・ルクセンブルク全集を出そうとしているんだよ、と教えてあげた。
「なんだって、ローザの全集が出るんだって。私はそれを買うよ」「でも全部日本語訳だよ」
「それでは読めないね」・・・。
こういう会話になってきた。これには僕の方が驚いた。そういえば、何年か前に、あるドイツ人と話をしているとき、ベルリンのある運河沿いでローザ・ルクセンブルクが虐殺されて、運河に投げ捨てられたが、今年の追悼集会にかなりの人が集まったそうじゃないか、と聞いたところ、彼が「お前はローザ・ルクセンブルクの名前を知っているのか。もうドイツ人でも知らない若者が増えているのにね。」「でも、ほんとに大勢の人が集まったのだろうか。それならいいんだが…。」と言ったのを記憶している。
ローザもマルクスもこちらではまだまだ生きている、と実感した。と同時につくづく、日本はどうなっているのか、日本の若者は、将来はどうなるのかと、思わざるを得なかった。(「年寄りの冷や水」、余計な御世話だと怒られるかもしれないが。)
帰りしなに、シルビアがシュナップス(かなり強い酒)を飲んでいけと言って、草色の酒を出してくれた。それを飲みながら、日本語では „Ich liebe dich.“ はなんていうのか?と聞かれた。日本語では「私はあなたを愛しています」というのだけど、それは „Ich dich liebe.“ になるんだ、と言ったら、ポーランド語もその順序になる。数字もそうだけど、ドイツ語はおかしい、と言って笑っていた。
《政治家の責任の問い方―日・独比較》
„DIE ZEIT“の7月22日号(Nr.30)は「政治家は簡単に辞任することが許されるのか?」という記事になっている。前回の「ドイツ便り」で国民(住民)投票について書いた。その際、バイエルンとハンブルクで近々あるということをご紹介しておいたが、この記事はそれと関連した記事である。
ローラント・コッホ、ロレント・ケーラー、オーレ・フォン・ボイストという三人の州知事(正確にはドイツは連邦なので「邦知事」の方がよいだろうが、ここでは慣例に従う)が突然「一身上の都合」で辞表を出したことが事の始まりである。
ここで当然、「わが日本国元総理大臣、安倍何某、福田何某、麻生何某、鳩山何某が相次いで職場放棄(一身上の都合での辞任)、また元横浜市長の中田何某も同様、・・・」という事件を思い起こしていただきたい。まあ、麻生、鳩山何某の場合は、むしろ辞任に追い込まれた形だったと言ってもよいのだろうが…。それにしてもこれらの方々は中央、地方の違いはあるにせよ、いずれも政界(立法、行政)のトップにおられた方々のはず。いずれの方々も相変わらず「のうのうと」政界に居残り、あるいは関係を持ち、しかも「もう国民も忘れたころだ」と思ってか、再びテレビなどで無責任な発言を繰り返しておられる。
しかも、メディアも有権者たる国民も、これらの方々に「寛大」なのか、ただその場でお茶を濁して終わりにするだけだ。これが責任の取り方なのだろうか?ここで改めてドイツの場合と比べて考えてみたい。
前にこの「便り」の中でも触れたことがあったが、現メルケル政権を支える「黒と黄色(シュヴァルツ・ゲルベ)」の連立政権がその内部があまりに情けない状態だということで、国民の支持が急落していることはご承知のとおりだ。これは、わが日本国で、「自民・公明」連立政権がたどった道とよく似ている。今回辞職した三人はいずれもCDUだったらしい。ドイツの現政権は大統領候補の擁立にも四苦八苦している有様である。
„DIE ZEIT“はしばしば、一つの問いかけに「ヤー(肯定)」と「ナイン(否定)」の両方の意見(論調)を対照させて載せることがある。今回もその手法が採られていた。しかし、読んでいく内に双方の意見ともこの安易な辞任を批判し、こんなことを今後も許すことがあってはならないと結論付けていることが分かる。両意見の違いは、肯定側が「簡単に辞めて何が悪いの、どうせまた復帰するつもりなんだろ?」と皮肉っている点だけのように僕には思えた。
