内村鑑三の「日本の天職」論 ―先人は「大事件」をどう考えたか(6)―

《内村鑑三に固執する理由は》 
07年3月の開設以来、「リベラル21」へのアクセスは累計百万件に接近中である。1日平均では650件に相当する。最近は1000件を超える日も少なくない。有り難いことである。多くのマスコミ出身の同人と違い、サラリーマンで40年を過ごした私にはこういう「顔のない読者」への対応の仕方が未だに理解できない。

それで親しい読者との会話で感想を聞いたりしている。
最近、知人から「お前は内村鑑三のことを何回も書いているがキリスト教徒なのか。彼の天譴論は余りに非現実的ではないか」と言われた。ここから始める。

第一に私はキリスト教徒ではない。
しかし私の回想はしばしば、ミッションスクールを舞台にした石坂洋次郎の小説『若い人』の一節に飛んでゆく。1930年代なかばの話である。「神(ゴッド)と天皇(エンペラー)はどちらがお豪(えら)い方なのですか」という生徒の質問をめぐって米国人女性の学長を含む教員の会話の場面がある。日本のキリスト者は、結局、この問いに明確な答えを出さなかった。そのことは私のキリスト者への懐疑または不満につながっている。

第二に私は内村の「非現実的」なところに興味があるのである。
彼の言説は、日本人には珍しく「原理主義的」である。だからこだわって書くのである。
日本人は基本的に、「原理主義者」であるよりも「現実主義者」である。人は「現実主義」で何が悪いかと言うであろう。しかし、私に言わせれば日本人の「現実主義」は、批判なき「現実肯定主義」または「現実追随主義」である。それは自分で考えることと主体的な決断を放棄した行動である。多かれ少なかれ私自身がとってきた行動であるからよくわかるのだ。

《日本の天職とは何か―軍事・経済・芸術大国への批判》 
内村は関東大震災後の1923年9月28日に「日本の天職」と題する説教を行った。
▼日本の天職は何乎。日本は特に何を以て神に事(つか)ふべき乎。世界は日本より何を期待する乎。日本は人類の進歩に何を貢献すべき乎。

これはその説教の冒頭の言葉である。大震災の混乱の中で彼はキリスト者としての使命 mission を吐露した。彼は近代日本の根源的な在りようを問いそれへの答えを書いたのである。以下にその要約を掲げる。

人に天職があるように国にも使命がある。エジプトとバビロンは最初の物質文明を世界に提供した。フェニキアは商業によって世界を助けた。ギリシャは美術、文芸、哲学を生んだ。ユダヤは宗教を伝えた。内村は「天職を語る時に神に対する職分」を語るという。宗教者として当然の言葉である。以下のように内村は自問自答を重ねていく。

第一に、日本は「武の国」として世界を征定する職分があるのではないかと自問する。確かに日本は「支那に勝ち、露西亜に勝ち、独逸に勝ち、戦って勝たざるはない」。しかしそれは最近の事実に過ぎない。戦争は日本人の趣好に適しない。彼らは本来平和を愛する農民である。豊臣秀吉が大陸征服に失敗したのち、徳川三百年の泰平が続いたのは日本人の平和愛好の天性による。これは軍事大国日本の否定の発言である。
第二に、日本は商業工業を以て世界の覇権をにぎる国であるべきか。これにも大きな疑問符が付く。商業は国旗の後に従うというが、その「国旗は軍艦と軍隊とに由て運ばるゝが常である/大海軍、大商業、大工業、所謂強大国は孰れも此三本足の上に立つのである」。
内村は「所謂一等国は日本の居るべき位置である乎」と問うて「大海軍を擁し、大商船を浮べ、商業工業を以て世界の競争に入るのが日本の本分である乎。私は無いと信ずる」という。これは経済大国日本の否定の発言である。
第三に、「日本人の美術、工芸、文学に於て語るの時を持たない」と内村はいう。彼は日本人のこの方面における優秀性を認め、北斎、近松、芭蕉の美点を否定しない。しかし次の言葉が多くを語る。「日本人の天才には驚くべき者がある。唯悲しむべきは独創性の欠乏である。日本人は新たに思想を起し得ない。彼等は改良家であって独創家ではない。天然を画くには巧みであるが、進んで大胆に天然の秘密を探り出す能に乏しい」。これは文化大国日本の否定の発言と捉えてよいであろう。

《日本の天職は宗教国家として生きること》 
ここで原理主義者は結論を次のように提示する。
▼日本人は特別に如何なる民である乎。私は答へて曰ふ宗教の民であると。斯く云ひて私は私の田に水を引き入れんとするのではない。日本の歴史と日本人の性質を見て斯く曰はざるを得ないのである。人は明治の日本人を見て私の此提言の全然理由なきを唱ふるであらうが、然しそれは間違って居る。国民の歴史に於て七十年は短き時期である。明治大正の物質的文明は日本に取り一時的現象であった。恰も人の一生に生意気時代があるが如くに、明治大正は日本の生意気時代であった。そして此時代はい今や終らんとしている。

