ドイツ紙の68年特集記事から

 本年は1968年の世界同時的な青年学生反乱から50年目にあたるので、ドイツの「緑の党」系の日刊紙「Tageszeitung」が特集を組んでいます。ドイツ、フランス、アメリカなど各国の当時の様子を伝えていますが、とりあえず日本の部分だけ訳してみました―タイトルは「あらゆる面での行き過ぎた暴力」。ドイツ人から見たものですが、下線部「ヨーシュカ・フィッシャーのような政治家やユルゲン・ハーバマスのような思想家は日本では探しても無駄であろうし、一人のルディ・ドゥチュケも見当たらない。今日まで当時の反省にも欠けているのだ」は、言い得て妙というか、日本の68運動の核心を突いています。68年当時の街頭ゲバ学生、いや大学にすら席がなかったヨーシュカ・フィッシャーが、1982年環境政党である緑の党に合流、やがて社会民主党との連立政権(1998~2005年)で外相となり、ゆくゆくは首相間違いなしといわれたような人物を、日本の68世代は持てませんでした。秋田明大や山本義隆の名は同世代ですら忘却の彼方にあるのかもしれません。そのことの反省をし総括して、次世代に何らかの申し送りをするのが我々の義務というものでしょう。
 日本の学園紛争の原因を筆者は的確に捉えています。我々の親世代である戦中派が生き延びて帰還し、ある種生物学的原則にしたがって数百万人の死者の補てんを行なった結果―大岡昇平によれば、帰還兵たちは生きて還れた歓びから、みなひどい荒淫状態に陥った由―、すさまじい過当競争に我々団塊の世代はさらされたのです(私の小学校では教室が足りず、二部授業でした)。しかし折しも高度経済成長の成熟期、幸か不幸か入試地獄と違って就職戦争にはならず、そのためにすっかり牙を抜かれることになります。
 それに対し、思想国民としての心意気をドイツ人はまだいくらか有しているようです。それは毎年、暗殺から100年経ってもリープクネヒトやローザ・ルクセンブルグの追悼集会とデモが行われているところにも表れています。日本であれば、マルクス含めて皆死んだ犬扱いで、つばもひっかけないでしょう。三里塚で捕まった元過激派・田崎史郎は、いまではアベ友とかスシロー(アベ晋三の鮨仲間)とか言われ御用ジャーナリストと蔑まれながら、恥ずかしげもなくワイドショーで安倍首相の弁護に大わらわです。文末で「今日まで日本人は怒っているが、方向喪失の状態にある。『なぜならば、我々はそもそもどんな日本を構築したいのか、一度も議論してこなかったからだ』と村上は言う」とあります。図星でしょう。大部分の学園紛争参加者は、多少の呵責を感じていたにせよ、過去をかなぐり捨てて会社人間となり高度経済成長の果実を十分味わったのです。「過去に目を閉じるものは、結局のところ現在に対しても盲目となる」とは、戦争責任についての西独のヴァイツゼッカー元大統領のことばですが、我々日本人の方向喪失状態はそのことに起因します。いまとここ、自分さえよければ「あとは野となれ山となれ」(マルクスによれば、ルイ14世の愛妾ポンパドゥール夫人は、その贅沢三昧を諌められたとき、Après moi le déluge―我が亡き後に洪水は来たれ、といったそうです)として、大抵の者は歴史忘却症に陥って快楽主義者となったからです。したがって68年に連なる意識を有する者は、遅まきながらも「どんな日本を、どんな世界を構築したいのか」の議論を再開する義務があるのだと思います。
 最後にもう一点、文中識者の見解として、68年の反乱にはベトナム戦争の影響はなかったとありますが、これはまったくの誤りだと思います。そもそもベトナム戦争がなければ、68世代の運動が世界同時的に勃発するということはなかったでしょう。我々の世代は世界共通の社会正義に向けての連帯というものを、このベトナム戦争を通じて知ったのですから。

【以下訳】

あらゆる面での行き過ぎた暴力 マルチン・フリッツ 4/9

―日本では進学のため都会に出ると、狭い下宿や満員の講義室に耐えなければならない。1968/69年にそのことへの怒りが爆発して反乱となった。

日米安保条約に反対―毛沢東語録を読み合わせて、抗議表明。

 68年世代に属する村上龍は,九州の佐世保で16歳の高校生だった。彼は夏休み直前、同級生とともにバリケードに立てこもった。彼らは高校総体をボイコットしたかったのであり、村上はみなの指導者であった。それは全国に広がるいやがらせのシステムへの抗議だったが、そのシステムは佐世保では、1968年1月19日に空母「エンタープライズ」の海軍基地への寄港に若者たちが抗議して、警察からの弾圧にあったことで、早々に試され済みだった。いま66歳の村上龍は当時の反乱の最も強力な代表者だったのだ。(しかし)ヨーシュカ・フィッシャーのような政治家やユルゲン・ハーバマスのような思想家は日本では探しても無駄であろうし、一人のルディ・ドゥチュケも見当たらない。今日まで当時の反省にも欠けているのだ。
 彼は自分の著書、インタビュー、映画を通じて特に若者のためにより大きな自由を求め、官僚や政治家が秩序や成長に固執することを批判している。1969年に彼が大学を占拠してから、一年たたないうちに首都東京の大学の騒擾は、全国の高校や中学校まで拡散した。学生は闘争委員会を設立し、ヘルメットと角材は全共闘のシンボルとなった。そのなかには左派グループがあって、彼らは1960年には多数派であったものの、日米安保条約に対する抗議行動を行なったが成功しなかった。
 村上は彼の抗議行動への関わりを小説「69 sixty nine」に仕立て上げた。主人公矢崎剣介(ケン)は、日本の教育制度を動物訓練のための工場と比較し、それに対して盾つくのだ。かくして小説は学生運動の核心部分と附合する。

怒りと方向性喪失
 当時何十万という高校生が、大学入試のために教師や両親の言いなりに猛勉強をしていた。勉学は大企業での終身雇用を保証してくれるものとされ、それは今日なおあらゆる物事の尺度なのだ。進学のため都会に出ると、狭い下宿や満員の講義室に耐えなければならない。そこでは怒りが蓄積し、反乱時に爆発して過剰な暴力となった。
 警察の弾圧が激しかったので、運動は起きたときと同様、2年であっという間に消滅し、ただ少数者が過激化した。1972年の2月、連合赤軍の内部抗争により12名が山中の隠れ家で死んだ。少数の生き残り活動家に対するショックを残して 運動は完全な停滞に陥ったと、慶応義塾大学の政治学者である小熊英二氏は言う。日本の1968年は10%の経済成長率に対する集団的な反作用であり、消費社会の始まりであった。ベトナム戦争は何ら大きな役割を演じなかった。運動が盛り上がった1969年12月の総選挙で自民党は勝利したが、以来ほとんど途切れること自民党は権力を維持している。今日まで日本人は怒っているが、方向性喪失の状態にある。「なぜならば、我々はそもそもどんな日本を構築したいのか、一度も議論してこなかったからだ」(太字―野上)と村上は言う。(終わり)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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