しかし、いずれの論調も日本のように安直に容認する、というよりも「なあなあ」のあいまいな態度で済ませるというものではない。「高い官職(要職)に在ったものとして、いかにして辞任に至ったかという明確な自己確認の経過を具体的に説明せよ」という、いかにもドイツ的な厳しい要求を突き付けている。もちろん、各所に、選挙民はもはやこんな無責任な政治家を選ぶことはあるまい、といった論者の態度がにじみ出ている。
この辺は日本と決定的に違う。日本では、辞めた人がそのすぐ直後の選挙に立候補する。それどころか、再び簡単に当選できるのだからあきれる。しかも、新聞などのメディアも彼らの責任などどこ吹く風、ただの一過性のありふれた事柄として忘れてしまう。責任追及、辞任理由の説明要求などは全くしない。もちろん国民(住民)の直接選挙による責任ある議員の選出などという発想は考えもしない。一方、簡単に辞任した議員の方でも、「辞任に至った経過の自己確認」などどうでもよく、あわよくばまた、首相にでも返り咲けるのではないかと、気軽に考えている始末だ。
ドイツではこれらの事はあいまいでは済まされない。選挙民の権利として、辞任理由の説明を元政治家たちに厳しく求める。「選挙民たる国民(住民)も、国や州(邦)も、議会も、同僚の政治家たちも、政治も、なめられたもんだ!」と憤慨しているのである。これが本来あるべき姿勢ではないのだろうか?
ドイツも日本も敗戦国であり、空襲により国家はズタズタに破壊され、なおかつ戦争責任問題などの深刻な総括をせざるを得ない、同じ立場から再出発したはずである。日本に比べ、ドイツの方が東西分断という更なる痛手を被ってきたともいえる。DIE ZEIT紙は次のように述べる。
「これまでドイツの政治家には、かなりの年配者がなっている。ブラント、シュミット、シュトラウス、ヴェーナー、あるいはコールがそうだ。これらの政治家たちにとっては、政治の全てが戦争と独裁の経験の中に根をおろしていた。破壊された国家の物質的、道徳的な再建に向けた彼らの共和国への貢献は、いつも実生活次元のものだった。だから彼らは政治を自分の生涯の務めと称していた。信じられないだろうが、ヘルバート・ヴェーナーは、ある日バターを塗ったブロート(朝食用パン)を包んで持ち歩いていたが、自発的にそうしていたようだ。」「戦争世代の政治家にとっては、・・・政治は彼の生命(生き方、人生)であった」「より大きな自由を持って後から生まれてくる者たちは、自分たちの人生の道を選び取っていくことで前進するのである。」
政治家の資質の問題なのか、国民性なのか?
4月の現代史研究会で加藤哲郎さん(一橋大学名誉教授)が、アメリカの第二次大戦関連のCIA調査文書(公開分)約10万ページの内の90%はドイツ関連であり、残りが日本関連だった、と報告されていたが、「蓋し、さもあらん」の感がする。
2010.08.05記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion083:100807〕
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2010年ドイツ便り(7)
《シュッツェン・フェスト(Schuetzenfest)》
いつものように「シュチュルテン」で飲んでいたら、店の看板後にシルビアに、明日の午後2時に来ないか、と誘われた。翌日は日曜日で、通常は店は休みのはずだ。何かあるの?と尋ねたら、「シュッツェン・フェスト」のパレードがその頃この前を通るからだという。
前からその名前だけは聞いていたのだが、シュッツェン・プラッツ(多分日本語では「防衛公園」とでも訳されるのではないだろうか?)は駅の向こう側であり、出かけて行くのも億劫なので、今まで行ったことはなかった。まさかパレードが旧市庁舎前から出発するとは、うかつにもこれまで全く知らなかった。
