73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(6)

 街のくすり屋の経営改革?➀

今回、薬や化粧品のことを、ひとまずメーカーだけは確認しておきたいと思って、ネットで調べていると、会社にはそれぞれ「今昔物語」があった。発展を続ける会社、身売りをする会社、合併や統合をする会社、廃業した会社といろいろであった。さまざまな商品の現代にいたる来し方を探ると、さらに興味深い事実に出会うこともある。その才があるならば、朝ドラの脚本が何本もかけそうな物語がいっぱい潜んでいるのではないか。経済高度成長期、激動の日本の近現代史を垣間見る思いがする。

ここでは、街の小さなくすり屋にも、私の知る限りながら、さまざまな時代の波をかぶらざるを得なかった。父が池袋で薬局を開いたのが1925年か24年、それまでは、十代にして両親を亡くし、薬剤師の資格を持って、朝鮮に渡り、兵役をはさんで、仁川の薬局、ジョホールのゴム園の診療所、日本に帰国後の病院、ずっと雇われ薬剤師だったはずだ。結婚を機に開業しているが、やはり、1945年の空襲による住居兼店舗の焼出は、痛手だったと思う。もともと正直ではあっても、決して商売上手とは言えなかった。それに蓄えるということも苦手だったらしく、母は、よく嘆いていた。お父さんは、一人暮らしが長かったから、自分勝手なところもあって困ることも多いと。店の経理のようなことも苦手だったのだろうか。

企業組合に加入

1950年、たぶん設立まもない「東優企業組合」という東京の薬局が加入する企業組合に加入したのである。売り上げや帳簿類をすべて組合に提出して、父も兄も母も組合の従業員として給与をもらうというシステムで、税金対応などを組合に任せるという趣旨であったと思う。今でも、中小企業協同組合の一つとして、街の薬局や調剤薬局、ドラッグストアが加入する組合として健在のようである。当時の母は、なぜ、せっかくの売り上げをすべて組合に納入しなければならないのか、どんな利点があるのかと、いつも不満げだったのを覚えている。父は、月に何度か、組合に足を運んでいた。「トーユー」に行ってくると、店を留守にすると、そんな愚痴が、私にも聞こえてきた。

薬局の開業には、「調剤室」の確保が義務付けられていたが、この調剤室が、どの店でもお飾りのような状態であったことは否めない。うちの店も、事務室のような、もの置きのような様相を呈していた。父たちは、迷った上、改築を機に「調剤室」を造らず、薬局から「薬店」に衣替えをした。

敗戦後のくすり屋にとって、1951年、GHQの指示による薬事法改正が掲げる医薬分業は、医師には特例があって、既得権が維持され、処方も販売も可能であったため、分業は定着しなかった。1961年に国民皆保険制度発足すると、それまで、くすり屋で買うものであった薬の多くは、医者からもらうものになっていった。1974年には、医療報酬費の改定がなされ、処方箋料が大幅にアップしたこともあったが、大きな進展は見られなかった。1992年段階での分業率は14%台だった。院外薬局、門前薬局が目につくようになり、調剤薬局大手の医師へのリベート問題も発覚するなか、院外処方箋は増加を続け、2003年で51%となり、その後の2016年には70%を超えた。

(参考)

・早瀬幸俊:医薬分業の問題点 薬業雑誌 123巻3号(2003年)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/yakushi/123/3/123_3_121/_pdf/-char/ja

たばこの販売許可をとる

ほぼ同じころ、たばこの小売販売の許可を取ったのだった。さまざまな条件をクリアしなければならないことがあったらしく、販売できるようになってほっとしたようだった。喫煙の健康上被害は、いま厳しく問われ、喫煙できる場所も制限される時代になった。しかし、販売店の数は、明らかに増加しているが、販売の規制はどうなっているのだろうか。うちの店では、まだ、外国たばこを扱うことができなかった。私が店番をしていた頃は、ピース(1946年発売)、ホープ(1957年~)、ハイライト(1960年~)が全盛、しんせい(1949年~)、ゴールデンバット(1906年~)、わかば(1966年~)というのもあった。我が家はだれも煙草を喫まずに、売っていたことになる。利益は一割程度だったとも。やはり、発注・納品事務に、自動販売機への補充など楽ではなかったと思う。

ドラッグストアの進出に対抗して

さらに、1960年代、大学に入ってまもない頃、池袋のくすり屋が騒然としたことがある。いわゆる安売りのドラッグストアが池袋西口に進出して来たことがある。父や兄の存命中に、きちんと聞いておくべきだったのだが、どこの経営のどんな店だったのか、確かな記憶も情報もない。池袋一帯のくすり屋が潰されるのではないかとの危機感から、池袋の同業者が集まって、その安売り店の近くに、仮店舗を建てて対抗して安売りを始めたのである。そして、各店から一名づつ交代で人を派遣し、常時、数人が店員となって詰めていて、かなりの賑わいだった。私も何度か、二つの店の前を通ったことがある。いったい、いつまで続いてどんな決着を見たのか、思い出せない。相手は進出をあきらめたのか、あきらめさせたのか。

それにしても、当時は1954年以来定価が決められ、値下げできないという再販制度があって、医薬品45品目が指定されていたはずなので、それ以外の商品の値下げ競争だったのか。この再販制度は、消費者の利益を損なうとして、73年に26品目、93年に14品目と縮小され、1997年に撤廃された。1974年には、薬局を開店するには一定の距離を要する薬事法が職業の自由に反するという違憲判決により改正され、撤廃された。街のくすり屋の安売り競争は激化、さらに大型ドラッグストアやスーパー内の薬局進出が盛んとなり、1970~80年代は街の小さなくすり屋にとっては厳しい時代であったにちがいない。

現在の池袋西口近辺には、かつて私も回覧板や書類などを届けに行ったような個人経営の薬局が何店か、たしかに営業を続けている。しかしその何倍もの、チェーン店のドラッグストアが乱立しているようなのだ。池袋の兄の店は、存命中に閉業して、すでに久しい。

 

初出:「内野光子のブログ」2018.08.30より許可を得て転載

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