呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』を読む 

著者: 子安宣邦 こやすのぶくに : 大阪大学名誉教授
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2014年4月2日の午後、私は台北の松山空港に着いた。私を迎えてくれた友人は説明することもなく車で太陽花(ひまわり)運動の学生たちが占拠する立法院に連れていった。そこに待っていたのは呉叡人氏であった。呉氏は即座に学生たちの占拠する大会議場に連れていった。わずかな状況説明をするだけで彼は私をこの運動のリーダーたちに会わせた。私は面食らいながら彼の案内に従っていた。立法院外では学生たちが座り込み、学習会を開いたりしていたが、呉氏はそこにも私を連れて行き、私に話すよう促したりした。これが私の呉氏体験でもあった。私はこの立法院占拠事件とともに呉叡人を実地体験として知っていったのである。

この書『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』の原題は『受困的思想』である。困とは窮すること、行き詰まること、進退の窮することである。訳者は呉氏が高橋和巳の『孤立無援の思想』を意識していることを聞き、訳書をこのタイトルにしたという(「訳者あとがき」)。かつて呉氏は黙って「太陽花運動」の現場に私を立ち会わせたように、いま彼は黙って「孤立無援の島」の思想現場に私を立ち会わせようとしているのであろうか。7年前私は台湾立法院におけるあの運動に立ち会いながら、やがて起こるべき東アジアの運動の生起を予感したように、いまこの書によってこの島を〈本土〉としていく〈日々の投票行為〉というべき住民運動は、帝国に収斂することのない東アジアの多様的将来を私に予想させるのである。

この本『孤立無援の島の思想』がわれわれに与えるもっとも大事なメッセージはこの島の多元的民主主義の進行がこの島のアイデンティティを形成していくということである。「台湾の民主化と国家的アイデンティティの統合も必ずしも矛盾するとはいえないだろう。反対に、民主化を絶えず推し進めることを通じて、公共性への参与を拡大し、深化させ、さらに多元的な利益と意見を包摂できるならば、成員間の共同感情の形成を助け、積極的に参与している政治的共同体ーそれは「台湾」という共通世界にほかならないーヘのアイデンティティを真に強化できるかもしれない。」これを著者は「この共同空間で他者とともに生き続けたいという願望があるかぎり、彼/彼女は台湾人にほかならない」というのである。これは『孤立無援の島の思想』からわれわれが聞くことのできる最高のメッセージではないか。

多様な共同生活者がその共同生活を通じて形成する後天的なナショナリズムに対して、言語・種族・宗教や歴史的記憶の同一性に基づくナショナリズムは国家の成立とともに存在する先天的ナショナリズムである。これを著者は「本質主義的ナショナリズム」と呼ぶ。わが日本とは「本質主義的ナショナリズム」の代表国といってよい。そしていまこの「本質主義的ナショナリズム」を掲げる長期政権による国家の堕落と衰弱とをわれわれは徹底的に見せつけられているのである。

もう一つこの『孤立無援の島の思想』がわれわれ日本人に突きつけている深刻な問題がある。それは大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』『沖縄ノート』をめぐる問題である。

「僕は沖縄へなんのために行くのか」「沖縄にきて日本を考えるために」

この大江の『沖縄ノート』の執筆意図によって呉叡人はいう。「したがって、『沖縄ノート』は沖縄論ではなく、沖縄を対照項として、沖縄を通じて浮かび上がる。逆説的な日本/日本人論である」と。呉はさらに厳しい形でこうもいっている。「沖縄は日本にとって自己を変革させる道徳的警鐘者である。だから「沖縄の日本」とは、大江健三郎が沖縄という鏡の中に見た、そして見たいと望んだ過去、現在、未来の日本人像ー言い換えれば、祭司・大江健三郎が繰り返し祝詞を上げて呼び出そうとする、日本人の手中の鏡に映った多重的な自己である。」

これはわれわれがヒロシマに立ち、沖縄に立ち、そして台湾に立つことの、その立ち方自体を問うものである。著者はこの章の末尾で、「「ヒロシマ」の仮面をかぶり、身体における原爆体験と廃墟の中の捜索と救助を経て、子どもたちと平和教育に己を捧げた台湾人・荘雅子/荘司雅子」の例を挙げていっている。彼女は「他人の顔を自身の顔として生きた。・・・日本再生を導く義人として生きた。そして永遠に見つめられ、永遠に記憶される、ひとりの積極的な日本人として記憶された。その最期において、彼女は台湾を失うことなく、だがかえって日本に回帰した」と記し、「これが覆い隠され、忘れ去られた者が再生する方法である」といって「Je est un autre.(我は一個の他者である。)」というランボーの語を記して終えている。

なぜここに「台湾人・荘雅子/荘司雅子」の例とランボーの言葉があるのか。まだ私にはその意味が確かに分かってはいない。ただいまは大江の日本人であることの懺悔的な自己同一的な回帰ではヒロシマも沖縄も消えてしまうことをランボーの箴言をもって著者は諷じたのだと解しておきたい。

たしかに今はわれわれが台湾に、韓国に、そしてアジアの諸地域に立つこと、あるいは共に立つことのあり方が本質的に問い直されている時期であろう。その時期にこの書『孤立無援の島の思想』が与えられたことの意義は限り無く大きい。

[呉叡人著 駒込武訳『台湾、あるいは孤立無援の思想ー民主主義とナショナリズムのディレンマを越えて』みすず書房、2021]

初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2021.1.24より許可を得て転載

http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/84964582.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1152:210125〕