1. ベルリンへの旅行
先日(11日)、この静かな町で、何と殺人事件が起きた。しかもその現場が我が家のすぐ近くだったというから驚きだ。殺されたのは23歳の女性で、モデルをやっていたという美しい人だ。犯人のドイツ人はすぐに逮捕されたようだが、彼は卑劣にも彼女の背後からメッサーで背中を刺し、その後喉を切ったようだ。彼女は虫の息のまま病院に運ばれ、3日後に亡くなったという。二人の間になにがあったかは分からないが、悲惨な出来事だ。
警察は殺人の証拠探し(凶器のメッサーや、その他の遺留品)に躍起になっていて、我が家のすぐ横の公園の池の水まで抜いてしまったし、つい先ごろは私たちがいる家にまで個別訪問で、何か手掛かりを知らないかと聞いてきた。痛ましい事件ではあるが、日本でもこんな経験はなかったので、野次馬根性で興味津津ではある。
19日から21日にかけてベルリンへ車で行った。正午ごろ家を出発して、3時間半(途中でコーヒーを飲みに30分ほど休憩したので、およそ3時間の走行)で、目指すベルリンのSpandauに到着。途中一カ所で、工事渋滞のノロノロ運転をしたが、概ね順調だと思う。
ホテルに落ち着いてから、すぐにSpandauの市内見物に出掛けた。ここは第二次大戦後はイギリス軍の占領下に置かれたところで、今でもかつてのイギリス軍が使っていた立派なレンガ作りの建物(広大な敷地にわたって、大きな美しい建物が配列されている)が残されていて、現在はいろんな会社が共同で入居して使っているそうだ。
また周囲の森にも行ってみた。Spandauはハ―フェル川とシュプレー川に囲まれて出来ているため、周囲には森と湖と川辺のハーフェン(ヨットなど小型船の停泊場)が多数ある。森は、車でいくら走っても終りがないほどに広い。彼女の話ではベルリンには湖が多数あるという。もちろん、森と湖の側の素晴らしい環境の場所には、金持ちの邸宅が並んでいる。これは、洋の東西を問わず、同じ現象である。しかし、こういう素晴らしい環境の中でもとりわけ閑静な場所、「エヴァンゲリッシュ・ヨハネスシュティフト」とか言う名前の小さな一角、ここは周囲に農家もあり、病院やら学校などもすべて完備され、住み易さ抜群といった第一級の環境を誇る場所であることは、車で周囲を回っただけでも分かる。羨ましい限りである。嫉妬心を抱きながらこんなことを尋ねてみた。
「こんな所の住人はやはり大金持ちなんだろうね」…、ところが彼女から全く意外な返事が返ってきた。「いいえ、そうではなくて、ここに住んでいる人たちは、両親を亡くした身寄りのない人たちばかりですよ」…世知辛い日本に育った私の様な人間にとっては、とても信じられない答えだった。彼女の年老いた両親も、やがてはここの病院に入院することを希望しているという。ドイツは既に無茶苦茶にアメリカナイズされた文化で汚染され、その上、最近は右翼の胎動が目覚ましい。しかし、それでもこういう施設を残している。振り返って、我が祖国は…?なんともみじめな気持になる。
その夜は、Spandauのブラオエライ(ビール醸造所)兼居酒屋の「ブラオハオス」で地ビールを飲み(夏場の黒ビールは、アルコール分を控えめにして10.5%だった)、憂さ晴らしをした。
2.ヒトラーによる政治犯牢獄跡Gedenkstätte Plötzenseeを訪ねる
車でベルリンの中心部を車で縦横に駆け巡ることから始まった。私の正直な印象は、もうずいぶん前になるが、最初にベルリンに来て、友人(その頃友人が、こちらへ研究のため来ていた)の案内で市内を見物した時は、なんだか薄汚れた狭苦しい感じのところで、全く魅力を感じなかったのであるが、今回と、前回(二年前)で、そのイメージが全く変わってしまった。何という魅力的な街だろう、もっと若い時だったら、きっとこの街に住んでいただろうに、というのが今の気持である。それほど人を引き付けるものがある。
どんなStraße(通り)も魅力に溢れている。それに、樹木に覆われた都市づくりが素晴らしい。都会の真ん中が樹木であふれた巨大な公園になっていて…、というよりは巨大な公園の中に都市が出現しているといった感じである。
