21世紀ノーベル文学賞作品を読む(9-中)

D・レッシングの『草は歌っている』(イギリス、2007年度受賞)
――女性の経験を描く叙事詩人。懐疑と激情、予見力を以て、対立する文明を描く(続き)

確かに、ディックは農場以外に自分を置いて考えることはできなかった。彼は農場の木はどれも知っていた。これは言葉の綾ではなかった。彼はアフリカ人のように、自分の生活を支えてくれる草原を熟知していた。町の人たちが感傷的に草原を愛するのとは違っていた。
彼の感覚は風の音に、鳥の鳴き声に、土の感触に、天候の変化に敏感だった――だが、その他のものに対しては鈍かった。この農場を離れたら、彼は萎れて死んでしまうだろう。彼は成功を望んでいた。そしたら二人は農場で、しかも安楽に、暮らしていけるだろう。メアリは熱望しているものが手に入るだろう。とりわけ子供が持てるようになるだろう。

彼には子供は何としても必要だった。今でも彼は、いつかは……という希望を捨ててはいなかった。そしてメアリが農場のない未来を心に描いているとはとても考えられないことだった。まして彼の賛成を得てなどとは!
そのような未来は生活の支えを失ったも同然で、彼はそれを考えると途方に暮れ、空しい感じがした。彼は、彼女が彼と共に暮らす権利もないのに彼に命令を下す得体の知れない女でもあるかのように、ほとんど恐怖に近い気持ちで彼女を眺めた。

しかし彼は、メアリをそんなふうに考えたくはなかった。彼女が家出した時、家での彼女の存在が彼にとってどれほど大きな意味があるかを彼は思い知らされていた。いや、彼女には、俺にとって農場が必要であることをどうしても理解してもらわなければならない。
そして、仕事がうまくいったら、子供をつくろう。彼女に判ってもらいたいのは、俺の挫折感の原因が、実は農民の失敗にあるのではないということである。俺は、彼女が男としての俺に対して敬意を抱いていること、現在のような形で二人が一緒に暮らしていること、これに失望を感じているのだ。
そして子供さえいたら、これも癒され、俺たちは幸福になれるだろう。コツコツコツという鉛筆の音を聞きながら、彼は頭を手にもたせかけて、そんな夢想に耽っていた。

しかし自分の考えにこういう都合の良い結論を出しはしたが、挫折感は如何ともしがたかった。タバコのことを考えるのが嫌だった。昔からいつもそうだった。タバコは非人間的な作物のように思われた。自分の農場が今までとは違ったやり方で経営される羽目になるだろう。タバコは建物の中、湯気の立ち込める高熱の中に何時間も立っていることであり、夜中に起きて温度計を見ることであった。

そこで彼はテーブルの上の書類をいじくり、両手に頭を押し付け、自分の非運にみじめに抵抗した。だがそれは無駄だった。目の前にメアリが座り、彼女の思うがままに彼を強制しているのだから。とうとう彼は顔を上げ、悲しそうな歪んだ微笑を浮かべて言った。「ねえ、親方、二、三日考えさせてもらえますか?」
しかし、不面目の余り、その声は不自然に響いた。そして、メアリがむっとした口調で「親方なんて言い方はよしてちょうだい!」と言うと、彼は返事をしなかった。だが、二人の間の沈黙は、口に出すのを怖れていたことを雄弁に物語っていた。とうとうメアリが沈黙を破ってテーブルから勢いよく立ち上がり、帳簿をさっさと片づけて、「あたし寝ます」と言った。そして、考えに沈んでいるディックを残して出て行った。

三日後、ディックは目を背けながら静かに、アフリカ人の大工と打ち合わせて納屋を二つ建てることにしたと言った。
メアリがまぎれもなく勝ったことを不承不承認めながら、やっとディックが彼女と視線を合わせると、彼女の目は新しい希望で輝いていた。そこで彼は、今度自分が失敗したら、この女は一体どうなるのかと不安になった。
一度、メアリは意を決して、自分の考え通りに彼を動かそうとしてみたが、思い直して彼の好きなようにさせておいた。彼は困っていることがあるから助けて欲しいと、数回にわたって彼女の助言を求め、そうすることで自分の仕事に彼女を引き入れようとしたが、その都度彼女は以前と同じように彼の申し出を断った。

それには理由が三つあった。第一は計画的なものであった。もし二人がいつも一緒にいて、彼女が彼より優れた能力を絶えず見せつけることになれば、彼は勢い自己防衛の姿勢に追いやられ、結局、彼女の望むことを何一つやらなくなってしまうだろう。後の二つは本能的なものであった。

メアリは今もって農場とそれに関する様々な問題が好きになれず、そのつまらない毎日の仕事に、ディックのように甘んじてしまうのを怖れていた。そして第三の理由は、彼女は自分で気づいていなかったが、最も強固なものであった。
彼女はディックを、今更取り消すこともできないこの結婚の相手を、独立した一人前の男、自らの努力によって成功することのできる人間と見做す必要があった。彼女は彼が弱々しく、無目的で、哀れに見えるのを嫌った。

そしてこの彼に対する嫌悪は自分自身の上に跳ね返ってきた。彼女は自分より強い男を必要とした。そしてディックをそういう人間に作り上げようとしていた。もし彼が強い意志の持主であるという単純明快な理由で彼女の上に君臨するのであったら、彼女は彼を愛したろうし、落伍者と結びついているという自己嫌悪ももはや覚えずに済んだであろう。将にこれがメアリの待ち望んでいたものであった。

初出:「リベラル21」2025.04.12より許可を得て転載
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