1.Nebraへの小旅行(8月18日)
この日は終日雨にたたられてしまった。朝早く起きて、コーヒーと卵入りスープ(Suppe)の簡単な朝食をとり、8時半にこの家の女主人(Petra)の運転で、僕ら夫婦とPetraの孫娘2人の総勢5人でNebraへ向けて出発した。途中雨が激しくなるが、彼女の運転は折り紙つきで、予定していた通り2時間で現地へ到着。
僕はこれまでNebraという名前を聞いたことがないうえ、どこに在るのかも知らなかった。彼女にNebraへ行こうと言われて初めて、少し調べて(というよりもドイツ人の友人たちに教えてもらって)、この辺りの山からおよそ3600年前(初期青銅器時代末期と説明していたように思う)に作られたという世界最古の天体を描いたHimmelsscheibe(適切な訳を知らないのだが、円盤状の銅板に描かれた天文図-写真参照)が発見されたため-実際には盗掘されたようである-Arche Nebra(ネブラの箱舟)という展示場(と言っても本物はどこかの国立博物館にあるそうだが)兼プラネタリウムをつくり、多くの客が来るようになったようである。
Himmelsscheibe
Nebraの場所はザクセン・アンハルト州で、ハレやライプチッヒに割に近い、小さいが閑静な田舎町。鉄道も通っているが単線で、多分、Nebra駅からこの「箱舟」まで来るにはバスかタクシーになるのではないだろうか。
ここに「箱舟」(Arche)と呼ばれる博物館(展示場)がある。この建物の二階が小規模なプラネタリウム及び、様々な関連物の展示場となっている。Himmelsscheibenのレプリカもここにある。ほぼ円形状で、大きさは32センチメートル、重さ約2キログラム。天体といっても、半月と満月が描かれ、その周囲に星がいくつか描かれている。何れも金が使われているようである。
この円盤については、専門のガイドが2時間ほどかけて丁寧に説明してくれた上に、プラネタリウムも見せられたのであるが、残念ながら僕の語学力ではとてもこういう専門的な語彙は持ち合わせていないため、まるっきり理解できなかった。またプラネタリウムの中は絶好の昼寝の場所と化してしまった。ただ、それでも、この円盤が古代人の農業暦として役立っていたらしいということ、どっちかの目安が有名なブロッケン山(ゲーテの『ファウスト』に出てくる魔女が集まる山)にその焦点が当てられているらしいということ、そこに掛る月と何かを結んで方角を設定し、農作業の時期を計算していたらしいということはなんとなく推測できた。古代人の持っていたこういう円盤の製作技術と農作業時期の計算の緻密さ(農業暦)には正直驚かされる。
この円盤が発掘された場所にもバスで行ってみた。かなり離れた山の中で、記念の丸いステンレス製の円盤(かなり大きなもの)が埋められていて、表面にFundortstelleと刻印されていた。そのすぐ近くの展望台にも上ってみたのだが、生憎この時刻は雨がひどくて、ゆっくり眺望を楽しむゆとりがなかった。ブロッケン山の方向も示されていたのだが、肝心の山は見えなかった(あるいは見えても特定できなかったか?)。
かなりゆっくりと時間をとり、帰りは再び彼女の運転でアウトバーンを走る。途中で彼女の提案から、Rosarium(薔薇園)-彼女は「ロザリオ」と呼んでいたが-を見物することにした。Nebraから割に近いSangerhausenというところにあるRosarium で、ヨーロッパ・ロザリウムと名付けられている。
なるほど入ってみて驚かされたのは、その園の広さと薔薇の多さだ。15ヘクタールもの広さの場所に500種類の薔薇が60000本近く植わっているという。
残念なのはあいにくの雨と、こんなに広いとは予測せずに来たわれわれの側の準備不足(時間が全くなかったことも含めて)、時期の悪さ(6月なら最高だったろうと彼女もいうが)である。それでも、さすがにヨーロッパ随一と豪語するだけあって、一面に咲く薔薇の花は見事なものだった。香りにも季節があるのか、白薔薇がわずかに良い芳香をさせていた。
SangerhausenのRosarium
2.Stralsundへの一泊旅行(8月19-20日)
9時すぎに帰宅後、Petraさんは遅くまで何やら明日の準備をしていた。19日も朝は同じく8時半に出発することにしている。彼女は一人で休みなく運転しているのだから、さぞかしお疲れではないかと気遣うだけで、こちらは何もしてやれない。
翌朝、予定通り8時半に家を出発。途中のスーパーマーケットで、パンなどの食料を調達した。この日は昨日と打って変ってよい天気だ。車は順調にアウトバーンをハノーファーからハンブルクの方へと進む。彼女は昨日以上にスピードを上げる。ハノーファーまでの途中道で工事中の場所があったが、幸い停車せずにスピードを落とすだけで切り抜けた。ハンブルクの天気は一年中不順である。この日も好天のはずが、ハンブルクに近付いた途端に雨模様になる。Petraに「キヨシの天気予報はあてにならない」と冷やかされる。これは僕のせいではない。ドイツ気象庁のせいだ、それにしてもおかしいな…?