日本で「森の都」といえば、熊本か仙台であろうが、あんなものの比ではない。塔(Turm)の上から見渡せば分かるのだが、うっそうたる森に覆われている。住環境にとって緑の樹木が如何に必要なものかがよくわかる。しかし、徒歩だとよほどこの街を熟知した人に案内されない限り、なかなかその魅力にまでは触れられないかもしれないが、今回は車である。彼女には申し訳なかったが、とにかくいろんなところに案内してもらった。
観光旅行だけではなく、Plötzenseeという場所にあるヒトラーによって虐殺された思想犯の犠牲者慰霊碑をも訪ねた。場所は、ベルリンのテーゲル飛行場の近くで、当時のまま残されていると思われる赤レンガの塀(左側)で囲まれている。当時はかなり巨大な監獄だったと思われる写真(右側)が残されているが、今は巨大な石のモニュメントに(中央)文字が刻まれていて、その後ろがおそらく当時のままの小部屋であろうが、二部屋の建物になっている。
赤煉瓦 モニュメント 往時の監獄の写真
モニュメントには、「1933-1945年、ヒトラー独裁の犠牲者」と書かれている。およそ3000人の思想犯が虐殺されたそうだ。日本にはこういうモニュメントがあるのだろうか?731部隊の記念碑はちゃんと多磨墓地にあるし、山本五十六はじめ、多くの軍人の立派な墓があるが、多くの思想的犠牲者を弔ったモニュメントのことはついぞ知らない。戦争責任問題を曖昧にしたまま、それで良しとしてきたのが日本の戦後を形作って来ているのではないのか。かつてのA級戦犯が総理大臣になり、その孫がその祖父を誇って恥じないのがこの国の退廃した文化的伝統なのか?戦後71年、戦争問題が風化したのではなく、もともとそれを深刻に反省する土壌がなかったのではないだろうか。
こんなことを考えながら、この建物の中に掲げられた何枚かの犠牲者の写真と、その履歴を眺めた。ほとんどが共産主義者、ないしは国際的な連帯やユダヤ人との連帯を意図したとして殺された人々である。赤子を抱えた若い母親、若い恋人同士、若くて美しい女性の左目の下には殴られたような傷がうっすらと見える。中には果敢にヒトラー政権にゲバルトで闘った戦士もいた。連れのドイツ人の友人が、そっと目頭を押さえていたのが印象深い。
3.絵画などの芸術Museumを訪ねる
ベルリンには多くの博物館がある。今回の訪問時に幸運だったのは、ピカソ=マチス展に出会ったことと、現代アート美術展を見たことである。
最初に入ったのは「現代アートの美術展」だった。広い展示場は、いつものドイツのMuseumの常で、歩き回るのに一苦労するぐらい広い。しかも相手は現代アートである。どうやって理解しようかなどと考えていた日には、一歩も前に進めなくなる。しかし、この展覧会で大いに印象深く思ったのは、アフリカのダダイズムといわれる様々な面や像である。これはすごい迫力で迫ってきた。悪霊というイメージがぴったりする。
入り口でもらった小雑誌にこんなことが書かれていた。“Dada kann man nicht begreifen, Dada muss man erleben.“(われわれはダダを理解することはできない、ダダは体験しなければならない)
ヘーゲルを少しかじっている身にはかなり挑発的な言葉だった。すぐに次のように思ってみた。なるほど体験する必要はある。しかし、体験が体験として意味をもつためには、それを意味づける何らかの前提がなければならないだろう。体験には思考が既に含まれていなければ体験とすら言い得ないのではなかろうか、と。
ドイツ人の友人にこの展覧会を見てどう感じたかを聞いて見た。彼女曰く、かなり哲学的だと思った。
私のもう一つの感想は、不調和が表現されていることである。既成の美意識が破壊され、いわば「醜」が前面に押し出された感があった。あるいは美の陰に残された醜悪な空間。現代アートが表現したかったのは、まさに現代社会がそうした不調和や、格差や、近代建築の陰にあって取り残された「災害の傷跡」や、を犠牲にしながら成り立っているということではなかったのだろうか。「醜」はそうした負の側面を逆に前面に押し出した結果とも思えるのである。アフリカのダダにも、そういう負の側面が絶えずついて回っているように思う。
「ピカソ=マチス展」では、ピカソの作品はかなりの数あったが、マチスの方はほとんどがポスター用に描かれたものばかりで、こちらの方は期待外れだった。しかし、クレーやジャコメッティらの作品が多く展示されていて楽しめた。
