2・1軍部クーデタから7か月、反クーデタ闘争と民主化運動を束ねるNUG(国民統一政府)は、9/7に「人民防衛戦争」の開始を宣言し、全国民に一斉武装蜂起を呼びかけた。1988年の反独裁国民的決起以来、約30年間にわたってミャンマーの民主化運動を牽引してきたアウンサンスーチーとNLDが、マハトマ・ガンジーに由来するの「非暴力不服従抵抗運動」の政治理念を掲げてきただけに、この転換は国際社会に一種の驚きをもって迎えられた。一部には国連への代表権を審議し信認をあたえる第76回国連総会に向けたデモンストレーションにすぎないとみる向きもあった。(信認問題の結末は、国軍と民主化勢力のどちらに国連への代表権を与えるかの決定はしばらくペンディングで、決定にいたるまでスーチー政権選任の現職チョーモートゥン氏が任にとどまることになった。ささやかながら国際政治の舞台での民主派初勝利である)
しかしその後の経過は、NUGの本気度をある程度実証するものとなった。9/7以来の一週間だけとっても、NUG側から国内で139か所を攻撃、国軍に約200名の戦死を強いた。ヤンゴン、マンダレーという大都市で、またサガイン管区・マグウエイ管区(「管区」とはイラワジ川流域の平原部である多数派ビルマ族の居住地域をさし、インド・中国・タイと国境を接する少数民族地域を「州」としている)、チン州・カヤ―州・カレン州、モン州などで、国軍部隊への待ち伏せ攻撃、通信施設や公共施設の爆破、軍部側の行政官や密告者の暗殺を行なったということである。ちなみに9/16現在で、国軍による国民の殺害被害は1100名、逮捕者は8223名に上る(政治犯支援協会発表)。NUGの主張によれば、武装した民主派組織や少数民族武装勢力との戦闘により、直近の3カ月間で国軍側の兵士1,710人が死亡、630人が負傷した(イラワジ紙9/1)。
以下、内戦状況をめぐる現状の問題点について、最近「イラワジ」紙などに載ったすぐれた論説の紹介もかねて論じてみよう。
<NUG宣戦布告の政治的理由ーイラワジ紙とのインタビューから>
国民統一政府の外務大臣ジンマーアウン氏。 イラワジ紙
ミャンマーにおける内戦状態の解決のためには、中国、アセアン諸国、西側諸国とも、国軍に肩入れする立場か、あいまいな立場か、あるいは反対の立場かの別はあれ、すべての勢力は政治的対話を通じて、非暴力の平和的解決にあたるべきであるという点では共通しているように思われる。そういう意味では、NUGが「軍事政権を根絶する」ために戦闘宣言を発し、全国民に武装蜂起を呼びかけたことは解決の道筋に逆行しているようにみえなくもない。スーチー女史らが30年以上にわたって続けてきた非暴力抵抗運動の伝統にも反するのではないかという疑問も、西側市民社会からも漏れ聞こえてくる。
そこのところをネット・メディア「イラワジ」紙が、当事者であるNUG外相であるジンマーアウン氏から説明を引き出しているので、その概要を紹介しよう。
―――武装蜂起の呼びかけを行った理由の第一は、クーデタ以来7ヶ月間、軍事政権に対する国際的な圧力と制裁は効果がないことが証明されたからです。※我々はいぜんとして武装闘争のみならずあらゆる形態の抵抗運動を併行して行なっています。市民的不服従(CDM)をはじめとする非暴力で平和的な抵抗活動も続けています。したがって我々の政策を非暴力の運動から暴力への移行とみなすのは一面的であり、民主主義回復のためには、あらゆる手段を行使するというのが私たちの立場です。
※註 4月、ジャカルタでのアセアン首脳会議での合意事項
1)暴力の即時中止
2)多くの政党間で建設的対話を実現させる
3)ASEAN特別調査団の人選指名
4)ミャンマーへの人道的支援
9月までに実現したのは、3)の人選のみで、しかしミャンマーへの入国すらかなわない現状である。