先の大戦で、連合軍は大学町であるゲッティンゲンには爆撃をしなかったと聞いていた。そのことを再度ラルフに確かめたところ、実際にはゲッティンゲン駅と、このシュッツェン・プラッツの二か所は爆撃されたのだという。なぜ、シュッツェン・プラッツが?という疑問には、そこに当時の軍部のかなり重要な施設があったからだという答えであった。
日曜日はどこのスーパー・マーケットも閉店しているため、食事は買い置きを食べるか、インスタントスープをお湯に溶かして作るか、いずれにせよかなりみじめな食生活を送らなければならない(あるいは、街のレストランで食べるという手もあるが、面倒だ)。
というわけで、僕にとっては渡りに船であるので、早速出かけることにした。
このところドイツは急にまた涼しくなってきている(この日は最高気温が22度ぐらい)ので、外出するには最適だ。約束の2時に「シュチュルテン」に到着。まさか昼過ぎからビールを飲むほど僕はまだ「アル中」ではないので、コーヒーにして、カウンター席で「シュピーゲル」を眺めていた。横では年配のドイツ人のおじさんが二人、すでに早くからジョッキーを傾けていた。外の席はかなり多くの客が座っている。店ではプラスチック製のコップをおよそ30個ほど用意して、それに水を入れ(お断りしておくが、ドイツでは水の方がビールよりも高いのだ)、お盆に載せて表の席に置き、一人のおばさんがそこに座って待機していた。
2時半ごろ、けたたましい楽器の音がして、パトカーの先導と、そのすぐ後からオープンカーなどに乗った年配者、続いてそろいの扮装を凝らした老若男女のグループ、もちろん楽隊や旗を持った人たちが各グループの先頭に立ち、何組ものグループ編成で行進していく。中には花で飾り立てたトラックの荷台に大勢乗って、手を振りながら通り過ぎる人たちもいる。もちろん僕も二人のおじさんたちと一緒に表に出て行った。パレードの人たちは、通り過ぎながら何かを投げるのだが、最初は何を投げているかわからなかった。そのうちこちらの方にどっさり投げられて、はじめてそれがセロファンでくるまれた「アメ」であることが分かった。いずこも同じで、ここでも小さな子どもたちが競い合ってそれを拾っていた。なぜか、僕の方にもかなりの量が投げられてきたので、それを拾って、すぐ近くに座っていた年配の二人組の女性の席にせっせと運んで行った。
表の「水」は、待機していたおばさんが、多分顔見知りの古顔のおじさんたちにであろうが、優先的に?飲ませていた。中には、ビールなら飲むのだがね、と冗談を言いながら通っていくおじさんもいた。中で隣り合わせに座っていた二人組のおじさんたちは、そのうち知りあいが見つかったと見えて、手に持ったビールを飲ませながら抱き合っていた。
楽隊の演奏のにぎやかなこと、やはりこれは軍楽隊なのだ。中世風の衣装を身につけたグループや、明らかに海軍の服装をしたグループ、胸に勲章もどき(本物かどうかはわからないが、もちろんナチが与えるようなものは全くなかった)をずらりとつけた人たち、こういう人たちが、おおよそ500人ぐらい、あるいはもっといたかもしれない、が行進していく。
シルビアたちも調理場から表に出てきて、拍手したり、知り合いと抱き合ったり、握手したり…。店の前はもうびっしりの人だかりだった。
後でラルフに聞いた話だが、このフェストには爆撃で亡くなった人たちへの慰霊の意味があるそうである。僕が、ドイツ人にはまだ「国防意識」があるのでは?と尋ねたところ、彼が言うには、ナポレオンに攻め込まれたりした体験があるからね、というものだった。でも、ドイツだってポーランドを侵略したりしたではないか、と言いたかったが、「侵略」というドイツ語がどうしても出てこなかったので言うのをあきらめた。
この店は午後3時から5時までの2時間は中休み(Pause)である。その間少し散歩しようと思って出ようとしたら、シルビアがライス(言うまでもなく米のご飯であるが)を食べていけ、という。多分、店の人たちの昼食用に作っているものだと思うが、ちょっと見た感じでは、ハヤシライスのように見えた。一瞬躊躇したが、朝食をかなり多めに取っていたことと、この後のビールが入らなくなることを考えてご遠慮申し上げた。二人連れのおじさんの中の一人は、すでに食べていた。常連客なのであろう。
