小林清親―光線画のパイオニア、あるいは、アレゴリーの名手

 板橋区立美術館で1988年に開催された「絵描きがとらえたシャッター・チャンス~日本のルポルタージュ・アート~」という展覧会の図録を現代哲学がご専門の宇波彰先生にお借りしたのは去年の今頃だった。その時、先生はこの展覧会の中で飾られていた小林清親の「両国大火」(図録に書かれた画題はこうであるが、1881年に描かれたこの作品の正確な画題は「浜町より寫両国大火 明治十四一月廿六日出火」であるようだ) という作品がとても印象深かったということをおっしゃられていた。私は清親の作品を散発的に見たことはあったが、ある程度まとまった形では見たことはなかったので、いつか、そうした機会があればと思っていた。先生が今年の一月に亡くなられ、この図録は今も私の家にある。ご家族の方から遺品としていただいたからである。多分それゆえに、この図録を見ているとどうしても小林清親の作品を複雑な思いで見てしまう。そんな彼の作品について何かを書きたいと思っていたが、雑事に追われ時が過ぎて行った。

 だが幸いなことに小規模ながらも、練馬区立美術館で「収蔵作品による小林清親【増補】サプリメント」という展覧会 (2015年に小林清親没後100周年記念にこの美術館で行われた彼の大規模な展覧会を補う形で行われたものであるために、このタイトルがつけられたという説明がフライヤーには書かれていた) が2021年11月23日から2022年1月30にまで開かれることを偶然知った私は、12月の初めの日曜の午後、展覧会場である美術館に向かった。

 この展覧会の作品数は全体で81点と少なく、清親が数多く描いた風刺画もなかったが、興味深いものであった。特に、「アラビアンナイト」に関する水彩画作品や写生帖は清親の写実力や作品制作過程という問題を考える上で貴重な資料であり、ここではこうした点も含めて彼の作品について論述していこうと思う。だがもちろん、清親の研究者でもなく、美術批評家でもない私がこのテクストの中で行う探究は、厳格に美術的側面に限定されたものでもなく、作家作品研究の枠内のものでもない。私はここで、思想的、記号学的側面を横断する探究アプローチ通して、清親の作品を見つめるつもりである。この横断性あるいは彼の作品を斜めから見る作業で重視したい視点は三つある。それは「光線画の中の小さな物語」、「ミクロロジーとアレゴリー」、「反権力の表現」という視点である。

光線画の中の小さな物語

 多くの本、画集などで、光線画のパイオニアという点が清親の美術史上に残る第一の功績として取り上げられている。この点に関して異論を挟もうとは思わないが、清親の光線画作品が提示している抒情性、都市性に対する今迄の考察に対して付け加えなければならない側面があるのではないかと私は以前から思っていた。それは次のセクションで詳しく論じるが、ミクロロジーとアレゴリーという側面から清親の作品が探究可能であるという点である。だが、この側面からの考察を行う前に、先ず、彼の光線画作品について詳しく見て行かなければならない。

 河出書房新社発行の傑作浮世絵コレクションシリーズの一冊である『小林清親 光と影をあやつる最後の浮世絵師』の中で、美術評論家の酒井忠康は「清親の「東京名所図」は、文明開化の東京を語るときに、かならずといっていいほど引き合いに出され、その光と影によって映し出された一連の風景版画はまた、“光線画„ と呼ばれて、大いに持て囃されたのである」(この名所図の版画は1876年から1892年に制作された) と書いている。また、この画集には「(…)「東京名所図」では、伝統的な浮世絵の技法を基礎にしながらも、西洋画の影響を受け、光と影がかもしだす独特の情緒を巧みに描き出し、浮世絵にはない斬新な感覚が盛り込まれた」という言葉も見出せる。この二つの指摘には光線画の持つ光と影を用いた新たな表現の歴史的意義が端的に示されているが、清親の光線画の特色に関して明確に語られていない。光線画は清親によって編み出された版画スタイルであるが、彼の後継者である井上安治や小倉柳村も数多くの作品を残している。それゆえ、清親の光線画の特質は何かという問題を明確に語る必要性があると考えられるのである。

