Ⅰ.2/12ユニオン・デー、パンロン協定75周年記念
ビルマが英国から独立する直前の1947年、当時のアウンサン将軍は、辺境地域を支配する諸少数民族と「連邦制国家」として独立することを合意内容とする「パンロン協定」を結んだ。それは少数民族支配地域の自治を認め、中央政府と対等平等の関係を築くことを盛り込んでいた。しかし同年7月、翌年1948年の独立達成前にアウンサン将軍が暗殺されたこともあり、協定は実質反古にされたため激しい内戦に突入、これが今日なお続いているのである。
2016年スーチー政権成立後、彼女のイニシアチブの下で「21世紀パンロン会議」が開催され、「全国規模の停戦合意」の構想にしたがって、全国停戦協定(NCA)が締結されたが、しかし2018年までに実際に署名したのは、武装組織の約半数にとどまった。しかもその間政府軍との軍事衝突は断続的に続き、スーチー政権のイニシアチブは失われ、協定は実質空文化しつつあった。2021年2月1日の国軍クーデタはそれにとどめをさすことになった。周知のとおり、その後反クーデタの民主派勢力とカレン民族同盟などが軍事提携し、内戦状態は再燃し拡大していっている。
その協定成立75周年にあたる本年、軍事政権は首都ネピードーで記念行事を催し、これに少数民族武装組織を招待して改めて和平交渉に向けた話し合いをしたいとの意向であった。また対外的に政権の正当性(正統性)をアピールするには、有力武闘組織の参加が不可欠であった。軍事政権の必死の工作の結果、国軍と激しい戦闘を行なっているカレン民族解放軍(KNLA)やアラカン軍(AA)すらもが代表を送ってきた。ただアラカン軍側は、出席の条件として囚われている配下の将兵たちの釈放を要求、政権はこれをのみ、かつラカイン州からネピードーまでの行き帰りの飛行機まで用意した。この10数年で急速に勢力を伸ばしたアラカン軍は、ラカイン州の北部を完全掌握、独自の行政機構もそなえていて国軍は手を出せないという(イラワジ紙2/15)。
それでも式典に参加したのは全体の半数でしかない11の少数民族武装組織で、しかも下級代表が多かった。旧ビルマ共産党の流れを汲み、少数民族最大の兵力を誇り、中国の強い影響下にある「ワ州連合軍」も連絡員のみの派遣であったし、翌日の協議会にも参加しなった。軍事政権としては、少数民族諸組織にくさびを打ち込み、彼らが統一した戦線を組むことを何としてでも阻止したい思惑があった。ほとんどの出席者はお義理と様子見だったのせよ、政権側はなんとか体面を保てたといってよいだろう。この出席状況、軍事政権と影の政府との力の拮抗状態の反映とみていいだろう。
最近内戦の行方について何人かの軍事専門家が発言している。一番新しいところでは、米国のミャンマー専門家がこのほど発表した論考で、「中部戦線で民主派が勝てば形勢が一変する可能性がある」(NNA2/14)という。中部戦線というのは、現在激戦地になっているサガイン管区やマンダレー管区、マグエ管区の中部乾燥地帯(ドライゾーン)等の戦闘地域をさす。じつは第2次大戦中インパール作戦敗北ののち、日本の特務機関の観測では、王都マンダレーが連合軍の手に落ちれば、ビルマ戦線全体が瓦解の危機にさらされるとしていたことが想い出される。しかしイラワジ川流域の平原地帯で勝利するには、遊撃戦だけでなく、正規戦を闘い抜ける部隊が不可欠である。兵員の徴募・訓練、補給兵站の構築、武器調達(例えば、携行式地対空ミサイル・スティンガーなど高性能兵器)などをバックアップする根拠地なしには不可能と思われる。したがってそういう軍事的決着は考えにくく、やはりどこかの時点で政治交渉が始まるのであろう。
Ⅱ.軍事政権に迎合する日本?