ぶらぶらと気持ちの良い陽気の中を歩いて、Zakの前のマルクト・プラッツ(マーケット広場)まで来たら、そこには出店がびっしりと並び、大勢の人だかりがしていた。これも今日のフェストに併せたのかもしれない。素見して歩いていたら、売り子をしていた若いお兄さんが、本を買って行けという。全て1ユーロで結構だからだと。君はどんな本を読むのか?と聞くので、一応哲学書だ、と答えたら、丁寧に探してくれた結果 „Es tut mir leid.“(ごめん!)といった。何か買ってやろうかと思ったが、女房に、不要な本などを買うなと怒られそうだからやめた。
その場を出て、城壁跡の木陰を散歩し、住宅街を抜けてシラー公園(本当はWieseだから「草原」と訳すべきなのだろうが、やはり公園に違いない)に行った。ドイツ人の子供(幼児)が大勢遊んでいた。最近の日本人の子供と比べて、どうもこちらの方が野性的でしっかりしているように思う。まるで、戦争直後のわれわれ世代の幼少時のようにたくましさがある。過保護ではないからだろう。親は少々怪我などしても知らん顔だし、子供もすぐに立ち直る。
そこからドイツ・テアター(国立劇場)の横の城壁跡を通り、5時半ごろ「シュチュルテン」に再び戻ってきた。客足はあまりなく、シルビアが食事をしながらラルフと何か打ち合わせをしていた。「キヨシ、ご飯を食べるか?」と又聞いてきたが、いや、ビールを飲むからいい、と断って、通常のメニューから注文をした。リュックから箸(ドイツ語では、Staebchenシュテープヒェンという)を取り出して見せたら、珍しそうに手に取って見入っていた。
何でもこれで食べるのか?ステーキなどはどうするのか?やはりフォークとナイフが必要だろう?これではご飯しか食べられないだろう?と矢継ぎ早に質問され、いやこれですべて間に合うのだ、と実際に使って見せたら、驚いていた。
今、この店はラルフとトルコ系のおばさんと、ときどき手伝っている学生アルバイトの男子を除き、スタッフはすべてポーランド人だ。女子学生とその妹、厨房に3人。彼らが話しているのを聞いていると、まるで猫が「みゃう、みゃう」と鳴いているように聞こえる。すさまじく早口だ。ドイツ語よりは、同じスラブ語系のロシア語に似ているように思う。
《最近の記事から少々》
前回サボってしまったので、今回は少し新聞、雑誌の記事から面白そうなのを抜いていくつかご紹介させていただく。
1.まず、各政党別の支持がどうなっているかについての最近のアンケートから。
Union(CDU,CSUの合同)・・・30%(-1%)
SPD(社会民主党)・・・28%
Gruene(緑の党)・・・19%(+1%)
Die Linke(左派党)・・・11%
FDP(ドイツ自民党)・・・4%
Sonstige(その他)・・・8%
これで見れば、現政権の支持母体であるUnionとFDPが連立してもはるかに緑と赤の連合には及ばないのが判る。また左派党が強いのも特徴である。更に日本に比べて、「支持政党なし、その他」といういわゆる無党派層がきわめて少ないのは、ドイツ人がはっきり政治的に発言をしたり、自己主張をすることを現わしているのだろうか。また政党の方も日本よりもはるかに国民生活に溶け込んでいるのであろうか。
2.かつてのSPD党首からDie Linke創設の立役者になったオスカー・ラフォンテーヌの消息について。彼が癌を患ったことは僕も知っていたが、それほどのことはあるまいと思っていた。Die Linkeの党首が代わった(確か、一人は女性のはず)ことも知っていた。しかしこの「シュピーゲル」の記事には驚かされた。彼の癌はかなりひどくて、彼自身が早く楽になりたいと思うほどの痛みを伴い、まさに死線をさまよい続けていたそうである。もちろん政治家としてはほぼ絶望視されていた。ところが、この不死身の男は立ち直ったのだ。手術が成功し、再び政治活動に復帰してきた。しかし、無情にも彼の席は党本部の窓際に移されていたそうだ。それでも彼は、毎日18キロもジョギングをして体力回復に努めているとか。居酒屋で知り合ったドイツ人が、何人も彼の復帰に期待していることを知った。いまだに彼は希望の星であり、それが彼の人生の張りになっているのかもしれない。
