2022年3月11日、そして、これから

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私たちは、この町の名前忘れてはならない。2022年3月『毎日新聞』より 

 14時46分、私は、病院の会計待ちで、電光板と脇の時計を見ていた。まず、思い起すのは、新宿に向かう山手線で、電車が大きく揺れたと思ったら停車し、2時間近く閉じ込められ、帰宅困難者となったことだった。そして、五年後、訪ねた女川の高台の病院、津波に襲われ、奪われた多くの命、石巻の日和山でガイドさんから聞いた家ごと、バスごと流され、失われた命を思い、うつむくほかなかった。また、福島の原発事故から逃れ、故郷に戻れない人々にも思いをはせるばかりであった。病院を出た後は、歯痛のため慌てて予約した歯科クリニックにも寄った。この日、私はいったい何をしていたのか、あわただしいばかりの一日であった。この11年間、いったい、私は何を見て、何をしてきたのか。

 マス・メディアは、犠牲者を慰霊し、残された家族や被災者の「絆」や再出発の希望を、ことさら報じるけれども、離れて暮らす私たちには、その現実は、なかなか見えてこない。 それでも、たとえば『東京新聞』の「こちら原発取材班」の記事などで、福島第一原発事故の見えない収束の実態を知り、被災地の歌人たちの歌集などで、その思いが伝わってくる。 ボランティア体験も乏しく、想像力も旺盛とは言えない私の根底には、ささやかな現地体験と限りある収集の術による情報しかない。

 2011年3月11日当日、自宅の佐倉には帰宅できないことを知った私たち夫婦は、新宿から私の実家のある池袋へとひたすら明治通りを歩くしかなかった。実家にもケータイではつながらず、途中の公衆電話は、どこも長蛇の列だった。高層ビルが続く明治通りは、まるで海の底のようで、隙間がない人々の黒い塊が、まるで巨体生物が実にゆっくり移動する様にも思えた。みな黙々と足を運ぶだけだった。サンシャインビルの灯りを目指し、神田川を渡ると池袋も近いと思う反面、義姉が一人暮らす実家はどうなのだろうと不安でもあった。車道の車の列は、どちらの車線にもびしりと連なり、まったく動く気配がなかった。不思議なことに、私たち二人はカメラを持っていながら、この状況を一枚も撮っていないことが後になってわかった。周辺の人たちも、カメラを持ち出す人はまず見受けられなかった。
当日の4時半ころ、歩くしかないと決めた新宿南口の巨大テレビ画面でも、津波予報の日本地図が映し出されてはいたが、津波の被害状況は分からなかった。7時少し前に着いた実家での熱いお茶に、ともかく恐怖心から解放されたという思いだった。その後にもたらされる、津波、原発事故のおそらしさを知らないままではあった。

 五年後、縁あって、父親の代から原発反対の運動にかかわっていらした女川町議会のA議員の話を聞きながら、女川原発近くまで案内していただいた。沿道の木立の枝にひっかかったままのブイや新たなトンネル工事、廃校跡、太平洋戦争時の特攻艇庫の跡などを目の当たりにした。原発が見える窓からの撮影は禁止という、原発のPRのための施設のそらぞらしさは、現在流されている電気事業協会の石坂浩二のエネルギーミックスのCMにもつながる。
石巻では、ガイドの案内のあと、雨の中、私たちだけで、街中を歩いた。そこで、出会ったのが立町のプレハブの仮設商店街のパン屋さんだった。津波で流された店を継ぐ形で立ち上げたというパン工房パオ。仮設もあと数カ月で立ち退かなければならない中、頑張っていた。周辺の店に立ち寄る客の姿もなく寂しい限りであった。パオさんの名物、ゆば食パンは、いまも移設先で健在らしい。漁師相手のバーや居酒屋が立ち並んでいたであろう一画は、ほとんど更地になっていて、残された看板と街の角々に立つ石ノ森章太郎のキャラクターが記憶から去らない。

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2022年3月7日『朝日新聞』より

 最近の新聞で、上記「復興商店街 再生の正念場」(『朝日新聞』2022年3月7日)という記事を見かけた。そういえば、女川駅前の、完成して間もない「シーパルピア」はどうなっているのだろう。安倍首相や天皇夫妻を迎えた折の写真が目についたが、私たち観光客を迎えるにしては、さびしげな店が並んでいるだけだった。新しい駅舎の山側では、削った土砂でのかさ上げ工事の真っ盛りであった。高い防潮堤を築かず、海の見える街を目指し、女川町と都市再生機構URと鹿島・オオバ共同体による復興事業は、復興のシンボルのようにもてはやされていた。基盤工事は完了、鹿島は、そのホームページで、女川町の「震災復興から次のステージへ」と「祈念」するが、どれほどの人たちが戻ってきたのだろうか(「東日本大震災における鹿島の取組み―女川まちづくり事業」)。
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2014年3月、女川駅周辺、この2枚は、鹿島のホームページから。
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2020年3月、女川駅周辺。新しい駅は、2015年、中央の煉瓦通りの手前に建設されている

 石巻でも、2兆円近い復興費を注がれたものの、街の賑わいは戻らないという(「復興1・9兆 街には空き地」『朝日新聞』2021年1月28日)。
福島の場合はより深刻なのではないか。たとえば、大熊町では、来年4月に町立義務教育学校「学び舎 ゆめの森」が開かれる。新学校は小・中学校が一貫し、認定こども園(保育園と幼稚園)も併設され、0歳から15歳までを対象にするという。国からの予算をもとに総工費は45億3900万円に及んだが、来年通学予定の児童・生徒たちは6人だという。会津若松市へ避難した保護者たちからは、就業や住環境が整わない大熊町に戻るメリットがないというのだ。大熊町は、約6割が帰還困難区域になっているが、地図で見る青色地域が「特定復興再生拠点区域」になるという。

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大熊町の青色の地域に限って、帰還できるといい、学校も建設したのだろうけれど。環境省除染情報サイトより。

 復興というが、復旧もままならず、国や自治体がすることは、ほんとうに住民の意に沿うものなのか、疑問は増すばかりである。

初出:「内野光子のブログ」2022.3.12より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/03/post-65d2f5.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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