73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(7)

街のくすり屋の経営改革?②

小太郎漢方薬(エキス剤)の販売を始める

 1960年代に入っての頃、私には突如のように思われたのだが、父が、小太郎漢方製薬の漢方薬を店に置くようになった。当時、漢方薬と言えば、中将湯(津村順天堂⇒1988年ツムラ)、実母散(喜谷実母散本舗⇒1950ヒサゴ薬品⇒1995年キタニ)、命の母(笹岡薬品⇒2005年小林製薬独占販売)などの女性向けの薬や浅井万金膏(1997年製造中止)とお灸のための百草などを思い浮かべていた。大きな流れとして、「生薬」の時代から、ティーパック化した「煎じ薬」「振り出し薬」になって、エキスの錠剤化、糖衣錠化が進むのが1950年代半ばから1960年代だったか。

小太郎漢方がエキス剤、いわゆる錠剤の製造販売を開始したのが1957年4月であり、父は、漢方の研修会に何度か出かけているようだった。いわゆる、慢性化した症状を訴えるお客さんや売薬ではなかなか効かないというお客さんに、父は熱心に勧めていたようだ。と言っても即効というわけではないので、リピーターは少なかったと思われた。というのも、「ビスラット(スラっと痩せて美しくなる? 石原薬品⇒2008年小林製薬)ってやせられますか」などとやってきた、漢方志向のお客さんに、「奥さん、薬飲むより、まず、余分なものは食べないようにしなきゃ。奥さん、おやつなんか結構つまんでいませんか」などと応ずるものだから、お客は、怒って帰ってしまうなんていうこともあった。母がこぼしていたように、父の「バカ正直」な一面であったかもしれない。

漢方薬のメーカーでは、津村順天堂が有名であったが、1967年に漢方薬の一部が保険適用になり、徐々に適用も拡大し、1988年社名を「ツムラ」と変えた頃には、医療用漢方薬のシェアを伸ばしていた。2009年、民主党政権下、事業仕分けで、漢方薬の適用外しが目論まれたが、医療用漢方薬はすでに定着して、多くの利用者の反対にあって終息したという経緯もあったらしい。保険適用が拡大して、街のくすり屋の漢方薬はどうなっていったのだろうか。父が目論んだ”多角経営“も功を奏さないうちに、しぼんでしまったのかもしれない。

製薬会社と卸と薬局と

どうしても、曖昧な記憶に頼らざるを得ないのだが、つぎに述べるような、メーカーから直接届けられる医薬品は別として当時の店の仕入れはどうなっていたのだろう。仕入れは、主に兄の仕事になっていったらしい。「ナカダ」という卸問屋の社員が注文を取りに来ていた。父や兄に向って、「センセー、センセー」を連発しながら、新製品の説明や売れ筋商品の説明をし、ときには、世間話を交え、注文を取っていた。「センセー」というのは、学校の「先生」しか知らなかったので、何とも奇妙な気分だったのを覚えている。三共、武田、塩野義、山之内などの大手の品は「ナカダ」から仕入れていたのではないか。1950年代の後半、たどれば戦前から創業していた大正製薬と佐藤製薬だが、新しい大衆薬を開発して、特約店方式で販路を開拓しているようだった。卸を通さず、街の薬局に直接、営業社員を回らせ、注文を取っていた。この辺のことを調べようとして、会社のHPの沿革を見るのだが、どうもはっきりしない。会社史などの資料を見なければと思うが、2・3の文献が見つかった。前述の化粧品の資生堂と同じ方式である。卸を通さない分だけ、若干、利益も多いので、販売にも熱が入る。同じ風邪薬でも、佐藤製薬の「ストナ」や大正製薬の「ナロン」などを勧めていたのも確かであった。

60年代に入ると、テレビが普及し、薬品・化粧品のコマーシャルが登場し、華やかな宣伝合戦が始まるのが、この頃だろう。当時、栄養ドリンク剤で、少し大きめのアンプル入りが大流行していた。店さきで、アンプルの突起の根元にハート形のヤスリを入れてから、中指で弾いたり、てのひらで抑え込むようにすれば、すぐに折れた。お客さんは、短いストローで一気に服んでいくという光景がよく見られた。最初、私も、アンプルを切るのに緊張したが、次第に慣れていった。ところが、カラスの粉が液剤に混じることもあるということで、今のようなびん入りになったという。大正製薬からはリポビタンD(1962年)や佐藤製薬からはユンケル黄帝液(1967年)などが疲労回復、栄養剤としてよく売れた。多くのサラリーマンはよほど疲れていたのだろう。さて、その効き目のほどなのだが、わが家の家族は、誰ひとり、口にする者はいなかった。

