D・レッシング(イギリス、1930~2008)の『草は歌っている』
――懐疑と激情、予見力を以て、対立する文明を吟味
ドリス・レッシングは2007年度のノーベル文学賞を受けた。受賞理由は「女性の経験を描く叙事詩人であり、懐疑と激情、予見力を以て、対立する文明を吟味した」。その代表作の一つ『草は歌っている』(晶文社、山崎勉・酒井格:訳)の一部を紹介しよう。
メアリは農場を外から、金儲けのための機械として見ていた。それが彼女の農場に対する考え方であった。一貫してこの観点から、彼女は手厳しい批評を下した。しかし彼女は多くのことを全く無視していた。土壌を大切に管理する彼のやり方や、例の何百エーカーにもわたる植林についても、メアリは彼の功を認めようとはしなかった。
ディックは彼女のように農場を見ることはできなかった。彼は農場を愛し、その一部となっていた。彼は、緩やかな季節の移り変わりと、メアリが役に立たないと軽蔑し続けている「あの細々した作物」の複雑なリズムを愛していた。
彼女が話し終わると、ディックは矛盾する様々な感情の中で、言うべき言葉を捜しながら、黙っていた。そしてやっと例の彼独特の敗者の笑みをちょっと浮かべて、「そうだね、それでどうしたらいいんだろう?」と言った。
メアリはその微笑を見て、わざとつれなくした。これは私たち二人のためだ、そうして自分は勝ったのだ!ディックは私の批判を受け入れた。彼女は二人がすべきことは何かと、詳しく説明し始めた。彼女はタバコの栽培を提案した。周りでみんながタバコを栽培して儲けている。私たちがやっていけない理由がどこにあろう?
メアリが話すことにはどれにも、どんな声の抑揚にも、一つの含みがあった。タバコを栽培し、借金返済の金をつくり、できるだけ早く農場を去ろうということであった。
メアリの計画していることがやっと判ると、ディックはあっけにとられて応答に窮した。彼は淋しそうに言った。「それで、そういう金をすっかり儲けたら、何をするんだい?」
初めてメアリは自信がないような顔で、ちらっとテーブルに目をやり、彼と視線を合わせるのを避けた。実際、彼女はそういうことについては考えてみたことがなかった。ただ彼女に判っていることは、彼に成功してもらいたいということ、金を儲けてもらいたいということであった。
そうすれば望むことは何でもできるし、農場を去り、再び文化的な暮らしをすることもできるようになるだろう。現在のこの切り詰めた貧乏生活は耐え難かった。これでは二人とも破滅しそうだった。それは食い物が十分でないというようなことではなかった。金はどんなはした金でもよく使い先を考え、洋服の新調を見合わせ、娯楽を放棄し、休日をとることは永久に先へ延ばさなくてはならないというのが問題なのであった。
消費の余裕を少々は残しながら、良心のようにちくちく責め続ける借金の重みを絶えず背中に感じているといった貧乏は、飢餓そのものより悪いものだ。メアリはそんなふうに感じるようになっていた。それにこれはディックが自ら好んでしている貧乏だけに、やりきれなかった。ディックの誇り高き自己満足を理解できる者は、本人以外にはいなかったであろう。
この地方には、事実、国中至る処に同じように貧乏な農民は数多くいたが、そういう連中は借金に借金を重ね、いつかは思いがけない幸運が舞い込んできて助けてくれるのを願いながら、気の済むように暮らしていた。(ちなみに、彼らの陽気な無策ぶりが結局間違っていなかったことを認めなくてはならないだろう。戦争が起こり、タバコの景気が良くなると、彼らは一、二年のうちに財産をつくり上げてしまったのだ――そのため、ディック・ターナーの家は前より一層間抜けに見えた)
そしてもしターナーが、誇りを捨て、休日をとって金をかけて遊び、新しい車でも買おうと決心したなら、そういう農民に慣れている貸主の方でも賛意を表したであろう。だがディックはそういうことをしようとはしなかった。
それがためにメアリはディックを嫌い、彼を馬鹿だと思っていたが、しかしこれこそ彼女が未だに尊敬している彼のたった一つの点でもあった。なるほど彼は落伍者で弱虫かも知れなかった。しかし彼はこの誇りの最後の砦に立てこもって、動ずる気配を見せなかった。
こういうわけで彼女は彼に道義心を緩めて、みんなのする通りにやってほしいと頼むようなことはしなかった。現在でもタバコは大いに儲かる仕事であった。それはいとも簡単そうに思われた。テーブル越しにディックの疲れた不幸な顔を見ている今でも、それはいとも簡単なことのように思われた。彼が決心をするだけでよかった。で、その次は?これがディックの訊ねていることであった――二人の将来はそれからどうなるのだ?
二人が好むがままに暮らせるぼおっと霞む美しい未来について思いを馳せる時、メアリがいつも心に描くのは、昔のように町に戻って、若い女性のためのクラブに寝起きしていたあの当時の友達と付き合っている自分の姿であった。この画面にはディックは似つかわしくなかった。メアリが彼の目を見ずに、あいまいな態度で長い間、黙り込んでいると、ディックはまた同じことを質問したが、二人の要求していることが無情なほどばらばらであるために、メアリはものも言えなかった。
彼女は考えたくないことを払いのけるかのように、目にかかる髪をまた振り払って、論点を巧みに避けるようにして言った。
「そうね、私たち、こんな暮らしはやってゆける訳がないでしょう?」
初出:「リベラル21」2025.04.11より許可を得て転載
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