本年2月のアセアン外相会議からも締め出され、戦局もかんばしくない軍事政権は、政治的攻勢でなんとか局面を打開しようとしている。さる2月8日、軍事政権の外務省は、在ミャンマー各国大使館の外交官を集めてブリーフリングを行ない、現政権は軍事政権ではないと強弁したという。ワナマウンルイン「外相」は、「現在の政権は2008年憲法の規定により、臨時大統領が国軍司令官に対し全権を委譲して成立した合法的な政権である」と説明したという。たしかに2008年憲法では、大統領は緊急事態の際、緊急事態宣言を発令して国防治安評議会を招集し、そこでの協議
いかにも気乗り薄な出席者の態度。最前列右端は、丸山市郎駐ミャンマー日本大使。 khit thit media
を経て一時的に権限を国軍最高司令官に移譲できると規定している。しかし昨年2月1日に起こったことは、ウィンミン大統領が緊急事態宣言も国防治安評議会の招集も拒否したため、拘束され大統領の地位から引きずり降ろされたということであった。したがって既定の手続きで臨時大統領は選出されておらず、不法行為であることは歴然としている。しかしその程度のことは平気で行う軍事政権である。問題なのは、こうした一方的な軍事政権の説明会に日本大使がのこのこと出かけ、唯々諾々と説明を受けていることである。説明会に出席したのは3か国の大使のみ、欧米は欠席、アセアンも出席したのは書記官クラスだという。アウンサンスーチー氏と携帯でじかにビルマ語で話ができるという神話めいた触れ込みで抜擢された丸山大使、軍事政権の太鼓持ちのような役割を振られて、さぞかしわが身の不運を嘆いていることであろう。いずれにせよ、二股外交(twin-track approach)の見直しと政治的かつ経済的戦略の再構築が必要である。
Ⅲ.国連特使ノイリーン・ヘイザー博士の舌禍について
「ミャンマー軍事政権を無視し、今後の和平プロセスから外すことはできない・・・反体制派は、軍事政権との権力共有(分与)を考えるべきである」と発言して、大炎上したミャンマー国連特使ノイリーン・ヘイザー博士に対し、いまだ怨嗟の声がやまない。私もなんと愚かしい発言をと思ったが、よく調べてみるとこの方、シンガポール人の博士であり、国連事務次長や国連アジア太平洋経済社会委員会の事務局長などの要職を歴任し、ノーベル平和賞にもノミネートされたことがあるというではないか。ミャンマーとのかかわりでは、2008年5月のサイクロン「ナルギス」後の人道支援に絶大な貢献をした人物であるという。イラワジ・デルタを直撃し死者14万と推定された大災害時、国際的な緊急支援の受け入れにしぶる軍事政権を踏み切らせ、結果として何万、何十万人もの命を救った功績があるのである。
昨年10月、危機を騒ぎ立てるばかりであまり実効性ある働きをしないと低評価だったブルゲナー特使の後任に、おそらくグテーレス事務総長自らが白羽の矢を立てたのであろう。ソマリアやシリア、イラクのような「破綻国家」に転落する瀬戸際にあると判断して、ミャンマー危機解決の切り札的存在として送り込まれてきたのにちがいない。ところが常識で考えて絶対民主派勢力を怒らせること必定の言わずもがなの言を吐き、出足で躓いたのである。今後のミャンマー情勢の推移にも関わることなので、この問題少し考えてみる価値はありそうだ。
わたくしの推測であるが、ヘイザー博士の発言は、2010年前後にミャンマーの開国に関わった内外のリベラル派や国連筋の成功体験が仇になったのではないか。アメリカ型の制裁一本やりでは軍部独裁体制の扉はこじ開けられない。制裁は最貧国ミャンマーの貧困層(国民の40%)にダメージをあたえるだけで、長年閉鎖経済に慣れた軍部は耐え忍ぶことができる。したがって将軍たちの不安や憂慮も斟酌したうえで、彼らが乗ってこれそうな開国への道筋をつける必要性ある。そう考えていた折も折、体制側でも民主化のロードマップにしたがって独裁者が退陣し「民政移管」する方向で動き始めたのである。国際社会と軍事政権の歩み寄りの余地ができ、二十年余り凍結していた政治環境が緩み始めたのである。そのときの国際社会側のアクターのひとりが、ヘイザー博士だったのである。
ノイリーン・ヘイザー博士
