n(=自然数)個の同質で相互に計量できる性質を備えたしかしその他の性質については相互に比較計量できない「相異なる」要素からなる集合C(C1,C2,C3…Cn)を「投入」して、それらのすべての要素に対して全く等価な論理的操作を加え、その結果として集合からただ一つを選んで「出力」するような、ある種の論理マシンLmを想定する。その出力された要素がCo(1≦o≦n)とすると、しかし加えられた論理的操作はどの要素に対しても等価であるからCoとは別の要素Cp(1≦o≠p≦n)も出力されなければならない。これは唯一の要素を出力するという前提と矛盾する。すなわちそのような論理操作を行う論理マシンLmは成立しない。
価値形態論とはこのような矛盾を犯さずには成立しない論理マシンの一種である。すなわち価値形態論は必ず論理破綻に陥る。
資本論やその理論構成をそのまま信奉するある種の「ドグマティスト」が依拠する価値表現の「転倒可能性」や、対極的にそれを批判する宇野弘蔵及びその追従者の主張する「価値表現の交点」といった論理操作はいずれも矛盾なしにはその真理性を立証することは不可能である。さらに価値形態論を「商品語」の世界であるとして、交換過程論にその矛盾を先送りしても、交換という「行為」も一種の論理操作とみなせるので、同様の結論に至るほかない。現に資本論では「初めに行いありき」としてその矛盾を認めているのである。
付け加えるならば、上述論理マシンLmが唯一成立する場合があってそれは最初から投入要素の数n=1であるような場合であるが、商品世界を対象とする限りこれは無意味な想定でしかないだろう。
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〔study969:180509〕