新型コロナ禍でくさくさしている。気分転換に、スポーツを話題にスカッとしたい。荻村伊智朗さんは現役当時は卓球の世界チャンピオンに度々輝き、先の大戦敗戦で打ち沈む日本社会に光明をもたらした人だ。引退後はスポーツの指導者として平和外交の推進に尽くす。なかんずく、「米中ピンポン外交」~「米中正常化」に尽力した陰の功労者で、ノーベル平和賞ものと言ってもいい。
私は『朝日新聞』記者当時の一九九三(平成五)年に氏を取材し、次のような記事(要旨)を記している。
――スポーツ界有数の国際派として知られる。国際卓球連盟会長は現在三期目で、外国産スポーツの国際競技連盟のトップを極めたのは日本人初の榮譽。七一年の世界選手権では中国の国際舞台復帰に尽力し、米中国交回復のきっかけをつくった。中年以上のスポーツ・ファンには「世界チャンピオンの荻村」として忘れられない名前でもある。
「私自身の国際舞台は、初出場で優勝した五四年の英国での世界選手権が最初。戦争の記憶が尾を引き対日感情が悪く、ひどい嫌がらせを受けた。スマッシュをしようとすると観客が号砲用のピストルをドンとぶっ放す。でも、めげずに勝ち抜いて優勝したら、万雷の拍手。翌々年に行ったら、もうファンになっていて、ひいきしてくれる。この体験は私の人生のために本当によかった」
「世界中には今でも何億という人々が日本人に悪感情を抱いている。金にものをいわせて現地の人々の心を踏みにじったりしてるから。早い話、国際連盟の会長が日本人では恥ずかしいという意識です。幸い、卓球にはモンタギュー初代会長以来、世界平和に貢献しようという伝統がある。スポーツを通じて国際平和に少しでも尽くせれば光栄という気持ちです」
都立西高~日大芸術学部卒。高校当時から卓球を始め、強くなるために独特の工夫をこらしたハードトレーニングを己に課した。その甲斐があり、日大時代の五三年に全日本硬式選手権優勝。「で、世界選手権出場となったが、協会に金がなく出場費用八十万円は自弁。うちは母子家庭でそんな大金はない。さあ、という時、通ってた吉祥寺の卓球クラブの面々が三鷹や吉祥寺などの駅前で十円募金を始めてくれ、費用のめどがついた。そんな支えがあってこその初出場~優勝でした」。
想像以上にたくましい体格と豊かな話の内容にただただ圧倒された。――
卓球は三㍍ほどの距離で双方が打ち合い、強いスマッシュの打球だと○・二五~○・三五秒で飛んで来る。体の反応には○・四五秒ほどを要し、打球の方向や回転を予め予測していないと対応できない。卓球選手は究極の反射神経と瞬発力を要求され、勝負を左右するのは先の先そのまた先の展開を読む心理戦と言っていい。「卓球とは、百㍍競走をしながら、ブリッジ(トランプ競技の一種)をするようなもの」「大変な身体的能力と同時進行形で最高の知的能力を要求されるスポーツ」と荻村(敬称略)は言う。
基礎体力を付けようと井の頭公園で十㌔ほど走ったり、足腰のバネを鍛えるため四十㌔のバーベルを担いだままウサギ跳びを一㌔以上も試みたりした。独特の練習法として、卓球台の隅に万年筆のキャップを置き、バックハンドからの長いサーブでキャップを打ち払う練習を度々重ねる。初めは全くダメだったが、段々に十回に一回~五回に一回~十発十中と進歩していき、彼特有の強力な武器となっていく。
日大在学中と社会人になって以降との延べ八年間で、世界選手権大会で金メダルを都合十二個も獲得し、各種国際トーナメントでの優勝は百回を超える。とりわけ五四年のロンドン大会では、男子シングルスと同ダブルスに同団体と金メダルを三個も獲得。優勝の立役者・荻村は、太平洋戦争に敗れて打ち沈む日本社会に世界的快挙をもたらした輝かしい存在として、水泳の古橋広之進、ノーベル賞の湯川秀樹と並ぶ国民的ヒーローと一躍化す。
このロンドン大会で彼は英国人一般の日本人に対する先の大戦がらみの反感の根強さを思い知らされる。が、めげずに勝ち進んで世界王者の座に就いたとたん、ムードは一変する。荻村は言う。
