言葉は重層的な意味をもっている。しかも、時代や場所や局面によって変化する。なかなかに言葉の選択は難しい。
たとえば「国民」である。国家や権力に対峙する「国民」、主権者としての「国民」、基本的人権の主体としての「国民」と、安定した無難な言葉だと永く思っていた。ところがあるとき、「ことさらに日本国籍を持たない人々を排除した差別用語ではないか」と指摘されて考え込んだ。実は、それ以来ずっと考え込んで結論は出せないままである。
「国民」に代えて「市民」がふさわしい場合もあるが、権力との対峙のニュアンスが弱い。差別臭のない言葉としては「住民」だが地域的に限定される。「大衆」は好きな言葉だが、独特の手垢がついている。個人的には「民衆」や「庶民」を使うことが多いが、どうしても使える局面は限られるし、ニュアンスは軽くなる。
さて、本命は「人民」である。圧制に抗議し蜂起して隊列を組むのは、「人民」でなくてはならない。「人民」こそ、権力や資本や天皇制に対する批判者であり、批判的行動の主体である。さらに、人民こそは、国境や資本のくびきから解放された、人類的な普遍性を持ち、しかも差別とは無関係な人々の「集合」を意味する。
さはさりながら…、「人民」は余りに崇高で神聖な左翼用語として、消化しつくされたのではないか。「人民」という言葉は、いまや重すぎる言葉として、使える局面が極めて狭小になりつつある。「人民」という言葉の責任ではない。闘うべき「人民」が、闘うべき機会を逸して齢を経るうちに、廃用性機能障害を起こしてしまったのだ。状況が劇的に変化して、闘う主体とともに「人民」も復活することを期待したい。
朝日新聞(デジタル・1月9日)に、漢字の本場中国における「人民」の事情についての興味深い説明がある。(社説余滴)「「人民」って一体誰のこと?」という古谷浩一解説員の記事。要約すれば、以下のとおり。
私は1990年代の初めに中国の大学に留学して、中国語を学んだ。先生はとても立派な人だった。新疆出身のウイグル族の女性で、中国語専攻の20代の学者(のタマゴ)。母語と違って中国語を客観的に見つめる視座があったからだろう。漢族の先生が口にしないようなことも丁寧に教えてくれた。
例えば「人民」という単語。中国では反体制以外の人とか、「敵対勢力」ではない人といった意味を持つ。「では、私たちは人民でしょうか」と尋ねると、先生が困った顔をしていたのをよく覚えている。
こんな昔話をするのは、昨今の「中国式の民主」をめぐる議論で、中国が強調するのが国民や公民や市民ではなく、あくまで「人民の民主」という概念なのが気になったからだ。
習近平(シーチンピン)国家主席は昨年10月の演説で、「民主主義は飾り物ではなく、人民が解決を必要としている問題を解決するためのものである」と言っている。この解決すべき「問題」のなかに、新疆で迫害される少数民族の住民や、人権や表現の自由を求めて拘束された人たちが訴える「問題」はたぶん含まれないのだろう。なぜならば彼らは敵対勢力であり、「人民」ではないのだから。
敵と見なされた人々は封殺される。そして、それは「ごく少数をたたくのは大多数を守るため。独裁は民主の実現のため」(白書『中国の民主』)だと正当化されてしまう。
香港では立法会の選挙から民主派が排除された。それでも中国の高官が「民主的だ」と強弁するのは、敵を取り除いた選挙がまさに「人民の民主」の実現だからにほかならない。
なるほど、ところ変われば言葉も変わる。私は「人民」を、体制や権力と闘う志の高い人々を指す言葉と思っていた。しかし、習近平の用語法では「人民とは体制派」なのだ。しかも、「権力が特定の人々を除外し差別する」ために使われる「人民」なのだ。「人民」だけではない。中国共産党のいう、「民主」も「人権」も「自由」も「平和」も、そして「社会主義」も吟味を要する。一見言葉が同じようで、実はその意味が正反対ということもあるのだ。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2022.1.13より許可を得て転載
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