(2021年8月20日)
9月1日が近づいてきた。年来、私はこの日を「国恥の日」と呼んでいる。日本人であることが恥ずかしいと思わざるをえない日、そしてその気持ちを忘れてはならないと心に刻むべき日、である。もっとも、まだ明示の賛同者を得てはいない。
1923年9月1日が「国恥」というべき事件の発端である。関東大震災の混乱の直後に、日本の軍と警察と民衆が、数千人の朝鮮人を虐殺したのだ。中国人も犠牲になっている。その犠牲者の数は正確には分からない。当局がこの犯罪の大部分を隠蔽し、調査を怠ったからである。
この朝鮮人虐殺の全貌は、姜徳相『関東大震災』(中公新書)と吉村昭『関東大震災』(文春文庫・菊池寛賞受賞作)との2冊に詳しい。混乱の中で、多くの朝鮮人が文字通り虐殺・惨殺されたのだ。虐殺に直接手を下したのは、軍・警よりは、民間の日本人である。中心に位置したのは退役軍人とも言われるが、決してそればかりではない。ごく普通の人々が自警団を作って、刃物や竹槍などの武器を持ち寄り、「朝鮮人狩」を行い、その虐殺に狂奔したのだ。恐るべき蛮行というほかはない。
この事件についての先進的研究者である姜徳相(元一橋大学教授・滋賀県立大学教授)は、去る6月21日に亡くなった。氏は、この虐殺の本質を端的にこうまとめている。私には、返す言葉がない。
「日本の民衆が流言飛語に乗せられて朝鮮人を虐殺したというのは誤りで、軍隊と警察が率先して朝鮮人虐殺を実行し、朝鮮人暴動のデマを流して民衆を興奮させ、虐殺を煽動した」「国家権力を主犯に民衆を従犯にした民族的大犯罪、大虐殺」
雪月花を愛で、もののあわれを詠じるのも日本人だが、後ろ手に縛った朝鮮人を竹槍で惨殺したのも、紛れもない同胞である。この事件は、「国恥」というほかはない。
だが、「国恥」には、もう一面ある。この冷厳な歴史的事実を認めようとせず、歴史からこれを抹消しようという策動が続いていることだ。そして、今日に至るまでその策動を克服し得ていない。あれから98年経った今なお、この歴史の隠蔽・修正という「国恥」は続いている。その現在の「国恥」を象徴する人物が小池百合子(都知事)である。
1974年以降、毎年9月1日に東京都墨田区の都立横網町公園で、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」が開かれている。主催者は、日朝協会が主となった実行委員会。その追悼式には、歴代の知事が追悼文を寄せてきた。あの右翼・石原慎太郎でさえも、追悼文を欠かさなかった。ところが、小池百合子は、度重なる要請を拒否して、追悼文を寄こそうとしない。今年も、である。
日朝協会などの実行委メンバーは7月27日、8月8日と都庁を訪れ、追悼文の送付を求め、8596筆と142団体の署名を渡した。この席で、実行委側は、「内閣府中央防災会議の報告書(08年)も虐殺の事実を踏まえ、背景に『民族的な差別意識』などがあったと指摘したことを紹介。歴代知事が『二度と繰り返すことなく』語り継ぐとしてきたにもかかわらず、小池知事が追悼文送付をやめたことは理解できない」などと述べている。
また、8月17日には、日本共産党都議団(大山とも子団長、19人)が正式申し入れをしている。申し入れの内容は、下記2点。
1、知事は史実を誠実に直視し、今年9月1日に開催される「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」に対して、追悼文の送付を再開すること。
2、「人権条例」審査会が認定したようなヘイトスピーチが二度と行われることのないよう、9月1日の横網町公園の運営に当たり適切な措置を講じるとともに、知事は、ヘイトスピーチが行われることのない東京都を目指し率先して行動すること。
この申し入れの理由は、説得力のある立派なもの。是非下記URLに目を通していただきたい。
https://www.jcptogidan.gr.jp/category01/2021/0817_3247
それでも、小池百合子に、反省の色は見えず、「今年も追悼文を送付しない」というのが東京都の方針である。国恥は、まだまだ払拭できない。
なお、追悼式典は9月1日午前11時開会予定。新型コロナウイルス対策のため、昨年に続いて今年も一般参加は募集せず、オンライン配信される。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.8.20より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=17416
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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