2016年も2カ月が過ぎた。3月となった。
(スーパーチューズディ、民主党がクリントンであるなら、最後に残るのもブッシュ、クリントンで交代傀儡大統領としてたらい回しとしている安全株クリントンとなりそうだ。
それなら、トランプが大統領となり、資本主義の破滅を早める方が、アメリカにとっても、世界にとっても好ましいものかもしれない。)
インターネット上へ時事的に刻印する事によって何を切り開いていけるのだろうか?
いつもその様に考えながら投稿をしているのだがどうであろうか。
以下の大きな集まりが3月にある。
(地方にあるので行けないのが残念であるのだが…何らかの成果をインターネット展開お願いできたならと切に願う。)
【3月5日6日】
(第5回)日中社会主義フォーラム(テーマ:中国社会主義の多様性)
https://chikyuza.net/archives/60191
【3月18日】
安倍政治を許さない!318文京シビック集会挙行
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/318-477f.html
僕個人にとっても興味深い投稿掲載が多数あり、感謝しながら読解考察してみたい。ありがとうございます。
昨今のちきゅう座の周辺状況から考えるなら、日本共産党と中国についての日中社会主義フォーラム前哨戦的以下の文章がある。
日本共産党の元幹部は中国をどう見ているか
https://chikyuza.net/archives/60690
更に、レジェンド(伝説)を恐れる以下の文章がある。
「小沢アレルギー報道」とは何か?
http://www.asyura2.com/16/senkyo202/msg/111.html
小沢一郎氏は、田中角栄氏の日中友好の流れから民主党政権樹立時、チルドレンを引き連れて中国へと赴いた小気味よさを公然と実行し、それこそが、アメリカにも改憲派安倍ウヨには、驚異として拒否反応、現在の反動全体主義自民党を生み出していったのだろう。
マルクスアレルギーと小沢アレルギーは、同じような前近代的幼稚さとして、日本の反知性として今ある問題であるのだ。
日本共産党のダメなところは、「寄らば大樹の陰」であるところだ。
ソ連がダメなら中国へ。
その中で、本当の意味での「自主性」「創造性」を台無しにしているところがあるのではないだろうか?
それ故に、まず、ピケティ(格差論)をクッションとして、更に、学術的歴史学的マルクスへの理性批判としての場へ向かいたいところだ。
しかし、日本共産党支持者も弱者の連帯であり、「情報弱者性」の中で、辛うじて、結ばれている淡い連帯でもあり続けている。
学術性と同時に、池上彰解説の様なわかり易さは、如何にして可能であるのか、「広報」の問題、「カクサン」の問題が常に付きまとっている。
しかし、今ある日本の問題は何であるのか?
それを解決する事によって、必然的に、歴史的問題、外交的中国論の対話が成立するのであるから「創造的日本の改革」が、優先しているのだ。
それは、簡単なことに思われる。
既に、植草ブログが指摘している問題点と合致している。
1⃣一強多弱民主主義、官僚支配政治に対し、民主主義をまず取り戻す事、政治VS官僚を実現する事。
安保法制、原発利権、TPP阻止その問題点の為の政治広報と野党共闘から。
これは、ちきゅう座投稿とも一致している事柄であるが、この壁が厚いのも事実である。
この壁こそが、体制の壁であるのだろうか?ここに集中して更なる共同声明を強める事、繰り返し説明をしていく事が必要となっているように思える。
2⃣ピケティの言う教育格差と「情報弱者性」に対して、改革する。(楽しいニーチェ、楽しい知識へ。)
人間の存在、心理的側面と理解力の幅、対話の徹底。国会中継の詭弁安倍晋三を恥とする「怒れる12人の男」の様な陪審員となる知性基盤を説明して広報する教育改革をすること、その様な「読本」を結集して共同声明的に出版パンフレット化をする努力をする。
3⃣以下の一文の中にある消費税、所得税、法人税の本質的抜本である
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-d85b.html
最善を尽くす努力だけは傾けなくてはならない。暴政としての安倍政治を繰り返し暴き一人でも説得していく事が必要である。
更に、マルクスへの回帰、共存・学へと如何にして、「必然的」に、水野和夫氏の論を経て、辿り着くかは、徐々に、語りたいと考えている。
また、安易なる「天皇」論に危機を感じたのだろうか?以下の文章にも感謝にたえない。
〈天皇問題〉
「護憲派」の皇太子発言賛美にひと言
https://chikyuza.net/archives/60688
ニントク君の回想ーボクって何者? ボクってなんの役に立っている?
https://chikyuza.net/archives/60654
天皇制問題も思想的上部構造的でもあり、貧困、経済的生活者土台によってどの様にでも変わるものである事を柄谷行人氏の1条と9条の精神分析の中にもあったわけであるが譲歩できない着地点とは何であるのか?
その問題があり、維新の呪縛から「革命的」解放、
花崎 皋平氏の昨年の「世界」6月号の「共和制」論から持続している問題意識でもあった故に、僕としても同意するものが多いのであるが、やはり、岩田先生にも倣って一歩進めたい気分にもなってもいたわけである。
あまり、上部構造、下部構造(土台)を幅広く多用したくはないのだが、
友愛党地方巡業をしているとお年寄りとの付き合いも多くなり、着物の着付けをしている方や「日本美」について、更には、かつての角川文庫の「好きです日本語」その語学コンプレックスの中で、一点豪華主義の日本の中の「貧困」「情報弱者性」の中で、生きている人々の在り方も感じている。
また、初等教育しか受けておらず天皇家の系譜や聖徳太子しか知らない人の狭義世界観の中で生きている状況も感じる。
文化論的に考えるならまぎれもなく、「天皇制」問題は、上部構造であり、着物の着付けなどを仕事としているなど、「日本美」「日本文化」の生活の糧、根拠は、下部構造の中にあるのではないだろうか。
「デルスーザーラ」ではないがそこを出られない状況も随所にあるのだ。
その中で、世界を広げていく事は如何にして可能かの問題に、具体的に、ぶつかっているわけである。
ここから再び、問い始めたい。
昨日も認知症の社会学問題の対話をしていた。しかし、それを、更に、幅広く第三者に理解し共感されるのはどうしたら良いのだろうか?
文学的普遍性を以下の様に考察し始めた。
《大・文学の試み》
http://revolutio.exblog.jp/22934065/
uchitomi makotoさんの訴え、世界の悲劇に対して優先的に考察されるべきものとは何であるのだろう。
https://chikyuza.net/archives/60680
https://chikyuza.net/archives/60661
子育て問題、日本における人生の締めくくりとしての認知症問題悲劇としての蹉跌、更に、戦争利権資本主義問題をどの様に今後整理していくかの問いとして語りださねばならない。
①Q&Aすぐやる課は可能か
http://revolutio.exblog.jp/22934239/
②原理論と世界資本主義論(日本マルクス主義)
http://revolutio.exblog.jp/22934255/
③付録再掲載(少し加筆しています)
http://revolutio.exblog.jp/22923131/
「政治的公平性は権力が判断することではない」高市氏発言に田原氏ら危機感
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160229-00000010-wordleaf-pol
共同で声を出していかねばならない。
真の知性を「ちきゅう座」から実践的に開始しなくてはならない。
更なる議論とインターネット広報に期待している。