人生の意味
ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」という著書では「人生の意味のコペルニクス転換が説明されている」と述べられており、具体的には、「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」という説明がなされている。しかし、私自身は、この内容が全く理解できず、いろいろな思索を重ねたが、その結果、旧約聖書の「出エジプト記」で述べられている「ヨルダン川の霊的渡河」と同様の意味のようにも感じられた次第である。
つまり、「アウシュビッツ」で命が奪われそうな瞬間に遭遇した「フランクル氏」は、「人生の意味」に関して、ある種の「悟り」を得たものと思われるが、実際には、「救いの確証」という点で、「お金や信仰で救われようとする態度が過ちだった」と理解した可能性のことである。別の言葉では、「アウシュビッツのガス室」という「極限的な瞬間」に直面した時に、「救われたいという希望」が消滅し、「なぜ、このような経験を神が与えたのか?」を徹底的に考え抜いたものと思われるのである。
そして、得られた結論は、「すべてのことに意味があり、実際には、神の愛が隠されている」ということだったようにも感じられるのである。つまり、「肉体的には、きわめて過酷な経験」でありながら、一方で、「精神的には、大きな飛躍ができた瞬間」だった可能性のことである。別の言葉では、「真言密教の三密加持」と通じる内容のようにも思われたが、実際には、「念」という「今の心」を徹底追及した時に「神の真理」に到達できる可能性のことである。
より具体的には、「魂」の奥深くに存在する「阿頼耶識」と言われる世界を垣間見た可能性のことであり、この瞬間に感じたことは、「自分が救われたい」ということよりも、「より多くの神の智慧を得て、神に近づきたい」ということだったようにも思われるのである。つまり、「人生に向かう態度」において、「利己的な精神」が抜け落ちるとともに、「神様が人間に与える深い愛」が理解できた状況とも感じられたのである。
そして、このような「コペルニクス的転換」については、間もなく、世界中の人々が経験する可能性が高いものと考えている。具体的には、「お金があれば救われる」と認識している人々が、「お金が無価値になる状態」に遭遇した結果として、「人生の意味」を問い直す状況のことだが、実際には、この時から、本格的に、「唯心論」を中心とした「東洋の時代」が幕を開けるものと考えている。(2021.3.10)
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天使と悪魔
西洋の古典を読むと、頻繁に「天使(エンジェル)と悪魔(サタン)」という言葉が出てくるが、われわれ日本人にとっては理解が難しい概念とも思われるために、私自身の仮説を述べてみたいと思う。具体的には、「天爵」という「自分自身の努力で向上可能な精神的レベル」と、「人爵」という「自分の努力だけでは達成が難しい地位や名誉、そして、お金などのレベル」の関係性において、今までは、「精神的なレベルが高い人が天使であり、また、低い人が悪魔である」と誤解していたようにも思われるのである。
つまり、「弘法大師の十住心論」で述べられている「十段階の精神的なレベル」を想定すると、「八や九のレベルの人が天使で、そして、一や二のレベルが悪魔ではないか?」と考えていたが、実際には、全く違った状況のようにも感じられたのである。具体的には、「精神レベルが五の人」を考えた場合、「自分より上のレベルの人を尊敬し、謙虚に努力する場合」、その人は「天使」であり、一方で、「自分よりレベルが低い人を軽蔑し、奢り高ぶった感情を抱く場合」、その人は「悪魔」になるものと考えられるのである。
このように、「すべての人が、心持ち次第で、天使にも悪魔にもなる可能性が存在するのではないか?」ということが、現時点の「私の仮説」である、しかも、この点については、「800年間にも及んだ西洋の時代」、すなわち、「徐々に、唯物論が信じ込まれ、マネーの大膨張が発生した時代」においては、「精神的なレベル」よりも「地位や名誉、そして、お金」を求める人々が増えていった状況とも想定されるのである。
つまり、この期間は、「悪魔のひき臼」により「それまでの価値観や倫理観などが壊された状況」でもあったわけだが、結果としては、「貧富の格差」という「人爵におけるレベルの違いが際立った社会」が産み出されたことも見て取れるのである。別の言葉では、「お金があれば救われる」と錯覚した人々が、数多く存在する状況のことでもあるが、この結果として発生した現象は、「多数の自殺者」や「いじめなどの頻発」だったのである。
より具体的には、「他人よりも高い地位や名誉を得て、多くのお金を持つこと」に価値観を置いた「悪魔のような人々」が増えた結果として、たいへん住みにくい社会が形成されたようにも感じられるのである。ただし、今後の展開としては、「命よりも大切にされた現代の通貨」、すなわち、「デジタル通貨」が「紙幣」に取って代わられるという「神から紙への変化」が発生し、その時に、「役に立たない大量の紙幣」を抱え込んだ人々が、「天使」のような存在となり、「精神レベルの向上」を目指し始める状況も想定されるようである。(2021.3.11)
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駆逐され始めた現代の良貨
「悪貨は良貨を駆逐する」という「グレシャムの法則」は、古典的な経済法則でありながら、現在でも、いろいろな局面に応用可能な状況とも言えるようである。具体的には、「質が良く有望と思う資産を手元に置き、反対に、質が悪く見込みがないと思う資産を手放す」という投資行動のことである。そして、結果としては、「市中に流通する通貨や資産の多くが、鐚銭(びたぜに)などと呼ばれる質の悪い硬貨」となるわけだが、今回は、「貴金属市場」で、同様の状況が発生していることが見て取れるのである。
つまり、「銀(シルバー)」を中心にして、現在、世界的に「貴金属の現物」が購入しづらくなっている状況のことだが、この理由としては、「先物」と「現物」との間に、「価格の乖離」が発生している可能性が挙げられるのである。具体的には、「デフレ」を演出したい人々が、「先物取引を利用して、貴金属の価格を実質の需給関係よりも低く抑えていた」という状況のために、「現物に対する需要が強くなり、その結果として、市場から駆逐され、手に入りにくくなった状態」のことである。
別の言葉では、「1971年のニクソンショック」以降、「マネーの大膨張」が未曽有の規模で発生したために、「実体経済」と「マネー経済」との間に、大きな乖離が発生した点も、別の原因として指摘できるものと想定されるのである。つまり、現代人が喜んで保有している「デジタル通貨」については、今まで「良貨」とみなされ、「どのような商品にでも交換可能である」と認識されてきたわけだが、現在では、「現物との交換」という観点において、問題が発生し始めているのである。
より具体的には、「大量のカラ売り」が存在しながらも、「現物の手当て」が難しくなっており、その結果として、今後、「貴金属の価格」が急騰する展開も想定されているが、このことは、「現代の良貨は、いったい、何なのか?」という問題を、現代人に提起しているものと考えている。つまり、「本当に安心して保有できる資産は、ビットコインか、それとも、金(ゴールド)か?」という「問い掛け」のことだが、この点に関する答えは、「どの商品が駆逐されたのか?」を考えることで判断できるようである。
しかも、今後の展開としては、「デジタル通貨」の創造が難しくなった「世界各国の中央銀行」が、一斉に、「紙幣の増刷」を実施し始める状況を想定しているが、この結果として発生する現象は、「未曽有の規模で良貨が駆逐される状況」であり、実際には、このことが、古典的な「インフレ(通貨価値の下落)」を表しているのである。(2021.3.13)
本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
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〔opinion10715:210407〕