 先程も名前を挙げた酒井忠康は『開化の浮世絵師 清親』の中で「(…) 圧倒的に清親を明治初期へのエキゾティシズムにつなぐ欲求は強い。この過渡期のぎこちない文明開化における姿の、詩情をたたえた数々の版画に、今日にいたるまで多くの人びとは郷愁を感じている」と述べている。それは過ぎ去った江戸を懐かしみ、近代化の波が打ち寄せた新都市東京への憧れに包まれた時代の風景に対する思いのことを語っていることは理解できるが、それだけでは清親の光線画を含む版画が何故あれ程までに庶民から支持され、更には今も尚多くの愛好家がいるのかという問いに対する核心的な理由を示していないように私には思われる。もちろん、今回の展覧会で見ることができる清親の水彩画や写生帖に描かれた絵が示す優れた描写力がなければ、民衆の支持は得られなかったであろう。だが、それだけではないのではないだろうか。

 酒井は上記した本の中で、何度も清親の作品の物語性について触れているが、これこそが彼の作品を語る上で最も中核的な問題であるように私には思われる。しかし、物語と言ってもその範疇は広い。ただ物語と言っただけでは余りにも抽象的である。この物語性に関してより厳密に述べるならば、それはアレゴリーであると述べることができる。アレゴリーとは大きな物語ではなく、小さな物語であり、大きな歴史の下で語られるものではなく、小さな歴史、すなわち、歴史の大きなうねりの中で忘れ去られていく名もなき小さな人々の物語である。清親の作品を語る上では、この小さな物語性が重要であると私は考えるのである。

 

ミクロロジーとアレゴリー

 ミクロロジーはヴァルター・ベンヤミンが重視した学的探究姿勢であり、この問題について、『カリガリからヒットラーまで』の翻訳に収められている「ヴァルター・ベンヤミンの著作について」の中で、ジークフリート・クラカウアーは「重大なことが小さなことであり、小さなことが重大なことであると証明するのが、常にかれの特別な関心事である。かれの直観の魔法の杖は、目立たぬもの、一般に無価値とされたもの、歴史によって踏み越えられたものの領域において効果を発揮し、他ならぬこの領域に最高の意味を持ったものを発見する」(平井正訳) という極めて核心的な指摘を行っている (宇波先生はこの問題を注目し、社会批評研究会のご発表の中で、小さなものの考察であるミクロロジーに「些少事学」という訳語を当てられていた)。小さなものの重視は歴史の多層性を暴き出すだけではなく、複数の小さなものの繋がりによって歴史が動くことを示している。

 アレゴリーはミクロロジーの中心的分析装置の一つである。クラカウアーは上記したテクストの中で、ベンヤミンの行ったバロック悲劇の探究に対して、「かれはバロック悲劇という荒地を無意味に散策しているのではなく、アレゴリーに、普通の見解では象徴に比べれば具わっていないほどの重味を負わせる。アレゴリーはベンヤミンの言う所では、(…) 古典古代の神々を救うものである。すなわち、この神々は中世キリスト教の敵対的な環境の中で、アレゴリーによって生き続けることができる」と述べている。クラカウアーはバロック悲劇に対するベンヤミンの主張をこのように的確に解釈しているが、アレゴリーが歴史の中で救済するものはバロック悲劇に限定されるものではない。例えば、明治初期の東京に生きた庶民の生活を映し出した清親の版画が示すアレゴリー性もまた、歴史の流れの中に消えていった小さな出来事を救い出すものであると私は確信している。

 「高輪牛町朧月景」(1879) という光線画を見てみよう。夜の闇が辺りを包む直前、海岸線を汽車が走っている。汽車の窓には朧げに小さく乗客の影が映っている。文明開化後間もない都市の一風景。汽車に乗っている小さな影として描写されている人々はそれぞれの人生の一場面としてそこにいる。それは明治という時代の大きな歴史を支えた小さな出来事であり、小さな物語である。また、今回の展覧会でも飾られていた「両国焼跡」(1891) という錦絵にも庶民の小さな歴史が描かれている。大火の後、多くの建築物が火災で失われ、だだっ広い空間が広がる両国。そこを行き交う小さな黒いシルウェット。ある人は家を失い知人を頼って何処かに向かい、ある人は行く当てもなくそこを彷徨しているのだろうか。そうした火事の後の庶民生活の一コマがそこには描写されている。こうしたアレゴリー性こそが酒井が語った詩情や郷愁をわれわれに呼び起こしているのではないだろうか。それゆえ、こうした小さな物語は明治の庶民が生きた歴史でもあるのだ。

