新型コロナで消えゆく老舗 何らかの形で再出発できないものか

 帝国データバンクが新型コロナウイルス関連倒産件数の公表をおこなっている。それによると2020年5月末までの段階で212件倒産があり、業種別ではホテル・旅館業が最も多くなっているという。新型コロナの発生によりインバウンドが途絶え、国内においても外出自粛の徹底が図られたことから観光産業への打撃は想像以上に深刻なものとなっている。
 本来であれば観光産業の主軸であったはずの老舗温泉旅館なども経営難に直面しており、江戸時代から332年間続いて来た宮城県鎌先温泉の「木村屋」、90年続いて来た兵庫県湯村温泉の「とみや」、77年続いて来た東京都鴎外温泉の「水月ホテル鴎外荘」等々も惜しまれつつ長い歴史の幕を閉じている。
 
 そんな状況下ではあったが、東京の水月ホテル鴎外荘を5月31日に訪れ、77年の最後の1日を共にさせていただいた。
 鴎外荘は1943年(昭和18年)創業の台東区上野にある旅館・ホテル。すぐ近くには上野東照宮があり、都心とは思えない静寂さの中に佇んでいる。鴎外荘という名は、文豪・森鴎外氏がドイツ留学を終えて帰国した後「舞姫」「於母影」などを執筆した居所に因んで名付けられたもので、同旅館が森鴎外氏の旧邸を所有し今日まで会食の場などとして活かしながら保存して来たものだ。森鴎外氏の旧邸は第二次世界大戦の戦火も逃れているとのことで、家屋や庭も鴎外氏生存当時の面影を残した貴重なものであり、庭には縁起物の樹齢250年というクロガネモチの木等が今でも自生しており、室内から縁側越しに見る緑の光景は美術品かと見紛うほどの考えられた構図を呈していた。
 
 鴎外荘にはもう一つ特筆的なものがあった。それは東京都温泉第一号に登録されていた鴎外温泉だ。温泉と言っても泉温は19度ほどの冷泉であり加温しなければ温まれないのだが、泉質はメタケイ酸、重炭酸ソーダ(炭酸水素)を含んだ良質のもので一般に美人の湯とも称されている湯だ。また、東京湾周辺の地層中には古代の植物が変化してできた有機物(フミン酸)を含んだモール泉と言われるものが所々に存在しており、鴎外温泉も薄い茶褐色のモール泉であった。鴎外荘ではその温泉を樹齢2000年の古代檜でつくられた浴槽で味わうことができ、しかも、温泉宿では非常に珍しい湯揉み付きとあり、都心で味わえる身近な温泉場として長い間人気を博して来ていた。美肌効果も期待できることから女性ファンの間では常に評判が高かった。
 
 しかし、冒頭に述べたとおり、今回の新型コロナ感染症問題を機に宿が閉じられることとなり残念でならない。5月31日はそれぞれの思いを記憶に残そうと次々と人々が訪れ、旧邸の光景を瞳に焼き付け、持ち帰れない思い出を温泉の湯水に流して別れを惜しんでいた。
 現在では樹齢2000年の檜風呂などは滅多にお目にかかれない代物だが、浴槽に使用されている檜が樹齢2000年であるならば、キリストの誕生から古代ローマのテルマエ(浴場)の成立、ローマ帝国の栄枯盛衰をも風の便りで体感したであろうから、歴史の重みを夢想するには十二分というものだ。
 
 2020年の今、全世界は新型コロナ感染症一色だが、これまでも何度も何度も感染症や他の病で命を失う歴史は繰り返されてきており、テルマエの盛んであったローマ帝国を天然痘が衰退に追いやったとの説もある。歴史的建造物は私たちの想像を時空を越えて押し拡げ、過去の記憶をも甦らせてくれる。古い書物を紐解けば、かつての感染症対策がどのような経緯を辿ったかも分かるであろうし、解決策とまではいかなくても何らかのヒント位は発見することができるのかも知れない。
 
 文化財等は有形無形にかかわらず先人の血と汗の積み重ねの上に成り立っているものであり、文化や文化財等の喪失は歴史の断絶にも繋がり兼ねず、先人の知恵の損失にもなりかねない。どういう形があるかは分からないが、何らかの形で再出発できるようにはならないものであろうか。暗闇は復活の契機にもなり得るのであるから。

初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

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〔opinion9863:200620〕