ハンブルクを通過してしばらくすると、天気が再び回復してきた。子ども二人はおなかをすかせている。途中の休憩地でトイレをし、食事をする。昨夜遅くまでPetraが何やらやっていたのは、この食事の支度だったのだ。それにしても豪華な朝食だと思った。休憩地のベンチを6人で占拠して、目の前のテーブルの上に豪華なご馳走を並べる。みんなして腹いっぱい食べる。これがドイツ方式だ、とPetraさんは言う。なるほど、向かい側のテーブルでも、年配の二人連れが同様に食事をしている。アウトバーンの途中にあるレストランはおおむね高いし、その上トイレも有料ときている。庶民の感覚からすれば、こんなところは使いたくないのは当然だろう。
RostockとWarnemünde
天気はいつの間にかすっかり回復してschönes Wetter(快晴)になっている。彼女の運転は快調だ。休憩時間を含めて5時間ほど経った頃、彼女がちょっとRostockで休んでコーヒーを飲んで行こうという。もちろん賛成だ。一番疲れているのは彼女のはずだから。
Warnemündeというロシュトック市の一角に在るバルト海沿いの保養地で途中下車。海岸縁をしばらく散歩する。子どもたちが裸足になり、砂浜を駆けて海辺まで行くのを僕も同様に裸足になって追いかけた。裸足で砂浜を歩くのは何十年振りだろうか。砂はきめが細かく、サラサラしていて、それほど熱くもなかった。
ここRostockは、東西ドイツの統一以後、ネオナチなどの最大の拠点としてよく新聞やテレビで報道されてきている。外国人の排除や「民族主義」が盛んに吹聴され、右翼Gewaltも多発し、民族主義政党NPDの中心地である。その背景には、統一以後の失業の増大、貧困、格差拡大などのお決まりの問題があるという。確かにロシュトック市内には新たに建てられた大量の高層住宅があり、そこに旧東ドイツ住民の多くがいわば「収容」されている。ここには貧困がまん延している。
一方、同じ市内ながらWarnemündeには高級住宅がひしめき、億ションといわれる高級マンションがずらりと並んでいる。僕らが子供の時分は「海水浴」と呼んでわれわれ庶民の手軽な楽しみの一つであったものが、今では「海のレジャー」といわれるようになり、こういう保養地化した海浜は、いつの間にかお金持ちの占有地にされているように思われる。砂浜では、豊かそうな多くの人たちが優雅にレジャーを楽しんでいた。
Petraの話では、旧東ドイツの時代から、ここら辺には高級官僚のお屋敷(別荘)が並んでいたという。ロシュトックの市街地との何たる相違か!