 だが、小さなものに目を向けて、小さなものについて語ることは庶民の歴史を語るという役割を担っているだけではない。小さなものは大きなものの対極にあるものであるゆえに、また、小さなものが大きなものに対立するゆえに、反権力や反体制という意味との類縁性が提示される場合が多々存在する。清親の反権力、反体制の表現活動は、こうした小さなものを重視するアレゴリー性の中に潜在していたと私には思われるが、この点に関する詳しい検討は次のセクションで行うこととする。

 

反権力の表現

 明治初期の錦絵ブームや、光線画ブームが過ぎ去った後、清親は多くの風刺画を描いている。上記したように今回の展覧会には風刺画はなかったが、清親の芸術活動を考える上で、彼の風刺画の考察は欠くことのできない探究対象である。『小林清親/諷刺漫画』という画集の中で、漫画研究家の清水勲は諷刺画家の条件を二つ挙げている。一つ目は「(…) 生涯のかなりの期間を諷刺画を描くのに費やし、その作品がある程度人々に知られていなくてはならない。それは大衆にではなくてもよい。一部の人々に知られていることだけでも十分である」と述べ、二つ目は「(…) 最後まで自分の思想をまげずに死ぬか、筆を折った人でなくてはならない」と述べ、この条件に匹敵する近代日本で初めての画家が清親であると語っている。

 確かに、清親は清水の風刺画家の条件にぴったりと当てはまる画家である。清親は明治初期の錦絵ブームが過ぎ去った頃から、時局風刺週間雑誌である「団団珍問」(まるまるちんもん) に多くの風刺画を描いた。また、錦絵漫画「清親ポンチ」などにも風刺の精神は色濃く反映されている。こうした風刺画は「ジャパン・パンチ」を発刊したイギリス人のチャールズ・ワーグマンや、「トバエ」を発刊したフランス人のジョルジュ・ビゴーの影響の下に作られた。清親の娘である小林哥津は『最後の浮世絵師 小林清親』の中で、清親がワーグマンに洋画を習ったと書いているが、実証はされていない。だが、彼がこの二人の西洋人の風刺画スタイルに強く影響を受けたことは確かである (ビゴーは「団団珍問」にも作品を描いている)。

 風刺画とは何かという問題を一言で語ることは難しいが、そこにはアイロニー性があるだけではなく、アレゴリー性も内包されているのではないだろうか。清親の代表的な風刺画である「団団珍問」に掲載された「思想の積荷」(1886) と「足尾提出」(1892) を見てみよう。最初の作品は国会開設に向けての各社会階層の思惑が汽車に乗って国会へと向かう乗客の位置によって巧みに表現されている。開設に最も積極的なのが政党員で、一番前に座っており、以下、記者、議員、書生、百姓、僧侶、商人、官員、最後尾に華族が乗っている。この構図は当時の世相を反映したものであると考えられる。そこには、支配階級と被支配階級の対立だけではなく、被支配階級の代表であった農民がそれ程積極的に民主主義政治を支持した訳ではなかったといったことや、商人の自局中心主義などがアレゴリーによって的確に示されている。二番目の作品は足尾銅山を巡る公害問題を国会において弾劾した田中正造の発言を、足尾銅山を机の上に載せられた大きな足として、正造の激しい告発を、金槌を振り上げ、目を怒らせた彼の姿によって表現している。そこにはこの問題の大きさと、この問題を放置している政府を追及する田中の政治姿勢が衝撃力のある構図で描かれている。そこにあるアレゴリーはまさに権力者と戦う姿勢の見事な表現であると語ることができる。

 こうした風刺画には権力に屈さない清親の政治姿勢がはっきりと示されているが、そこにあるアレゴリー性は民衆的な視点から見た権力者批判であり、ジャーナリズムにおける権力者への抵抗意識の断固とした表明である。そして、こうした風刺画は知識階級に向け制作されたというのではなく、民衆に社会状況を一目で理解できるように、事件を強調し、デフォルメし、そして、アレゴリー化したものであるゆえに、庶民の時代精神形成に大きな役割を担ったと語ることができるのである。

 

 このテクストでここまで考察した三つの視点を最後にまとめあげたいと思うが、その前に、清親の描いた戦争画という新たな視点を導入した考察を行いたい。何故なら、清親は錦絵や光線画、諷刺画を描いただけではなく、戦争画も、歴史画も描いており、また、水彩画も多く残している。その中で、このテクストで探究した彼の作品の中にある些少事への眼差しとアレゴリー性とを更に深く考察するために、清親の戦争画作品を検討する必要があると私には思われるからである。清親の戦争画の特徴を明確化するために、彼の戦争画と同時代の戦争画との比較を行ってみよう。