彼らは公然と「共産主義」を問題にしているし、マルクスの『共産党宣言』の今日的意義を主張してもいる。ひょっとしてドイツが世界の変革の先陣を切るのかもしれない。先の支持層の厚みから考えても、そう期待しうるような気配が感じられる。伝統の重みなのか。
3.(ドイツの週刊誌は内容的に大きく二種類に分けられる。一方はニュース的なもので、この代表格が「シュピーゲル」であり、他方の論評・意見的なものの代表が「ディ・ツアイト」であると聞いた。)
„DIE ZEIT“ の7月2日号(Nr.28)に「われわれは噛みつきはしない」というタイトルの記事が載っていた。この記事の筆者は「国民投票」(Plebiszit)の提唱をしているのである。最初この提唱には正直、困惑した。というのはご存じのようにナチスの時代にヒトラーは何度かの「国民投票」を行ってきたからであり、自分を「総統」として公認させたことを含めて、重要な決定はいつも「国民投票」という一見民主的なやり方が取られてきた経緯があるからだ。なぜ、今、何のために?という思いで読んでみた。
筆者は「国民投票は国会の対立(敵)ではない」「政治はまさか国民と言う君主に対して少しでも心配しているんではあるまいね」と述べる。
筆者がここで挙げる貴重な体験は「1990年の東西ドイツの統一、ベルリンの壁崩壊」を実現させた「国民投票」である。この時は国民の代表(議員)ではなく、国民が国家的な事件について自己の意思を押し通したではないか。しかも、それで民主主義は壊れていない。当時、両ドイツ政府は、シュタージ(旧東ドイツの秘密警察)文書に封印しようとしていたのだ。それを公民権運動家が国民の同意のもとに闘い、東ドイツ国家安全文書(シュタージ文書)を確保したのだ。
民主主義は国会開催の中にだけあるのではない、国民一人一人の自由への衝動から生み出されるのである。このような意味での国民投票という言葉は、多くの政治家や幾人かのジャーナリストたちにとっては恐ろしく聞こえるかもしれない。しかし、「当時はとにかくよりよい論拠が押し通されたのであり、政党ではなく、勇気が勝利したのだ」。
討論(Debatte)は暴力に取って代わるし、場合によっては党派決定にも取って代わるのである。多くの人々が思考するときに、民主主義はより生き生きしてくるのだ。民衆の共同決定に対して、政治家はいら立たされるかもしれないが、政治がいら立たされることはない。
カール・ヤスパースの言う、「見せかけのデモクラシー」と「党派による寡頭政治」が打破されなければならない。慰安からは何も生まれない、国民評決をすることのみを要求したい。
しかし、確かに国民は扇動されて危険な方向に走ることがある。だから無条件で国民投票を提唱するわけではない。先ず、州(邦)レベルで間接民主制と直接民主制の併用を提唱したい。直接民主制と議会主義は矛盾しない。一番危険なのは、一度決められた規制が変更されないということである。
誰しもまず思うのはわが「沖縄基地返還問題」であろう。住民の84%が反対している。それなのになぜ、自民党政府は申すに及ばず、民主党新政権までも当初の約束を簡単に反故にしてしまう。沖縄住民の怒りは「沖縄独立」運動にまで発展してきている。まさに住民投票による直接民主主義が要求されるべきときではないだろうか。
新潟巻町での原発建設反対の住民選挙や高知県の小さな村での原発による汚染物質投棄反対決議(町長選挙)など、日本でも各地でこのような直接民主主義の火の手は確実に上がっているように思われる。それが、国政レベル、間接民主主義レベルまでまだ及ばないのが残念なのであるが。ドイツでは、バイエルンで最近この種の直接選挙が行われたという。また、まもなくハンブルクでも行われる予定だという。