2011年、総選挙によってテインセイン凖文民政権が成立、軍部独裁体制からの脱却が本格化しだした。以後、NLDの合法化とスーチー氏の再登場、検閲制度の撤廃と言論の自由などの民主化の歩みと、制裁解除の動きと外資の活動の活発化は、国軍内部の改革派の協力もあって実現できたものであった。国軍をいたずらに敵視せずに、政治改革には彼らにも利があることを納得させる努力が功を奏したのであった。とりわけヘイザー博士らが、独裁者タンシュエの信頼を勝ち得たことが大きかったといわれる。こうしてテインセイン政権初期の改革は、国際派と国内改革派の歯車が嚙み合って達成された。明らかにヘイザー博士らの確信は、この時期の成功体験に依るところが大きいと考える。逆に言うと、過去の成功体験に囚われるあまり、新しい政治闘争の条件に盲目となっているのではないか。
「権力の分有」は、実はスーチー政権そのものの性格であった。2008年憲法下でのハイブリッド政権において、国軍は国家の暴力装置―軍隊、警察―と司法機構を含む内務官僚組織を掌握し、議会にも30%近い議席占有を確保していた。NLDは議会では圧倒的多数ではあったが、その力が比例的に行政機構に伝導されるわけではなかった。まして利益を現実に生み出す経済の中枢は国軍系の二大コングロマリットが握り、木材や翡翠、金属鉱石などの採掘利権は、国軍系企業とクロニ―企業が山分けしていた。国営企業は非効率で何の利益も生まず、失業対策の意味しかなかった。
ヘイザー博士は、「権力の分有」という2008年憲法の枠組みを一方的に破壊したのは、ミンアウンフライン率いる国軍だということを忘れているようである。「権力の分有」を破壊された被害者である国民政党と民主派勢力の側に、「権力の分有」を説くというのはお門違いもはなはだしいであろう。それを説くべき相手は、まず国軍なのである。しかしことの次第からいって、この一年間をないものにして(1500人以上もの犠牲はどうしてくれる!)、1年前の分有状態にもどることはかなわない。戻るためには、混乱の原因をつくった人間に、大量虐殺を命じた人間に責任を取ってもらわなければならないのである。
ヘイザー博士にはやはり国連エスタブリッシュメントの一員であることの限界が見えてくる、と言っては言い過ぎであろうか。博士の事務所は、「特使は 権力分有を選択肢として提案したことはなく、2020年の選挙に反映されるような、国民の意思と二ーズを反映したミャンマー主導のプロセスを一貫して提唱してきた」 と言い繕いをしている。国民の意思とニーズがほんとうに分かっているのであろうか。多くの若者たちが、仲間の脳天がスイカ割でもされるように銃弾で容赦なく吹き飛ばされる光景を目にしてきた。そしてこうした場合に無力であることは罪であり、政治的には愚か者でしかないと悟ったのである。眼前の敵は通常の手段では倒すことができないことを思い知らされたのである。博士はまたこうも言ったという、「多くの若者、特に若い人たちが、政治の全面的な変革のために死ぬ気で戦っていることは知っています。・・・政治的変革にはプロセスが必要で、一朝一夕にできるものではありません。それゆえ私は彼らに死ぬためではなく、生きるための何かを持ってもらいたいのです」
やはり私は、若者の多くが武闘に踏み切った重さを理解していないのだと思う。「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もある」ではないが、武闘に踏み切ることによって、この国では多くのことが見えてきたのだ―たとえば、狂暴凶悪な国軍の意外なもろさ。国軍への恐怖から金縛り状態であった国民に、抵抗する勇気を与えたことに相違ない。そのさなかに、博士は武装解除を要求するに等しいことを言ってしまった。内容もさることながら、タイミングの悪さである。武闘に悲惨さしか見ないのは、エリート的なヒューマニズムの常である。もちろんそれも否定はしないが、だとすれば若者の死を防ぐために、アセアンの5項目合意にそって国軍の暴力を停止させるなど、国連代表としてまずなすべきことがあるだろうと思う。
Ⅳ.反軍民主主義革命の新たな挑戦
地元オンライン・メディアのMIZZIMA(1/28)によれば、1月27日に開催された第1回国家統一協議会(the National Unity Consultative Council NUCC)の会議において、参加の反軍民主派勢力がそれぞれの見解を示したという。詳細は割愛するが、それの共通する論旨は次のとおりである。
――革命勢力はナショナリズムを根絶してこそ、真の解放が達成できる。この革命の中で党派的・宗教的分裂の悪習を根絶してこそ、連邦民主主義国家と真の市民解放を達成できるであろう。