 同時代の戦争画として、例えば、日清戦争を描いた多くの絵は右田年英の「向處無敵 平壌陥落」(1894) や歌川國虎の「威海衛敵艦沈没之図」(1894)に見られるように戦闘シーンの激しさを強調し、日本軍の勝利をドラスチックに描いている。清親にもこうした傾向の戦争画はあるが、「雨中砲撃図」(1894)、「田庄台攻撃占領之図」(1895) といった作品はこうした傾向とはまったく無縁である。前者の絵は雨の降りしきる中、後者は吹雪の中、敵を攻撃しようとする兵士が描写されているが、雨や雪が画面に強烈に描かれており、それゆえに戦う兵士の勇壮さはなく、重く暗い雰囲気に包まれている。特に、前者は夜の戦闘シーンであるため、重々しさや暗さが一層強調されている。先程提示した年英や國虎の絵にある大きな歴史に対する象徴性に比べて、清親のこれらの絵の持つアレゴリー性は悲劇的とも、日清戦争全体から見て、あまりにも小さな存在に目を向けて描かれた作品であると述べ得るものではないだろうか。これらの絵は権力者の目から見た戦争でも、民衆を扇動するためのプロパガンダ性を持つものでもない戦争画である。清親は強烈な反体制論者ではなかったが、戦争が悲劇であることも、戦争によって小さな庶民の小さな物語が消えていくことも知っていた画家であり、歴史の大きな渦の中で忘れ去られて行く小さな物語の意味を記した画家であったのである。

 今新たに考察した点も含めてこの論考全体のまとめを行っていこう。エマニュエル・レヴィナスは『固有名』の中にある「プルーストにおける他者」というテクストの中で、「現実は、数限りない想起を作っている。まさにこれらの想起から、現実は現実としての痛切さを引き出してくるのだ」(合田正人訳) という指摘を行っている。記号学者・言語学者・哲学者で、パリ第五大学で教えていたフレデリック・フランソワ名誉教授は講義の中で、意味という問題を考えた場合の想起の力について何度も語っていた (私の博士論文の指導教官であったフランソワ先生が一昨年亡くなられていたことを知ったのは、宇波先生の訃報を知って間もなくのことだった)。想起的意味は想起空間を開示する。言表連鎖の流れの中から浮かび上がってくる意味の問題として、想起的意味をフランソワ先生は語られていたが、記号学的観点からは、その意味が絵画、音楽といった他の記号体系に基づいた作品においても実現されることも指摘されていた。この想起的意味を絵画記号というレベルで考えた場合に、その意味を浮かび上がらせる一つの大きな表現方法がアレゴリーであると言うことができる。アレゴリーはその物語性ゆえに想起空間を必然的に開くからである。それも、その物語が小さなものであるゆえに、歴史の影の中で忘れ去られていった一光景が、些末な出来事が郷愁と共にイメージ展開される装置であるのだ。

 清親の作品にはこうした想起空間を開く小さなものの歴史が刻まれている。それゆえ、レヴィナスが先程挙げたテクストの中で語っている「軽率で気まぐれな現在時はみずからの根拠と土台を過去の諸作品うちに探し求める。かくして過去の諸作品は、完成したものであるにもかかわらず、その意味を変え、自己を一新し、生きたものと化す」という言葉は、清親の作品に対しても述べ得るものである。清親のアレゴリー世界はかつてそこにあったものを再現するだけではなく、消え去ろうとする小さな存在者の小さな生を物語として想起させる。それゆえ、彼の作品は過去への架け橋としての役割を担うだけではなく、新たなイメージの広がりをわれわれに贈るものとして目に写るものなのではないだろうか。ベンヤミンが語ったように、小さな物語こそが過去の歴史を救い出すものであるゆえに。

 私は「絵描きがとらえたシャッター・チャンス~日本のルポルタージュ・アート~」にある清親の両国大火の絵をもう一度よく見てみる。明治14年1月26日の大火の風景。子供の手を引いて火事から逃げて行く婦人、川辺に立って火事の様子を見る人、火事の方向を指さしながらそこに向かおうとしているのは火消しだろうか。この光景は記述された歴史ではなく、イメージを呼び覚ます歴史のワンシーンだ。私はこのシーンを見つめながら想起空間の中にゆっくりと入り込んで行った。