今更ながらピカソの天才ぶりには驚かされた。実に様々なジャンルにわたって描き分けていること、体制によって固定された、既成の美意識に全くとらわれていないこと、絵画造形の世界において彼が全く自由に創作していること、人物や風景の中に、単なる美と醜とを超えたもっと複雑な意味をこめて描き出した結果、絵画や彫刻の世界では不可能事と思える「ある事態」をも描き出していること、まさに「芸術は真理を感性的に表現している」と思えるのである。
続いて入った「Museum Berggruen」にもピカソの120点を超える作品が展示されていた。また、ゴヤ、ルドン、ダリなどの作品も数多く展示されていたが、芸術はよく時代を反映しているという意味をつくづく考えさせられた。私の印象では、第二次大戦が近づくにつれて、テーマも絵画造形そのものも、「気味悪さ」を帯びて来ているようだ。ポール・エルアートの「死の喜劇」では、ピストル自殺しようとする人物の顔が半分は崩れ、半分は既に骸骨化している。ハンス・ベルマーでは「人形」というテーマでつくられた不気味な造形は、まるで日本の幽霊屋敷のお化けを思わせるような恐ろしさだった。
芸術が時代の真実を感性によって掴み表現するものであるとすれば、哲学はそれを概念把握(begreifen)するためにある。この事を改めて痛感する一日だった。
4.「右翼台頭のドイツ政治」を危惧す
9月はドイツの地方選挙の月である。前にもわれわれが住んでいる小さな町の地方選挙に絡んで、今年は右翼政党の動きが活発であると述べた。ベルリンに行って、事の重大さを更に一層強く感じた。
ベルリンはさすがにドイツ最大の都市であり、また首都であるだけに、選挙運動も地方とは比べ物にならないほど活発である。連れの友人に聞いた話では、ベルリンには20以上もの政党があるという。そして今年の際立った特徴は、右翼政党が貼りだしたステッカーが異常に多いことである。NPD、AfD、ALFA、そしてなんだか分からないが、Die Partei(党)などと名乗るものもある。中には公然とナチスを礼賛していると思えるものさえある。
おそらく、この間の難民問題が大きく尾を引いていることは疑いない。また英国のEU脱退や、ギリシャ問題、スペイン、ポルトガルそしてイタリアなどの経済的危機に絡む問題、こうした問題が根底にあって、選挙民の不安が駆り立てられ、それにともなっての右翼国民政党の台頭となったのではないだろうか。しかし、少なくとも私が見る限りでは、彼らはまだ具体的な政策提示には欠けている。日本の保守政党のスローガンが「日本をこの手に取りかえす」だったのと同じレベルの低級な一般的なものである。しかし、日本では、こんな他愛もないスローガンで参議院選挙を勝ち抜けたのは、直前に低所得者層に配られた一人3万円の補助金(という名の露骨な選挙用資金)だったのではないだろうか?
ヒトラーは富裕層解体と富の再配分、失業者をゼロにする、などの公約を掲げて選挙を勝ち抜いた。もちろん実際には、富裕層との妥協が成立し、スローガン的には「国家社会主義」を掲げながら、実際には資本主義的独占体を残すということになったのは周知の事実である。
私の目にとまった範囲内でのことではあるが、政権政党のCDUは大きなプラカートを街のあちこちに立てている。SPDは今のところ目立たない。独自の方針を失っていることと関係しているのかもしれない。DIE LINKEは善戦しているように思う。やはり、右翼の台頭時には左翼政党も同じように活動が活発になるものと思える。危機的な時代には左右の激突が起きるものだ。そして当然ながら、ドイツの政治の動向は、われわれにとって面白半分の野次馬根性では済まされない重要な意味をもつ。直接世界経済を、従って政治状況を左右しかねないからだ。
それにしても、世界中で一斉に右翼化が進行し始めたことの意味は、もっと真剣に議論され認識されても良いと思う。
2016.8.24記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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