(2021年5月16日)
日弁連の機関紙「自由と正義」の5月号が届いた。いつも巻頭に、「司法の源流を訪ねて」とする各地の写真記事が掲載される。今号は、その第51回で、「ため池ほとりの伏石事件碑」が取りあげられている。筆者は、香川県弁護士会所属の弁護士。
「伏石事件とは、小作争議事件であり、1922年、伏石地区で小作農を営んでいた約150名が、その地主たちへ小作料の減額を要求したことから、地主側との紛争になりました。
1924年、地主側が、田に生えている稲に対する動産仮差押えを行い、一方、小作側は、弁護士に相談の上、事務管理及び留置権を根拠として、稲を刈り取り、保管しました。
この小作側が行った稲の刈り取りに対し、地主側は告訴を行い、小作人及びその代理人をしていた弁護士も含めた20名余りが身柄拘束されました。
1925年、高松地方裁判所で、1名を除いて、窃盗罪等により有罪判決が下され、うち弁護士も含め3名が実刑判決となり、上訴も全て棄却されました。この伏石事件は、当時、外国の新聞にも掲載されたそうです。
香川県民は、気候のとおり、温和な県民性とされていますが、このような熱き心を抱かれた先人たちがいたことを知り、大変興味深いところでした。」
付加して多少のコメントが必要である。伏石事件を語るときには、弁護士若林三郎の名を落としてはならない。彼は、1921年に設立された自由法曹団の若き活動家だった。小作人組合の顧問として、大阪から現地伏石に渡り、この闘争の法的部門での指導者となった。
当時、小作争議は、労働争議と並ぶ激しい階級闘争であった。伏石事件は、西日本における小作農階級と地主階級の総力戦ともいうべき象徴的闘いであった。
若林は法的戦術を練り先頭に立って闘ったが、結局多くの農民を巻き込む犠牲を出して敗北する。彼自身も窃盗教唆で起訴され、実刑が確定する。
伏石事件の刑事弾圧を語ることは、当時の「天皇の裁判所」の果たした役割を語ることであり、これと果敢に闘った群像の悲劇を語ることでもある。
この事件での取調べは苛烈を極め、自白の強要や拷問ともいうべき行為が連日長時間にわたり続けられたとされる。小作農からも精神に異常をきたす者、仮釈放後に自殺した者が出ている。
1922年に発足した自由法曹団は総力をあげて支援し、全国的な抗議行動も広まったが、抗議の演説を行った弁護士らが各地で拘束されている。
伏石事件で起訴された者は23名。1924年7月に高松地裁で公判が開かれ、9月には判決言い渡しとなった。有罪22名(うち19名に執行猶予)・無罪1名であった。1927年に上告が棄却され、刑が確定している。
この厳しい闘争の結果、小作料については10~15%の減額となったというが、若林三郎は窃盗教唆の首謀者と認定されて実刑を受け下獄した。10か月の服役を終えた彼の傷心は癒えることなく、出所直後に2歳の娘を道連れに自殺している。1928年のことである。
伏石事件の弾圧が1924年、その翌年に治安維持法が成立し、若林の死の1928年には3・15の大弾圧が起こっている。天皇の裁判所が、野蛮な弾圧機関として、遺憾なく猛威を振るった時代であった。若林の死後20年たらずで、日本国憲法が制定され、「天皇の裁判官」はパージを受けることなく、そのまま「国民主権国家の裁判官」に移行した。
歴史を記憶し、ことあるごとに歴史の教訓を反芻しておきたい。天皇の裁判が横暴を極めていた時代の悲劇を繰り返してはならない。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.5.16より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=16892
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10885:210517〕