――スポーツ外交すなわち民間外交の果たす役割の大きさを身に沁みて感じた。卓球を続けることに、もう一つの生き甲斐を覚えるようになった。
この後、六一(昭和三六)年の世界選手権・北京大会を機に、卓球界は中国の時代に移る。が、彼は大会後の記者会見で、中国チームのマナーの悪さ(試合途中に勝手にプレーを中断、ベンチに返ってコーチと相談したりする行為)を指摘。「世界チャンピオンとしての自覚を持ってほしい」と、持ち前の率直さであえて苦言を呈する。
翌年、彼は周恩来首相に直々招かれ、中国を訪問する。周は無類の卓球好きで知られ、内戦当時は延安の洞窟に卓球台を持ち込んで同好の毛沢東主席とラリーを交わした、と言われる。周は「中国は未だ貧しいが、卓球台位なら自給自足できる。あなたの経験と技を生かし、卓球の魅力を大衆に伝えてほしい」と口説く。快諾した荻村は以後度々訪中し、地方の農村部などを精力的に巡回~卓球の普及に協力した。
その中国では六五年、かの「文革」による社会的大混乱が生ずる。卓球界でも元世界チャンピオンが自殺に追い込まれたりし、世界大会にも欠席が続く異常事態に陥る。七一(昭和四六)年に日本で開く名古屋大会を前に、荻村は周恩来との個人的パイプを生かし、中国チームの大会復帰を秘かに働きかけようと決意する。
彼は日中文化交流協会の訪中代表団の一員として北京に乗り込み、「文革」後初めて周と再会する。「卓球というスポーツを通じて国際社会への扉を開くのが、中国にとって最良の方法。出場すれば、欧米など世界中の国々との交流回復が期待できる」と言葉を尽くして大会復帰を働きかけた。受け入れ側の日本では当時の日本卓球協会会長・後藤鉀二氏が中国招致を決断。アジア卓球連盟からの台湾追放という荒療治と引き換えに「中共」(当時の呼称)参加を実現する。
当の名古屋大会は、注目の中国チームが六年間のブランクを感じさせぬ活躍ぶりを見せる。男女とも団体決勝は日本対中国のカードとなり、男子は中国、女子は日本が優勝した。中国の復活劇は卓球関係者を驚嘆させるが、世界中をさらに驚かすニュースが生まれる。
中国と米国の男子選手同士のふとした接触~記念品の交換が始まりで、チームぐるみの友情が芽生える。米国の選手団は大会後、羽田~香港ルートで中国入りして歓待を受け、マスコミが世界中に大きく報道する。このピンポン外交はキッシンジャー大統領補佐官の訪中を誘発~中国の国連加盟~歴史的な米中国交正常化へと発展していく。周恩来は「小さな白球が地球を動かした」とコメントした。
荻村は七三年にITTF(国際卓球連盟)の理事に選出され、世界各地への卓球の普及活動に全力を注ぐ。八七年、ITTF会長選挙に中国などの理事らに推されて立候補。白人の二代目現職を六十五票対三十九票の大差で破り、第三代会長に就く。非欧米系の人間が国際組織のトップに就くのは当時珍しく、話題を呼んだ。
彼は母の美千枝さんの「将来は国際活動に尽くしてほしい」という意向を受け、高田馬場にある大学生向けの通訳養成学校へ中学生の頃に通学している。元外交官の講師から基礎をしっかり学び、英会話に堪能だった。おまけに生来雄弁で押しが強く、「日本人らしくない」という定評があった。
会長就任後、彼は九か月の間にアジアや東アフリカ・中東・南アジアなど六十か国・地域の卓球協会を歴訪。ITTF会長としては初めてラテン・アメリカの国々も訪ねた。ITTF関係者は二~三時間の仮眠をとって仕事に奔走する姿に「まるでナポレオンのよう」と驚嘆した。彼の口癖はこうだった。
――歴史は守るもんじゃなく、作るもの。自分が地球の大統領になったつもりで、大きな視点から考えるんだ。
七年後の九四(平成六)年、肺癌のため六十二歳で他界するが、彼の真価をよく知る人たちからは「ノーベル平和賞を取ってもおかしくない存在だった」と惜しむ声が上がった。
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