これに続いて内村は日本の歴史における偉大な宗教家の名を挙げて日本の伝統に内在する宗教性を強調する。一方で内村は先進各国のキリスト教の現状に対する批判的な言葉を次々に発する。以下のようである。

まず日本の偉大な宗教者を讃えていう。
▼日本の仏教界に多くの尊むべき信者があった。其模型として私は常に恵心僧都源信を思ふ。其の信仰の純潔にして思想の高遠なるに於て、私は西洋の宗教家にして彼に勝りたる者あるを知らない。/日本の浄土門の仏教が彼が如き純信仰家を以て始った事は日本の幸福であり仏教の名誉である。
    夏衣ひとへに西を思ふかな
      うらなく弥陀に頼む身なれば。
    うらやまし如何なる空の月なれば
      心のまゝに西へ行くらむ。
此はまことに日本人が未来と信仰の目的物とを思ふ心である。今日の日本の基督信者にして、弥陀をキリストに、極楽を天国に変へて此歌を詠み得る者は幾人ある乎。

内村鑑三にかかると、法然、日蓮、道元らの仏教徒だけでなく本居宣長、平田篤胤らの国学者も日本の天職は宗教にあることを証明する事例となるのである。

一方では、欧米キリスト教国における本来路線からの逸脱を厳しく批判している。
「ルーテルの本国の独逸に於ては信仰は宗教哲学に化するか、然らざれば社会民主主義の取って代るところとなった」。我等の同志の一人が伯林に行いて我等が柏木(教会)に於て唱ふる所を唱へしに、独逸の基督者は驚いて言うたとの事である。「それはルーテルの信仰である」と。スイスでもカルビンの信仰を見ることは稀という。英国人は「神秘家」を嫌う。彼等は私(内村)まで神秘家と呼ぶ。源信や法然のような人が英国に現れたら実際に適さぬ夢想家として無視されてしまうであろう。西洋文明は其の全盛に達して其れは世を救ふ者でなく世を亡す者であることが判明(わか)った。

《「滅亡の危機」に声を失ったままである》 
内村のいう「日本の天職」が、「軍事大国」ではないことまでは私にも理解できる。
しかし内村の批判は、第二次大戦後の目標として実現をみた我々の「経済大国」に対しても、戦後の一時期に鳴り物入りで喧伝された「文化国家(大国)」に対しても及ぶのである。それを読むときに、企業社会を疾走してきた私には直ちには肯けないものがある。内村の未来予測も、当然ながら、的中したものと外れたものが混在している。

そう思いながら、しかし、国家はいま「存亡の危機」にあると考える。祖国を素直に眺めれば、内村鑑三の原理主義的な思考を呼び戻すことは決して無駄ではないと思えてくる。
たとえば「大東亜戦争」の末期、「帝国」は財政のほぼ全てを戦費に投じていた。しかし軍事大国日本は敗戦で大転換をした。戦費だけでなく戦争自体を放棄したのである。驚くべき変貌であった。

東日本大震災の災害は予測不能、想定外事項の連続として立ち現れている。
その規模と性格は「原爆投下」と「本土決戦」(これは現実にならなかった)を凌ぐものであるかも知れない。戦後改革に匹敵する大きな地殻変動、場合によっては「近代の終焉」も覚悟せねばなるまい。

「存亡の危機」とは大袈裟だという人がいるかも知れぬ。しかし放射性物質汚染の拡大と来るところまできた政治不信―人々は政府、政治家、メディアのいずれをも信用しなくなった―と「無音のパニック」が各所に発生している。事態の深刻さに思いを寄せるべきである。

しかし戦後体制を推進してきた権力は決してヤワではない。
「失敗学」学者畑村洋太郎が主宰する東電原発事故調査委は責任追及を目的としないと言った。自民党幹事長の石原伸晃はイタリアが国民投票で反原発を決めたのをみて「集団ヒステリーだ」と言った。スイス、ドイツ、イタリアが原発廃棄を決め、原発大国フランスでも反原発の世論が高まっているのに、この国の二大政党は「原子力発電の廃止」すら打ち出していない。大手メディアも完全廃止を主張している社説を知らない。それどころか「政界・財界・官界・学界・報道界」の統一戦線は総力を挙げて東電存続、原発再建への巻き返しに出てきている。

この国は滅びにいたるまで、「現実主義者の天下」、「愚者の楽園」、「見たくないものは存在しない社会」、「大本営発表の社会」が続くのであろうか。私は依然として声を失ったままオロオロするばかりである。(11年6月15日記す)

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