―――私たちは、国際社会が介入し、政権に圧力をかけるよう、大きな声を上げてきました。国際的な介入は遅々として進まず、ASEANの特使が任命されるまでに4カ月もかかった。その4カ月の間に、民間人の死亡者や逮捕者の数は、数百人から数千人に増えました。軍事政権に圧力をかけて、ASEAN特使のミャンマー訪問を許可することもできませんでした。国民はあまりにも苛立たしい思いをしている。私たちNUGは、国民の声や苦しみを反映させる責任があります。私たちの戦争への呼びかけは、国際社会による行動の欠如に対する私たちの応答です。
―――ASEAN特使による今年末までの4か月間の停戦の呼びかけについては、民間人を撃っているのは体制側なので、完全に体制側に責任があります。政権が攻撃をやめれば、人々は防衛行動をとる必要はありません。我々国民の自衛行動は、軍が民間人を攻撃し、戦場で敵であるかのように扱った結果なのです。軍事政権には唯一の責任があり、その責任を果たさなければなりません。
―――NUGの防衛省は、すべての人民防衛軍(PDF)に対して、その行動規範に従うように厳しく指導しています。誰が通行人や子供、妊婦を無差別に撃っているか、みんな知っているのだから。PDFができたのは、軍の攻撃的な行動のためです。国民を守るどころか、軍は国民を敵として扱っているのです。民間人を標的にすることは、NUGやPDFの方針ではない。プロの武装勢力は、殺戮を繰り返したり、無差別攻撃を行ったりしません。PDFは、過去の軍事政権と現在の軍事政権の下で何十年にもわたって廃墟と化してきたミャンマーの治安部門全体を変えるための第一歩です。NUGの宣戦布告について、国民は心配しているというより、むしろ心浮き立っているのではないでしょうか。国民はこの日を待ち望んでおり、NUGの宣言はもっと早く来るべきだったと言う人もいます。NUGには、国内の不安定な状況に対する責任はありません。
カヤ―州、カレニ―民族防衛隊と共同作戦中の市民戦士たち イラワジ紙
アセアンの首脳会議で決定した5項目の履行は、なによりも軍事政権が責任を負うものである。2・1クーデタ以降の蛮行と悲惨な状況は、すべて国軍の一方的な攻撃によってもたらされたものであるからである。非暴力不服従というシェーマに囚われて、国民の圧制に対する抵抗権の一部をなすであろう武装防衛を非難・否定するのは、国民の手足を縛って無力化することに手を貸すことになりかねない。国際社会は、自らの責務としてまず軍事政権の暴力を止めさせることに集中すべきなのである。
ミャンマーで30年以上もの間調査報道を続けてきたスウェーデンのジャーナリストB・リントナー氏は、「政権は権力の維持にのみ関心があり、敵対勢力との話し合いや妥協には関心がないため、対話の呼びかけは最初から失敗する運命にある。だからこそ、ミャンマーの人々が政権に対して武力闘争に訴えるのは当然のことなのである」と、述べている。
もちろん半世紀以上にわたる軍部独裁の支配は、市民社会形成の芽をつぶし、人命・人権に対する社会の感受性を奪ってきた。アジア的家父長的な専制と権威主義、ネポティズム(縁故主義)と裏腹な、社会の深部まで浸透している暴力への志向性などと自覚的に闘わなければ、武闘が非人間的なテロリズムを誘発する危険性なしとはしない。だからこそミャンマー民主化の中心的テーマのひとつが、人治と暴力支配から法治と人権尊重への転換という政治改革であり、また軍事部門では厳しい内部規律が求められているのである。なお、NUGは声明の中で、人民防衛軍の間で統一された指揮系統を作り、ジュネーブ条約とともに国際的な人権・人道法に沿ったNUGの行動規範を尊重することを約束している。
<NLDからNUGへ>