小さな宝石の町Stralsund
ロシュトックから更に車で2時間近く走り、目指す町Stralsund(町全体が「世界歴史遺産」である)に到着する。以前に一度ここには来たことがあった。池を挟んで街を眺めた時に、そのあまりの美しさに息をのんだ経験がある。
今回はPetraが前もって休暇利用者のためのペンションを借りてくれていた。旧市街地からは少し離れた場所だったが、いかにも百姓家という感じの静かなたたずまいの家だった。荷物を置いてすぐに旧市街へと出掛けた。Kloster(修道院)の赤れんがの塀が続く所を過ぎてすぐのパーキングプラッツに車を入れる。そこから徒歩で海岸の方へ出る。
潮の香りと魚をbraten(油で炒める)した臭いが漂ってくる。ヨットが沢山係留している。大きな客船もつながれている。魚料理のレストランや古びた倉庫群がいくつか並んでいる。
何れもなんだかとても懐かしく、哀愁をそそる。Hafen Kneipe(港の酒場)と書かれた居酒屋が目に入る。もうこれだけで1960年代のスクリーンの世界だ。
そこを通り抜けて、大きな池がある大通りの方に出る。古い立派なレンガ造りの建物の前に出る。あまりに堂々たる建物なので、一体何なのか興味をそそり、立ち止まる。「ハウプトマン小学校」と正面玄関に刻印されている。ひょっとして、あの『織工』を書いたハウプトマンかしら?と思う。ここは旧東ドイツ圏なので、それもありうるかもしれない。
大通りを右に曲がり、St. Marienkirche前に出る。立派な教会だ。
この辺で子供たちが「疲れた」とか「お腹がすいた」とか言い始める。もう少し辛抱してRathaus(市庁舎)まですぐだから行こう、と言ったが聞かない。もう散歩は嫌だという。やむなく、小さな城門の脇のレストランに入る。本日の散歩はこれで終わり。・・・食事をしたら子供はすぐに元気になった。
ハウプトマン小学校 小門(右にレストラン)
帰り路にスーパーによってビールやアイスを買い、帰宅。その夜は、子供たちが大サービス。最初はそこにあったフラフープ(ドイツ語ではHula-hopというらしい)で遊んでいたが、その内ヨガをやり、またいろんな演技をやって大人たちを大いに笑わせ、楽しませてくれた。
20日の朝は再び好天、のんびり支度をしてから町に出る。車を駐車場に入れてから二手に分かれ、Petraたちは水族館へ、われわれは郷土歴史博物館へ行く。
ドイツのMuseumはどこも実に見ごたえがある。ここも例外ではない。広い館内に興味深い品々が数多く並べられ、日本のように係りがやたらにうるさく注意して回ることもない。貴重な骨董品がすぐ目の前で、手に触れれるぐらいの近くで眺められる。壊れ物以外は無造作に陳列されている。
僕が興味を持ったのはやはりハンザ同盟時代のものだ。大きな木片に、この時代の木造船(帆船)の巨大さを想像させる。半ば壊れてしまっているFass(樽)を見ながら、これに塩を入れてフランスなどへ運び、帰りにはワインを入れてきたらしいこと、またニシンなどを塩漬けにして長い海路の保存食にしていたという説明に、いちいち納得する。
ハンザ時代の領主や教会のぜいたくな暮らしにも驚かされる。テーブルや椅子や陶器や調度品や絵画など、素晴らしく豪勢な品々が飾られていた。いかにハンザ同盟が巨大な勢力をもった組織だったか、どれほど財政が潤沢だったかを想像させる。
その反面で、裏切り者に対する苛烈な仕置きもあったようだ。生きたまま鋼鉄の箱に閉じ込めて海に沈めたりしていたことがわかる。斬首用の大きな刀も陳列されていた。
ハンザ同盟については、一度じっくり勉強してみたいと思う。
午後1時過ぎにPetraたちと再会し、昼食をしてから帰路につく。彼女がどうしてもRügen(リューゲン島)が見たいと言うので、そちらに向かう。島には入ったのだが、この季節では道路はUrlaub(休暇)をとって来た客の車で大渋滞。やむなく諦めて引き返す。
ハノーファーを過ぎたあたりで、酷い工事渋滞に会い、車が長時間全く動かなかったのは誤算。何とか夕食がとれただけ良かったと思う(夕食を食べにEinbeck-ビールで有名な町-まで行ったのだが、既に大半のレストランは閉まっていた。それでも開いていた店でかろうじて食事だけはすますことができた)。家に帰りついたのは11時頃。
Petraは全距離を一人で運転した。子どもたちが一緒だったし、われわれの命も預かっていたので、随分神経を使ったようだが、運転では全く疲れていないという。お陰さまでずいぶん楽しい旅をさせてもらった。ビールで乾杯をして眠りにつく。(2015.8.22記)
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