21世紀ノーベル文学賞作品を読む(9-下)

D・レッシング(2007年度受賞、イギリス)の人となり
――懐疑と激情、予見力を以て対立する文明を吟味

ドリス・レッシングは1919年、ペルシア(現イラン)のケルマンシャーで生まれた。父A・テイラーはイラン帝国銀行に勤めるイギリス人行員。元看護婦だった母メアリ・モードは、第一次世界大戦で右脚をなくして入院中だったテイラーと、勤め先のロンドンの病院で知り合って結婚。除隊した夫と共にイランに渡った。
1925年、一家はロンドンに引き揚げ、ローデシア(現ジンバブエ)への入植を決める。引っ越し先はソールズベリ(現ハラレ)から北西へ約七〇マイル、隣の家まで四、五マイルある原野。ドリスは幼少期から14歳頃までを丸太と泥で造った草ぶきの開拓小屋で過ごす。正規の学校教育は受けなかった、と考えてよい。

ドリスがローデシアにやってきたのは六歳の時。彼女自身によれば、地元の学校には都合十八か月しか通っておらず、教育の大部分は原野で行われた自己教育。ディケンズ、サッカレー、それにフランスやロシアの十九世紀の文豪たちの作品を手当たり次第に読んだ、という。資格試験を受けてイギリス本国の大学に入るつもりだったが、試験当日、結膜炎にかかって断念する。十八歳の時ソールズベリで電話交換手の仕事をした。それが初めての仕事で、十六歳の時から習い覚えた速記とタイプで秘書の仕事などをしながら、自分で生計を立てて暮らし始めた。

1939年、もうすぐ二十歳という時、裁判所の書記官をしていたF・ウィズダムと結婚。本国では第二次世界大戦が始まっており、開戦と同時にソールズベリには英国空軍の訓練基地が設置され、本国から多数の青年がやって来る。また、欧州各地からナチに追われたユダヤ人が流入。ドリスはこれら外からの刺激、ことに左翼の青年たちと交わる。マルクス主義を知ったのはこの時期だが、植民地の実情とは合わない観念的なものだった。
1941年、二十二歳の時、コミュニスト・グループとの交わりや作家になろうとしていたことなどから夫との植民地貴族ふうの結婚生活が耐えられなくなり、幼い男児二人を置いて独りで家を出る。離婚が成立したのは四年後。これは東独から流入したロシア系ユダヤ人、共産党員のG・レッシングとの再婚の時期と重なる。この夫とはいつ正式に離婚したかは不明。姓は今でもレッシングのままであり、1949年に念願の国外脱出がかなった時か。夫は東独に帰り、政府の経済担当の要職に就いたとも聞く。

ドリスはロンドンに着くとすぐ、原稿が完成していた『草は歌っている』を出版。1950年、三十一歳の時だった。処女出版は大成功を収め、五カ月間に七刷まで出た。以後、彼女はロンドンに定住し、ほとんど切れ目なしに作品を発表し続けている。小説十四、短編小説集十六、戯曲四、詩七、自伝的物語六など多作で幅の広い文筆活動が目を惹く。
ロンドンに来た当初から左翼、知識人との交流はあったが、1954年に正式にイギリス共産党に入党。56年のハンガリー事件などをきっかけに離党する。50年代の一時期に隆盛を見た、原水爆禁止運動にも関わり、バートランド・ラッセルらと共にオルダーストン行進に加わり、核兵器禁止を訴えるキャンペーンでも演説をしたと伝えられる。
ドリスがノーベル文学賞を受賞したのは2007年。それから間もなくの2013年に死去、九十四歳だった。

ドリスが育ったローデシアについて。アフリカ大陸の中央南部に位置し、北はザンビア、南は南アフリカ共和国、東はモザンビークとそれぞれ国境を接し、面積の大半は海抜千メートル程度のサバンナ(熱帯または亜熱帯寡雨地方の無樹または疎林の大草原)であり、代表的な産業は農業(良質のタバコで有名)と鉱業。四、五月頃から九月頃までが乾季(冬)、十月頃から三、四月までが雨季(夏)と季節が二分され、昼夜の温度差が激しく、十月の日中で最高三十八℃位、六、七月の夜には降霜を見ることも。人口は1965年の推定で四百二十六万、うち二十二万がヨーロッパ系、二万一千がアジア系および混血種、残りの九四%強がアフリカ人で、その大部分はバンツー系である。1965年に白人スミス政権が一方的にイギリスからの独立を宣言、様々な意味で世界の耳目を奪ったことは周知のこと。この国が南ア共和国と共に世界の良識から爪弾きされているのは言うまでもない。アフリか人は一握りの白人の支配下に呻吟。参政権、居住権その他の基本的な人権に関わる過酷な差別を受け、ある意味では動物の自由さえ与えられていないのが現状だ。

短編集『アフリカ物語』の序文でドリスはこう語る。
――アフリカに育った作家には色々の利点がある。例えば、現代の戦場の中心に身を置いているということ。激しい劇的な変貌を遂げつつある社会の一員であるということ、などだが、長い目で見ると、この長所は一つの不利な立場ででもあるのだ。毎朝、毎朝、目を覚ませば必ず新たな非人間性を目撃し、不正について一日に二十回も気づかされる。それでいて、どれもこれもみな同じ烙印が押されているのだ。(中略)白人、黒人を問わず、作家たちがアフリカから受ける最大の贈り物は、アフリカ大陸そのものであろう。それがそこに在るということ、それは例えてみれば、血液の中に秘かに流れ続ける積年の熱病であり、季節の変わり目ごとに疼く古傷である。(中略)アフリカに住むと、巨大な自然の中に在って、人間が多くの動物たちと同じく、ちっぽけな創造物に過ぎないことを、嫌でも思い知らされる。(後略)

『草は歌っている』のテーマは冒頭に掲げられた二つの引用によって尽くされている。一つの文明の欠陥を、その落伍者を通じて暴き出すこと。この場合、一つの文明とは功利的な資本主義によって築かれた西欧文明を指し、具体的にはその植民地支配が、他人の犠牲において己を肥やすという本質的な悪のゆえに、必然的に滅亡しなければならない過程を、ターナー一家の破滅を通じて描こうとしたものだ。ターナー一家は他の白人たちに比較して一層邪悪なために滅びたのではない。むしろ、彼らは人間的不正(搾取)を基本構造とする自己の文明に素直に付いていけなかった落伍者であり、それ故に最も早く狙われ、最も早く滅ぼされてしまったのだ。

初出:「リベラル21」2025.04.15より許可を得て転載
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