なお、私は、1972年にくすり屋の生家を離れ、76年には名古屋に転居しているので、その後の店の様子には疎くなっていった。

このたび、医薬品卸の「ナカダ」を調べていると、薬業界の流通は、激変しているのを知った。私の理解では、つぎのような流れがあったようなのだ。

1961年に国民皆保険制度が発足すると、それまで、薬はくすり屋で売るもの、くすり屋で買うものであったのが、薬は、医者からもらうものになっていったのである。

しかし、薬事法の改正で、前述のように、販売規制が緩和されるなかで、医薬品の部外品化が進み、1999年には、ドリンク剤は「指定医薬部外品」になってコンビニにも並ぶようになったのだ。2006年、薬剤師養成は6年制となって、専門性が要請された。その一方で、2009年には、薬剤師でなくとも登録販売者が一部医薬品を販売できるようになった。同時に、独禁法により、再販制度が緩和される過程において、医薬品も化粧品もすべて指定からはずれることになり、現在は、書籍・新聞・雑誌・音楽ソフトに限られている。

こうした規制緩和の進むなかで、医薬品卸の「ナカダ(中田薬品)」は、1983年に丹平商事と合併、2008年には、2004年10月に発足したアルフレッサホールディングスと資本提携、2010年には、完全な子会社となっている、ことも分かった。そして、かつて1600もあった医薬品卸は100となり、いまは全国4つのグループに統合され、その4グループには大手製薬会社が大株主になっているのが現状らしい。

(参考)
・澤野孝一朗:日本の薬事法制と医薬品の販売規制―薬局・薬剤師・商業組合及び規制緩和 オイコノミカ(名古屋市立大学) 44巻2号(2007年)
・丹野忠晋・林 行成:日本の医療用医薬品の卸売企業の 現状とその経済学的分析

跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 第15号 (2013年3月15日)

file:///C:/Users/Owner/Desktop/contentscinii_20180827165910卸と製薬会社.pdf

・角田博道:医薬品流通経済研究  流通再編

http://www.pharma-biz.org/Column_ryutu/ryutu01.html

週刊誌の販売 

これも、うちの店で、いつ始まったのかが、明確ではない。ともかく、1960年代は週刊誌ブームといわれた時代であった。私が大学に入った直後くらいだろうか。安保闘争の最中で、創刊まもない「朝日ジャーナル」などを小脇に抱える学生も多かった。店先の端っこに、雑誌を差し込む台が置かれ、発売日ごとに週刊誌は届けられるのだが、それと交換するため、前週の雑誌、売れ残った雑誌は、束ねて何部返品かの伝票を添えて用意しておく、その作業はかなり厄介なものだったが、すべて兄の仕事のようだった。売り切れる雑誌もあるが、残る雑誌も多い。このコーナーでどのくらいの利益を上げていたのだろうか。通常は二割程度とのことではあったが、それに加えて、週刊誌の販売は、我が家への「カルチャーショック」が大きかった。新聞は、隣が読売の専売店だったこともあって、読売・朝日・毎日のうちの2〰3紙はいつも購読していたが、それまで縁のなかった週刊誌がどっと押し寄せてきた感じだった。買ってくださるお客さんには申し訳なかったが、汚さぬように丁寧に読ませてもらうことになったのである。私などは、歴史ある?週刊朝日、サンデー毎日(共に1922年創刊)はじめ、週刊女性(1957)、女性自身(1958)、女性セブン(1963)はもちろん、週刊新潮(1956)、週刊文春(1959)などは、発売日の夜にでも読まないと、売り切れてしまうので、読み切るには、いささか過密スケジュールでもあった。週刊明星(1958~91)、週刊平凡(1959~87)、平凡パンチ(1964~88)などにも目を通していたから、自慢ではないが雑学?やスキャンダル・ゴシップ類は、結構、身に着けていたかもしれない。長兄は、店番をしながら、あるいは寝室にまで持ち込んで、アサヒ芸能(1956)、週刊実話(1957)、週刊大衆(1958)、週刊現代(1959)、週刊ポスト(1969)などにも手を広げていたかもしれない。隔週に刊行される、表紙もグラビアも過激な男性向けの雑誌もあった。こうしてみると、1960年前後に創刊された週刊誌が多いのが分かる。週刊誌販売も、くすり屋が、薬・雑貨・化粧品の他に、商売になる品は何でも置かねばという不安の表れだったのではないか。

生家を離れて、ひとり暮らしをすることになったときは、しばらく「週刊誌ロス」に陥ったが、購入することはまずなく、新聞に出る広告の見出しをみて、楽しむことを覚えた。これは今でも変わっていないかもしれない。

 

初出:「内野光子のブログ」2018.08.30より許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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