1830年、その死の1年前にヘーゲルが書き遺した「イギリスでの普通選挙法に関する批評」という論文がある(因みにイギリスで普通選挙法が採択されたのは1832年、ヘーゲルの死後1年目である)が、その中に、同じように地域での直接選挙の併用を薦めている個所がある。きわめて興味深い議論であり、併せて考えて行きたい問題だと思う。
2010.07.30記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion082:100804〕
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2010年ドイツ便り(6) (その6)
《在独日本人の友人たちの消息》
先日の午後、出かけようとしているところ僕の携帯に電話がかかってきた。大抵はドイツ人の友人たちからのが多いので、その時も多分そうなんだろうと思いながら出た。電話の向こうから懐かしいT教授の声が聞こえてきた。あまりに突然のことだったし、どうして彼が僕の電話番号を知っているのかしらとびっくりしてしまった。大変元気そうな声で、今年のドイツはすさまじく暑いね、と言っていた。僕の電話番号は家内からのメールで知ったとのこと、僕の方は彼に連絡を取りたくても、住所(ライプチッヒ)しか知らないため、手紙を書くのが面倒でついご無沙汰していた次第。彼の話では、宿舎に備え付けの電話を入れたから、今後はいつでも電話してもいいよ、とのことだった。大学の先生方は、僕らのような立場の者とは違って、ちゃんとしたガスト・ハオス(公的な宿舎)を提供されるので、かなり快適に生活をエンジョイできるはずである。
早速ちきゅう座への原稿依頼をしてみた。しかし、日本人の特徴なのかも知れないが、彼はこちらに来ても仕事をいっぱい抱えているようで、翻訳の仕事と、ご自分の研究と、大学での授業の一部まで手伝っているとのこと、なかなか時間が取れないようだ。
それでも、もう少し涼しくなったら相互に行き来するようにしようという話になった。僕はICEで4時間ぐらいかかるのでは、と言ってしまったのだが、多分片道3時間ぐらいではないだろうか。もっともこのところICEの故障が相次いでいて、週刊誌などでも旧式のジーゼル車に追い越されているICEの写真入りで、「ドイツのハイテク技術はどうなってるんだ」と茶化されている始末だから、案外4時間以上かかるかもしれないが…。
ライプチッヒ大学のK教授とももう随分会っていない。彼がベルリン自由大学のドクターコースに在籍の頃お会いしたきりになっている。ときどき日本に帰国している由だが、僕とは会う機会がなかった。なんだか急に懐かしい気がする。
ボン大学のC君は無事ドクター試験の口頭試問も終えて、先日僕の汚いアパートに訪ねてきてくれた。部屋での話はそこそこにして、例の「スチュルテン」に祝杯をあげに出かけて行った。さすがに在独歴9年で、ドクターをほぼ手中に収めただけあって、ドイツ語力は大変なものがある。彼の前で下手なドイツ語を喋ると、まるで先生の前でテストされているような気分になるため、僕としてはあまり喋りたくないのだが、今回はシルビアやラルフの店なのである程度は喋らざるを得ないことになった。そこは開き直りと度胸を頼りに、「ブロークン結構」とばかりに彼らや他の客(ドイツ人の地元のおじさんたち)と一緒になっておしゃべりをした。
その一例。僕はもちろん、「僕の友人のユルゲン君が、ここの食事はパーフェクトだ、と言ってたよ」と言うつもりで、“Mein Freund Juergen sagte, hier Essen perfekt.“とシルビアに伝えた。もちろん、シルビアにはばっちり伝わったらしく、「おー、キヨシ、どうもありがとう」とすごくうれしそうにお礼を言われた。ところが、C君は全くのあきれ顔で、そんなドイツ語でよく伝わるものですね、と言う。言葉なんて、分かればいいんだろ、と僕。伝わってさえいれば、学校文法なんて糞くらえだ。(劣等生の空威張りか?)