以前にも述べたように、国軍クーデタは苦心して作り上げた2008年憲法体制を自ら破壊することにより、国軍勢力と民主化勢力とのバランスの上に立つハイブリッドな統治システムは一夜にして崩壊してしまった。国軍側はクーデタによって2008年憲法以前の体制である軍部独裁に戻すことを画策したのだが、これには大きな誤算であった。ここ10年間の文民統治下での国民の政治意識の変化・成熟に盲目であったため、国軍にとってこれほどの大規模な国民的抵抗は予想だにしえず、したがってそれに対する備えが全くできていなかったのだ。政治的未熟さと短見のゆえに、ネーウイン以来の伝統的な手法―大量殺戮による反対派封じ込め―を突発的に取らざるをえなかった。
その結果、クーデタによる激変は、統治体制にかかわるすべての利害関係者にその影響を及ぼした。NLDを中心とする民主化勢力にも内部変動を呼び起こした。NLD執行部と政府要人はクーデタによって逮捕・勾留されたため、地下に潜った人々が臨時指導部を直ちに立ち上げ、やがてNUGを樹立した。彼らは当初はスーチー氏の唱える非暴力不服従原理を踏襲して、広範なCDM(市民的不服従運動)を組織し、若者たちの街頭行動と相乗して大きなうねりをつくりだした。しかしまもなくクーデタ政権は血の弾圧を開始し、無差別テロルを拡大していく。この事態にNUGは2008年憲法の廃棄と新憲法構想を打ち出すとともに、反クーデタ・民主化運動の武装防衛を宣言して武闘路線に踏み出すことになった。これによって9/7の「人民防衛戦争」の宣言に至る道筋が敷かれたのある。
旧執行部との路線の違いは、武闘を採用するか否かだけに限られない。何よりもミャンマーの民主化運動に同情を寄せてきた国際社会にとって驚きだったのは、NUGがロヒンギャの国籍=市民権を認知すると発表したことであった。さらにNUGは6月下旬に国軍の残虐行為の証拠を集め、国際刑事裁判所に人道に対する罪で提訴する準備をしていると発表した。スーチー氏が、ロヒンギャ70万人のミャンマー脱出を引き起こした国軍の残虐行為を過少に評価し、2019年に自ら国際司法裁判所での陳述で国軍を実質的に擁護したことの記憶がまだ鮮明なだけに、新旧の執行部の差は大きかった。さらにNUGは国際社会の懸念を考慮し、「バングラデシュのキャンプで苦しんでいるすべてのロヒンギャ難民を、自発的に、安全に、尊厳を持って送還できるようになり次第送還することを約束する」と述べた。
NUGの態度変換には、国軍による市街地での大量殺戮を目の当たりにした経験によるところが大きかった。(もちろん国際社会からの支持を得るために、不人気なロヒンギャ政策を変更したという側面は否定できない)。ロヒンギャに限らず少数民族への国軍の残虐行為はずっと続いていたのだが、それは辺境地域での出来事であり、中央平原部やイラワジ・デルタに住む多数派ビルマ族にとっては遠い世界の出来事であった。しかし2・1以降、自分たちが同じ運命に見舞われて、ロヒンギャの悲惨な境遇や少数民族が武装闘争を展開することの意味を理解することがようやく可能となったといえる。
またスーチー政権は、何十年も続く内戦終結のため、父アウンサン将軍の衣鉢をついで「新パンロン会議」※を招集した。スーチー氏は、父アウンサン将軍と民主化運動の星たる自分の権威があれば、民族和解に向けた交渉が進むだろうと考えたのであろう。しかし事態はそれほど甘くはなかった。国軍が文民政府のコントロール下にないため、国軍の軍事作戦に歯止めをかけられなかったことのほか、スーチー=NLDに民族問題解決のための民主主義的な政治原則が欠けていたことが決定的な失敗の要因であると考える。アウンサン将軍はプラグマテチックな民族主義者だというのが一般的評価である。しかしかれは1930年代に学生運動家から民族独立運動家へと成長した政治家である。ビルマ共産党と民族主義政党タキン党の創立者の一人でもある。第一次大戦以後国際的に認知された民族自決の原則と、1930年代の国際的な反ファシズムの政治思想である「人民戦線 Le Front populaire」戦術に影響を受けなかったということはありえない。民族自決権はアメリカ大統領W.ウイルソンによって提唱され、国際的に承認され政治原則となるが、それ以前にロシアのレーニンらボリシェビキによって深化させられた。