私は、以下の当ブログにもあるように、ドラマの原案となった『九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実』(熊野以素著 岩波書店 2015年)を読んでいたので、どんな展開になるのかな思いつつ見たのである。
『朝日新聞』より、1950年撮影
『九州大学生体解剖事件』を読む~スガモ・プリズンの歌会にも触れて
2018年2月12日 (月)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/02/post-80e7.html
いわゆる「八月ジャーナリズム」の一翼を担っているNHKの<終戦ドラマ>やドキュメンタリー番組は、最近、とくに好きになれないでいる。歴史に学ぶということは大事だが、そこに今日的なメッセージがなかったとしたら、とてもむなしい気がしてしまうのだ。
今回のドラマの原案は、主人公の鳥巣太郎の姪にあたる熊野さんが、身内という立場を超えて、克明に裁判・再審査資料をたどり、関係者求めるとともに、自身と叔父との共通体験をもとに書き綴られたドキュメントである。
敗戦直前、一九四五年五月、阿蘇山中にB二九が墜落し、捕虜となった乗員たちのうち八人が、九州大学医学部で行われた「生体実験」で殺された。当時医学部第一外科の助教授であった鳥巣太郎は、軍の命令だとして、この「実験手術」を続ける教授に、中止を申し入れたが、手伝いを余儀なくされる。一九四六年七月一三日、上司教授らとともに逮捕され、教授は自殺する。七月一九日には、巣鴨プリズンに移送され、一九四八年三月一一日、横浜法廷で、裁判は始まり、さまざまな曲折がある中、一九四八年二七日、「首謀者」として死刑判決を受ける。鳥巣は、苦悩しながら、死刑をも受け入れようとするが、妻は、夫の言動から無罪を信じ、さまざまな妨害を乗り越え、関係者の証言や証拠を求めて再審査にこぎつけ、一〇年に減刑された。一九五〇年には講和条約発効の恩赦により、釈放されている。
裁判や再審査の過程やさまざまな関係者による証言、嘆願書などにより、刻刻と状況が変わっていくのだが、ドラマでは、その様子がわかりにくい。福岡での軍部と九大医学部との間の確執や裁判上の駆け引きなどには若干触れるが、医学部の医師同士の確執、利害関係も具体的にはわかりづらかった。ただ、巣鴨プリズン内の死刑囚同士の交流には焦点があてられていた。実際、当時の巣鴨プリズン内の受刑者たちの往来も一部認められたり、外出も認められ、上記二〇一八年の当ブログにも書いたように、外部の歌人たちと歌会を開いたりしている。ドラマでの同室者やプリズン内で人望を集めていたという岡島(岡田資陸軍中将がモデル)との交流はなんとなく人情味あふれるストーリーになってしまった感があり、妻の献身は、愛情物語に仕立てられた感がある。戦時下の軍部と研究・医学との関係、占領下の勝者の裁判の在り様や仕組み、それを受容する政治や市民たちに立ち入って欲しかったなと思う。「戦犯」とされた人々の遺族や家族たちの歩んだ道も過酷で様々であったと思う。
ドラマは、その舞台の「九州大学医学部」を「西部帝国大学医学部」などと言い換え、主人公の名前「鳥巣太郎」を「鳥居太一」にするなど登場人物の名前を、本名に近い姓名を付けたりしている。そのような操作をするより、私は、正面からドキュメンタリーにするべき内容ではなかったかなとも思う。イメージ画像や再現ドラマなどやたらに挿入するのではなく、残っているニュース動画や写真、資料、遺族、関係者の証言などの画像や映像による方がはるかに迫力があるのではないかと思う。そして、主人公が生涯背負った「しかたなかったと言うてはいかんのです」の思いが伝わるのではなかったか。
つぎの新聞記事によれば、今回のドラマの制作統括の一人熊野律時さんは、熊野以素さんの次男で、NHK大阪局の職員だったことがわかった。また、熊野さんは、三〇年にわたる教員生活の後、大学院で福祉を学びながら豊中市の市民活動にかかわる中、二〇一一年には市議となり二期八年間務められ、『“奇天烈”議会奮闘記 市民派女性市議の8年間』(東銀座出版社 二〇二〇年九月)などを出版するという活動家でもある。
二〇一八年一月、森友問題の地元でもあった豊中市の市議として、森友問題の院内集会に参加されていた頃に、私はお目にかかったことになる。
・西日本新聞(2021/8/11 6:00)
「生体解剖事件」戦犯となった医師の悔い 親類が企画、ドラマ化
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/783471/
・西日本新聞(2021/4/14 12:20)
伯父に学んだ「あらがう強い意志」 九大生体解剖事件【狂気のメス<2>】
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/723180/
なお、鳥巣太郎は、短歌を詠み、<戦犯歌集>と呼ばれた『巣鴨』(第二書房 一九五三年九月)には、「孤心」五〇首が収録されている。後に『ヒマラヤ杉』(一九七二年一〇月)という歌集も出版している。二〇一八年の当ブログは、『巣鴨』の成り立ちや鳥巣の作品を紹介している。繰り返しの部分もあるが、一部紹介しておこう。
・永らへし命思ひぬ秋づきて朝はすがしき窓に佇ちつつ
・咳をするも一人とよみし山頭火おもひ出でつつ臥床をのぶる
・講和調印終りし今朝も平凡に護送車の中にうづくまり居り
上は、セロファン紙に包まれた状態で、帯には改進党総裁重光葵の「民族の悲歌 歌集『巣鴨』」の推薦文が記されている。下は、セロファンも帯も取ると、「巣鴨プリズン本館」と題された木版画が表紙になっていた。この木版画は、巣鴨絵画班の制作とあり、各人の短歌集の扉に表題とともに各様の木版画が配されている。その数30枚にも及び、短歌作品とともに、プリズン内の日常が描かれているので、貴重な資料となるのではないか。
上は、モノクロでスキャンした、鳥巣太郎の「孤心」の扉で、木版画には「洗濯場」と題されている。
下は、「孤心」から。見開きの右の頁には次のような短歌がある。
・三つの年別れしままの末の子が折紙切紙ここだ送り来
・死に就きし友の監房に入りゆけば鉛筆がきの暦のこれり
・星光も清らけき夜の刑場に冴え透りけむ南無妙法蓮華経のこゑ(岡田資氏)
歌集『巣鴨』にはない木版画だが、ネット上で見つけた巣鴨絵画班による作品と思われる。第13号ドアの先が刑場とされている。
初出:「内野光子のブログ」2021.8.15より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/08/post-d36fbb.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11204:210816〕