この日はシルビアは大サービスで、わざわざビールや食事まで僕らの席に運んできてくれた。C君は、シルビアを見て、あんなに若くてきれいな人だったんですか?もっとずっと年寄りの女性を想像していたんですが、…。「どうして合澤さんは(ろくに喋れもしないくせに、という言葉は呑み込んで)、簡単に友達ができるんですかね。不思議ですね。」とおっしゃる。「運がいいんですね…」と。
話が前後するが、彼はかなり優秀な成績で論文試験と口頭試問を通過したようだ。
もう一人、去年の夏はケルンにいて、秋からハイデルベルクに移り、そこで再び勉強をしているT君についての消息もお伝えしたい。彼もまた例外なく勤勉な日本人の典型の一人である。通訳などで生計を立てているのだが、学業と共に英語の資格も取りたいと考え、ドイツの英語学校に通っていたそうだが、この24日から本場イギリスの学校に短期留学する予定であるという。僕も一度彼にお目にかかって話をしたいと思っていたのだが、残念ながら今回は彼の予定が詰まっていたため見送りになってしまった。もちろん、彼にもちきゅう座への投稿はお願いした。
《ドイツの朝と晩―夏》
この数日はまたかなり涼しい日が続いている。特に早朝の外気の涼しさは大変気持ちがよい。涼しいというより少々肌寒い感じがする。ただし、僕の住居の方は作りが悪いのか、古いせいなのかわからないが、昼間の熱が朝になっても抜けない。そのため、なるべく朝早くに起きだして窓を全開にし、涼しい外気を入れるようにしている。日昼や夜も窓を開ければよさそうなものだが、何せやたらに蠅やなにやらの小虫が入り込んでくるため(蚊は不思議にほとんどいない。ドイツの気候のせいなのかもしれない)そう無警戒に窓を開け放つわけにはいかない。食事中に蠅などに飛び込んでこられたら全く落ち着かなくなるからだ。
こういう気候のせいなのかもしれないが、ドイツ人は朝が早い。午前5時ぐらいには既に少しずつ町が動き始めている。日本の豆腐屋などと同じでパン屋などは仕込みの真っ最中であろうし、第一このアパートの営繕作業をやっているおじさんたちも、もう5時ごろから外でなにやら始めている。
6時ごろになると確実に一斉に動き始める。女子学生などが自転車に飛び乗って勇ましく学校目指して駆けているし、ゴミの収集車もやってくる。これがまたとてつもなく巨大なトラックだ。日本の収集車の三倍ほどある。集合住宅やスーパーマーケットなどから出されるゴミが集められた鉄製のごみ容器(個人のではない。これにも普通型とかなり巨大なものの少なくとも二種類はありそうだ)を、普通サイズのものは二人で底についた台車を利用して収集車まで引っ張り、後方にセット。後は機械的に自動でもち上げ容器を逆さにしてガンガンガンと三度ばかり打ちつけてゴミをとっていく。さらに巨大なものには、クレーン車付きのトレーラーが登場し、容器ごと持ち上げて取り替えて行く。いかにもドイツ的で、全てが重厚で丈夫である。
スーパーなどに商品を運んでくるトレーラーもこの時間にはやってくる。当然スーパーの店員たちも何人かはこの時間から働いていることになろう。
数年前までは郵便配達の人たちも6時か7時ごろには配達していたように思う。それがいつの間にか一般の勤務時間帯に代わっていったようだ。最近では見かけない。POST(ドイツの郵便局)の民営化のせいだろうか?そういえば、郵便配達に女性の数が増えているように思われる。また、少なくともこの地区(ゲッティンゲン)では、郵便配達は相変わらず自転車だ。後方の車輪の両側に大きな荷物袋を取り付けて運んでいる。ドイツの郵便屋さんの色は黄色である。
色から連想してすぐ思い浮かぶのはドイツのパトカーの色だ。日本ではなぜか葬式の垂れ幕のような白黒模様がまだ使われているが、こちらでは緑や青などをボディに使っている。僕の感覚では葬式色よりかずっとよいように思う。以前にも書いた記憶があるが、こちらには交番のような休憩所はない。ほとんどパトカーでの巡回か、車を止めての巡回が主のようだ。最近、日本ではやたらに交番を改築して豪華にしているが、肝心のお巡りさんの姿になかなかお目にかかれないのはどうしてなのだろうか。まさか昼寝をしているのではあるまいね…?