植民地支配からの独立の権利や、多民族国家内における少数民族の分離独立の自由の原則を定めたものである。ボリシェビキ政権成立後、中央アジアのカザフスタンはじめとするイスラム圏諸国がソ連邦に加盟したのも、またモンゴルやアフガニスタンがソ連邦をいち早く承認したのも、この原則の宣言によるところが大きかった。また逆にソ連邦が解体した時、いち早くイスラム諸国家が離脱・独立したのも、いかにスターリン主義ソ連邦では民族自決の原則が踏みにじられ、少数民族が抑圧されてきたかの証左でもある。
ミャンマー国軍は少数民族の「自治権」拡大にすら拒絶反応を示す。それを認めれば、国家主権は解体の憂き目に会うと恐怖している。国家主権と言いつつ、じつは国軍の領分が狭められることを危惧しているのである。まして国境地帯は地下資源の宝庫でもあり、その権益を失いたくないというのが本音であろう。しかしレーニンが述べたように、「離婚の自由」を認めることは、離婚を奨励することを意味しない。男女の自由な結合の保障のためにこそ、この権利は必要とされるのである。一般に民主的な国家ほど少数民族は求心化する傾向を示し、抑圧的な国家ほど遠心化するといわれている。たしかにユダヤ民族は、自らに抑圧的な国家においては結束し、被抑圧的な国家においては同化するという歴史があったと記憶する。
スーチー=NLD の民族問題の政策はあいまいで、悪しきプラグマティズムに終始してきた。ところがクーデタはそのようなあいまいな対処を許さなくなった。政治原則からというより、孤立化を避け、多数派を形成する実際の必要から少数民族組織と提携せざるをえなくなった。その結果期せずして、仏教徒ビルマ族を基盤とするNLDと有力な少数民族組織が提携し統一戦線を形成して、国軍を大衆的に包囲し、軍事的にはともかく政治的に無力化していくという本来の民主化闘争のかたちが出来上がりつつあるのである。クーデタがNLDの少数民族政策の限界を乗り越えさせつつあること、このことを政治的なテーゼとして宣言し確定する必要があるだろう。
※註「パンロン会議」ービルマが英国から独立する前年の1947年2月、シャン州のパンロンで開かれた会議。アウンサン将軍とカレン族やカチン族など主要少数民族の代表者が会談し、少数民族の自治権を認め、ともに多民族連邦国家を形成して独立することで合意し、協定を結んだ。この後アウンサン将軍が7月に暗殺されたため、約束は実質反故にされ、独立後すぐに内戦が始まった。
ロヒンギャ問題にしろ、少数民族問題にしろ、NUGの政策転換の意義は絶大であるが、しかし彼らの支持者である仏教徒ビルマ族の意識を変えるのは容易ではない。尊大なる大ビルマ主義意識への反省はまだまだ少数にとどまる。一貫して民主化の立場を貫いてきた「イラワジ」紙にすら、ロヒンギャに比較的同情を示すということで、多くのビルマ族は拒絶反応を示す。仏教徒であること、ビルマ族であること、このことが多くのミャンマー人のアイデンティティの中核をなしているがゆえに、妥協する余地を見出すのは難しいのである。国軍支配はなぜ続いたのかということの理由に、仏教徒ビルマ族という自己意識を国軍と一般国民が共有していることがあげられる。たとえばロヒンギャ民族の迫害において両者の利害意識は一致していたのである。NUGの一部の人々が、この点での民主化運動の弱点を自ら剔抉し、乗り越えようとしている意義ははかりしれない。だからこそ少数派や少数民族との実際の提携の経験を積み重ね、寛容という政治思想の啓蒙普及活動を粘り強く行なって、説得する必要があるのである。
<国軍はほんとうに強いのか―残虐さと強さとは別>
