21世紀ノーベル文学賞作品を読む(7-中)

H・ピンター(1930~2008、イギリス)――世界情勢について熱い政治的発言を繰り返した劇作家(講演の続き。訳者は喜志哲雄氏=京大名誉教授・英米演劇学)

サンディニスタ(ニカラグアの左派武装革命組織)は完全ではありませんでした。人並みの傲慢さは具えていましたし、その政治哲学には幾つもの矛盾が含まれていました。しかし、この人たちは知性と理性と良識の持ち主でした。この人たちは、多元的で道理を尊重する、安定した社会を建設しようとしました。死刑は廃止されました。
何十万もの貧しい農民が生きる手段を与えられました。十万以上の家族が土地の所有権を認められました。二千の学校が建設されました。目を瞠るような識字運動の結果、この国の非識字率は七分の一以下に減少しました。無償の教育制度と医療制度が実現しました。幼児の死亡率は三分の一も低下し、小児麻痺は根絶されました。

アメリカ合衆国はこういう成果をマルクス・レーニン主義的破壊活動として非難しました。アメリカ政府の考え方によると、危険な前例が作られようとしていることになるのでした。もしもニカラグアが社会的・経済的公正の基本原則を確立させることが認められるなら、また、医療制度や教育の水準を上げ、社会的統一や国民の自尊心を現実のものとすることが認められるなら、近隣諸国も同じ問いを発し、同じことを実行するのではないか――そのようにアメリカ政府は考えたのです。もちろんその当時、エルサルバドルには、現状を打破しようとする激しい動きがありました。

私は先ほど、私たちの周りにある「嘘の綴れ織り」に言及しました。レーガン大統領はいつもニカラグアを「全体主義の牢獄」と呼んでいました。マスコミも、それからもちろんイギリス政府も、これは事実に即した公正な言い方なのだと理解していました。しかし実は、サンディニスタ政権の下に暗殺隊があったという記録はありません。拷問の記録もありません。軍隊による暴力行為が組織的に、あるいは政府の承認を得て、行われた記録もありません。ニカラグアで聖職者が殺害されたことは一度もありません。
実はサンディニスタ政権には三人の聖職者がいました。二人のイエズス会修道士とメリノール会(ローマカトリック系海外伝道の会)の伝道師です。全体主義の牢獄は、実際には近隣のエルサバドルとグアテマラにあったのです。1954年、アメリカ合衆国はグアテマラの民主的に選ばれた政府を打倒しましたが、二十万以上の人々が相次ぐ軍事独裁政権の犠牲になったと推定されています。

世界でも最も優秀なイエズス会員が六人、1989年、サンサルバドルの中央アメリカ大学において、アメリカ合衆国ジョージア州フォート・ベニングで訓練を受けたアルカトラル連隊によって虐殺されました。かの極めて勇敢なロメロ大司教は、ミサを行っていた最中に暗殺されました。七万五千の人たちが死んだと推定されています。
この人たちはなぜ殺されたのでしょう。この人たちが殺されたのは、もっといい生活がありうるし、それを実現させねばならないと信じていたからです。そう信じることによって、人々は直ちに共産主義者と見做されました。この人たちが死んだのは、現状に疑問を投げかけたから――自分たちが生まれながらに与えられた、果てることのない貧困と疾病と汚辱と圧政に苦しむ在り方に疑問を投げかけたからだったのです。

第二次世界大戦が終わった後、アメリカ合衆国は世界中のあらゆる右翼軍事独裁政権を支持し、多くの場合、それが誕生するのを助けました。すなわちインドネシア、ギリシア、ウルグアイ、ブラジル、パラグアイ、ハイチ、トルコ、フィリピン、グアテマラ、エルサルバドル、そしてもちろんチリの政権です。1973年にアメリカがチリに対して加えた暴虐は、決して拭い去ることも、決して赦すこともできません。
これらの国々では、何十万もの人々が死にました。本当に死んだのでしょうか。そして、それは全てアメリカの外交政策のせいだったのでしょうか。答えは、そう。人々は本当に死んだ。そして、それはアメリカの外交政策のせいだ、というものです。しかし、そうは見えないのです。

アメリカ合衆国の犯罪は、系統的で恒常的で邪悪で容赦のないものでしたが、実際にそれを問題にした人はほとんどいません。アメリカには脱帽せねばなりません。それは普遍的な善の味方を装いながら、世界的規模において権力を極めて冷徹に行使してきたのです。それは明敏な、機知さえ感じられるほどの催眠行為で、見事な成功を収めています。
私は主張したいのですが、アメリカ合衆国は疑いもなく地上最大の見世物です。それは残忍で冷徹で傲慢で非情であるかも知れませんが、同時にそれは非常に頭のいいものでもあります。セールスマンとしては抜きんでており、目玉商品は自己愛です。これは受けること確実です。アメリカの大統領は必ずテレビでは「アメリカ国民」という言葉を使うではありませんか。

これは才気あふれる戦略です。人々が頭を使って考えるのを防ぐために、現に言葉が使われているのです。「アメリカ国民」という言い方は、安心感という深々としたクッションになってくれるのです。頭を使う必要はありません。ただクッションにもたれかかったらいいのです。このクッションは知性や批判精神を窒息させているかも知れませんが、ひどく快適ではあります。もちろん、この事実は、貧困線(最低限度の生活を維持するのに必要な所得水準)以下の生活をしている四千万の人々や、アメリカ全土に広がる巨大な牢獄の網に閉じ込められている二百万人の男女には当てはまりません。
アメリカ合衆国はもはや低水準紛争などには煩わされたりしません。控えめであることは勿論、遠回しなやり方をすることにさえ、アメリカは意義を認めないのです。アメリカは何ら悪びれることなく、手の内を明かしています。アメリカは要するに国連も国際法も、また反対意見も(それは無力で無関係なものだと見做されています)問題にはしていないのです。私たちの道徳的感性はどうなってしまったのでしょうか。

初出:「リベラル21」2025.02.17より許可を得て転載
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