色でもう一つの連想は、西欧に特徴的なあの「だいだい色」の屋根である。最初にヨーロッパに来て飛行機の中からこの屋根の色を見たときの感激はまだ記憶に残っている。西欧と言えばすぐにその色調を連想してしまうほどだ。しかもドイツは、夜の街灯の色もこの色である。日本やアメリカのようなけばけばしいネオンサインのない、静かな暗い夜の街を歩いていて、ポツンポツンとともるこの街灯の色にはなぜか奇妙に郷愁をそそられる。
真冬の零下20度ぐらいまで冷える日の夜は知らない。しかし、ドイツ人に聞くと真冬でも酒場には結構人が集まっているそうだ。今夏のような暑い夏場はさすがに表の椅子席はどこも満員である。ゲッティンゲンの中央、旧市庁舎とがちょう姫(ゲンゼ・リーゼ)の銅像のすぐ脇に市庁舎の地下のレストラン兼居酒屋が広げている椅子席の店があり、それをはさんで両方の角にやはりレストランが出している椅子席の店と、喫茶店が出している(もちろん喫茶店でもビールは飲めるのだが)店とが道路の三分の一ほどを占拠している。ドイツ人は表で飲み食いするのを好むらしく、傍で工事をしていても平気で飲み食いしているし、暑い中で日陰もなくて平気で座って話し込んでいる。僕は大抵部屋の中に入っていく。最初は暑いが、そのうちこちらの方も涼しくなるからだ。第一埃っぽくなくてよい。
飲んでいるとつい時間を忘れて遅くなることがある。ときどき午前0時を回ってから帰途に就くこともある。日本のように終電車を気にしなくてよいというのは助かる。先日はゲビッター(突然の雷雨)にあってしまった。ラルフがタクシーを呼ぼうかと言ってくれて自分の傘までもってきてくれたが、僕はドイツではいつも折り畳み傘を手放したことがないので、両方ともお断りして、雨の中を30分ほど歩いて帰宅した。
都会の夜は知らないが、ゲッティンゲンではもちろん新宿や池袋、渋谷などのような夜のにぎわいはない。それでも、普段は午前0時ごろになってもまだ客足が少しはあるようだ。
「シュチュルテン」も客足がある限りは表に椅子をおいたまま営業を続けている。それと僕のひいき目なのか、いやユルゲンもC君も同じ意見だったが、ここに来て「シュチュルテン」の客足が増えているように思う。しかも食事をとる人が確実に増え始めている。シルビアたちが誠実で旨い料理を提供していることが報われてきたのかもしれない。ドイツの店はビールでは売り上げにならない。それほどどの店も安くて値段も変わらないからだ。食事を取ってもらわなければ儲けは出ない。Zakよりこちらの方が上だとユルゲンまでが言うくらいだから、みんなに認められてきたのであろう。
僕も足しげく通って、少しは客足の呼び込みに貢献できたのかもしれない。
もう一つ話題ついでに書いておきたいのは、日本でも盆暮れの時期にはお中元、お歳暮の売り出しに併せてよく大売り出しをするところが多いが、ドイツでもそうらしい。ただし、ドイツにお中元やお歳暮と言った慣習があるかどうかについては知らない。とにかく、年に二回の大売り出し(Angebotと呼ばれているが)の時期の一つが7月後半の一週間のようだ。もう一回のセールは、もちろんクリスマスセールだ。靴などは半額セールもやっている。もっとも、「メフィスト」などの高級品は例外であるが。「メフィスト」は手作り靴の名品だ。一度これを履くと、いったい今まで履いていたものは何だったのかと疑いたくなるほどの品である。最初から足にぴったりくる。誂え品でもこれほどのものはないと思う。しかし残念なことにこの靴の製作職人の数も激減していると聞く。
*本当は“Der Spiegel“か“DIE ZEIT“あたりの記事をご紹介したかったのだが、今週は涼しい日が何日かあって睡眠第一だったのと、C君の来訪で飲み過ぎたこともあり、ほとんど勉強できなかった。次回以降の課題としたい。
2010.07.25記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion071:100726〕