ミャンマー国軍は厚い秘密のベールに包まれていて、その実態に触れた書き物は少ない。私がヤンゴン在住時に日本商工会議所の役員会で、駐在武官から二度ほどレクチャーを受けたことがあるが、今振り返ると、日本政府はミャンマー国軍と独自のパイプを持っていると吹聴している割には、あまり国軍についての深い情報を持っているようには思えなかった。私の推測に過ぎないが、テインセイン政府以前には、国軍とのパイプといっても、国軍本体ではない秘密警察トップで首相も務めたキンニュン氏、ないしその系列である内務省官僚に限られていたのではないか。キンニュン氏は独裁者ネーウインの御稚児さんと呼ばれるほどの最側近であったので、ネーウインが自民党・右派勢力とのつながりが深かった跡を継いだのであろう。しかしそのキンニュン氏も2004年に失脚しているので、おそらく高官同士のパイプと言われるようなものはなかったのではなかろうか。国軍本体とのパイプは、テインセイン時代にいまや悪名高き「日本ミャンマー協会」の元郵政大臣渡辺秀央氏によって築かれた、ごくごく最近のものであろう。渡辺氏がティラワ経済特区の開発利権に絡んで、国軍指導部と太いパイプを築いたことは周知の事実である。蛇足ながら、ティラワ経済特区に進出した日本企業の存在は、日本政府にとって国軍に対し強い態度をとることを阻む人質のような存在と化しているのではなかろうか。つまりようやくつかんだ太いパイプがアダになって、外交的選択の幅を縮める結果になっているのではなかろうか。進出した日本企業にとっても、国民的な決起のなか、苦手のSDGsの根幹である「人権」への配慮が重圧となっているであろう。
本題に入ろう。ミャンマー国軍は40万から50万の兵力を有する東南アジアでもトップクラスの強力な軍隊だと言われている(総人口が5300万人)。この軍隊の内部事情に分析を加えた論評が最近イラワジ紙(9/13)に掲載された。筆者は前述したB・リントナー氏。氏はなんどか国軍と少数民族との戦闘場面に居合わせ、国軍の戦闘能力についても実体験しているそうである。氏の論述から、興味あるいくつかの論点をピックアップして紹介する。私が一番知りたかったのは、国軍の戦闘能力や士気がかなり落ちており、人民防衛軍が勝てないまでも負けない戦いを展開する余地がかなりあるのではないかという私の推測の当否についてであった。
リントナー氏によれば、国軍は1988年の国民的決起を境に変化したという。この決起から国軍指導部は、放置すれば不満を持った兵士たちが民主化運動に寝返り、自分たちの支配が終わるのではないかという怖れを持ったという。それで将校クラスの満足度を高めるために全力を注ぎつつ、それまで20万人以下だった陸海空三軍の規模を大幅に拡大し、かつまた装備を格段に近代化した。軍事政権は対NLD=国民と少数民族との両面作戦をさけるために、1990年代に少数民族武装組織との停戦協定を精力的に推し進めたという。
さらに1990年代からネーウインの社会主義政策を放棄し市場経済を導入することによって、将校たちは莫大なお金を稼ぐ機会に恵まれた。その結果、ある退役将校が語ったような事態が生まれたー「私が軍隊にいた頃の贅沢といえば、バドミントンセットと軍用ラム酒1本で、しかも私は大佐だった。今では、大尉や中尉でさえ、1台以上の車、数セットのゴルフクラブ、そして少なくとも2人の愛人を持っている。そして、彼らは戦わなくてもいいのです」
私が見聞した範囲でも、退役軍人である大臣副大臣クラスは、まず官舎に住まいながら、別に豪邸をヤンゴン市内に建て、外国人や華僑などに高額で賃借し、退職後はそこに住む。粗末な官舎に住むのは、同僚や外部の人々の嫉妬を避けるためでもある。そうして賄賂や親族名義の投資・投機で蓄財し、ビルを建てたり、コンドミニアムをいくつも購入して賃借したり、転がしたりするのである。私はある省の副大臣の奥方と話をしたことがある。私は、私の同僚であるM君の父親―高官とは言えないレベルの役人―がどういう不正を行なって蓄財したかを彼女がよく知っているのに驚いた。おそらく秘密警察とは別に、役人同士で監視し合って情報交換しているものと思われた。しかしそういう彼女の夫である副大臣は、退職する数年前にダウンタウンに8階建てのビルを建てたのである。実は副大臣、かつて軍人詩人として名を成した人で、その詩には「なぜかくも我が祖国は貧しくみすぼらしいのか」と、憂国の情を吐露していた。
しかし太平天国の軍人の夢は、2012年にカチン軍KIAとの大規模戦闘再開によって破られたという。「私は2012年12月にライザのKIA本部に行ったが、国軍のパフォーマンスの低さに驚かされた。当初、歩兵を投入したが、その歩兵は訓練を受けておらず、戦闘経験もゼロだった。前進する国軍の部隊がKIAゲリラに潰され、死傷者が非常に多かった。国軍は歩兵を撤退させ、ロシアから提供されたヘリコプターガンシップや攻撃機、KIAから遠く離れた基地から発射される重砲に頼らざるを得なくなったほどだ。当時のヤンゴンからの報告によると、カチン州への出動を避けるために賄賂を払った将校もいたという。これは、私が1980年代に見た国軍の姿ではない」
2・1以降少数民族組織との戦闘で、国軍は甚大な損害を被ってきた。最初私は少数民族側発表に誇張があるのではないかと疑ったが、実際写真や報告を吟味してみると負け戦が多いことも納得できた。市街地であれだけ残虐な弾圧を繰り広げていることを、国軍兵士は知らないはずはない。国軍内での上級と下級との待遇格差は天文学的である。せっせと賄賂を受け取り、蓄財にいそしむ上官の腐敗堕落にいかに鈍感な兵士といえども気づかぬはずはなかろう。これでは死地に赴かされる国軍兵士の士気が上がらないのは当たり前であろう。
リントナー氏は次のように結論付けている。
「ここ数十年で初めて、国軍内での分裂の可能性が指摘されている。NUGの情報によれば、2,000人以上の治安部隊員(ほとんどが警官だが、兵士もいる)が民主化運動に離反したという。クーデタ直後のカーニバルのようなデモは、警察や国軍が平和的なデモ参加者を殺害し始めたことで、まったく別のものになってしまった。そのような残忍さが抵抗を生み、それが現在のミャンマーの姿なのである。いずれにしても、未来がどうなろうとも、『対話』や、双方に暴力を控えるように促す無益な試みは忘れてほしいものである」
最後に、しかしである。この内戦の帰趨は、国軍内に亀裂が入り、統制に綻びが出るかどうかにかかっている。今のところ脱走将兵の最高位は、少佐クラスである。日本の駐在武官も言っていたが、国軍の力の要は、大佐クラスである。全国に展開されている国軍基地の主要幹部は大佐クラスであり、基地運営の実務と戦闘指揮の担い手は彼らである。彼らのうちから離反者が出てこない限り、まだ国軍の軍事的優勢は揺るがないであろう。しかし国際的な支援と政治的な優勢を勝ち取ることによって、国軍支配地域は点と線に縮小する。そうすれば、大佐クラスの離反も出てくる可能性があろう。昔の話であるが、私ごとき人間でも軍上層部のやり方に業を煮やして国軍を辞めた左官クラスや尉官クラスの人間を数名知っている。
<速報ースーチー氏のひとこと>
9/20付イラワジ紙によれば、ネット上でスーチー氏がNUGやPDF(人民防衛隊)の活動をテロ行為だと糾弾しているというニュースが流れたという。この発言はスーチー氏の弁護団を通じて発表されたとしているが、スーチー氏の弁護団は、これをフェイク・ニュースだとして直ちに否定した。9/20の公判前に弁護団がスーチー氏にこの件を伝えたところ、彼女は「人々はそれ(フェイク・ニュース)を信じているのですか」と尋ね、「私は人々を失望させたり、彼らの意思に反するような言葉は決して言いません」と答えたという。この言葉だけで、スーチー氏の気持ちが奈辺にあるかはお分かりであろう。スーチー氏は現在6つの容疑と、4つの汚職容疑で訴追され、75年の懲役刑に処せられる可能性があるという。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11314:210921〕