日本のような単一民族国家という思い込みのうちで生活できる国とはちがって、ミャンマーという国の複雑さは想像を絶するほどである。支族まで入れれば、百五十にもなる少数民族に分かれ、宗教的にも仏教、イスラム教、ヒンズー教、プロテスタント、カトリック、ナッ(精霊信仰)などがあり、人種にもビルマ系、タイ系、インド系(アーリア系、ドラビダ系)、中国系(雲南系、広東系、客家系、少数民族系等)などと、いくらでも微分化できる。こうした多様性・細分性を英国の植民地主義は分断線として固定化し、相互に反目させて支配を貫徹させてきた。そして独立後も60年に及ぶ軍部の支配体制は、同じようにこうした負の遺産を利用して長期支配を行ない、ミャンマーという国を近代統一国家とはほど遠いモザイク国家状態に貶め固定化してきた。
スーチー政権になっても、その状態に大きな変化はなく、民族的宗教的なマイノリティの諸権利への配慮は不十分なままにとどまり、仏教徒ビルマ族優位の政権運営は続いたといえる。そうしたなか、2017年8月に始まるロヒンギャ危機があぶり出したのは、スーチー政権の国軍との隠然たる共犯関係であった。民主主義や法の支配を掲げてはいるものの、実態は仏教徒ビルマ族中心主義という政治・社会・文化の全領域に及ぶヒエラルキーの枠内で、民主派勢力はもがいていた。しかしこうした状態にとどめを刺したのが、意外にも2・1クーデタであった。クーデタは、ロヒンギャも民主派勢力も、仏教もキリスト教も、なにもかも区別なくいっしょくたに法治の外に放り出したのである。ロヒンギャや少数民族が、国軍によってどのような迫害を受け苦しみ抜いていたのかを、多数派ビルマ族は反クーデタ抗議行動の中でみずから体験することになる。そしてその回心とさえいえる体験を通じて、レーシズムや異教徒迫害の不当性を自覚するようになる。多数派ビルマ仏教徒が、歴史上初めて自分たちの優越意識を反省的にとらえ、エスノナショナリズムを超える社会連帯に目覚めることになる。反クーデタの影の政府がみずからを「国民統一政府」と名乗る背景には、ミャンマーという国のいびつな成り立ちを自覚したうえで、国民的な統合をめざす政治的挑戦の意味が込められている。
先に述べた協議会で、ゼネラル・ストライキ委員会(GSC)のある幹部は、「古い悪しきイデオロギーの根絶なくして、真の解放はありえない」と述べ、また別の幹部は「長い軍部独裁の歴史と超民族主義により、真の国民統合は達成されておらず、国民の平等と自決という目標は遠のいていた。・・・あらゆる人種の人々の間に政治的な目覚めがあり、軍事クーデタ後に軍部独裁と超民族主義の危険性について皆が気づき、その後、我々の共通の目標が同じになった」と述べた。両者に共通するのは、ミャンマー国民を分断してきたエスノナショナリズム(少数民族ナショナリズム)の克服なくしては、国民的統一は達成できず、そうであれば軍事政権との闘いには勝利できないであろうということである。全国政治の舞台で、エスノナショナリズムにもとづくアイデンティティ政治の克服を正面から切り出したのは、おそらくこれが初めてではなかろうか。
しかしその一方で問題になるのは、フェデラリズム(連邦制)にもとづく近代民主国家に込められた、少数民族の政治的自治権・自決権の保障との兼ね合いである。ミャンマー北部カチン州の有力な少数民族武装勢力であるカチン独立軍(KIA)は、民主派の「国民統一政府(NUG)」に対し、1947年に結ばれた「パンロン協定」の履行と連邦国家の樹立を約束するよう改めて求めたという(NNA 2/16)。中央政府に裏切られた過去があるだけに、そう簡単に信用はできないという意思表示である。NUGには信頼回復という重い仕事が課されている。しかしそのためにも政治的な分離の自由や固有の言語・文化を少数民族に保障することと、狭隘なエスノナショナリズムを拝して国民的な意識統合を図ることとの折り合いをどうつけるかという問題が、改めてクローズ・アップされてくる。折り合いとは言うは易く行なうは難しである。今後とも軍事政権との闘いを通じて、着実にビルマ族と諸少数民族との相互信頼関係を築き上げつつ、その過程で国家統治におけるミャンマー独自の理念として、「連邦制民主国家」が結晶化してくることが望まれる。
Ⅴ.闘いの最前線に立つ人々(1)―女性たち
ミャンマー人には名字がない。このことから考えると、おそらくこの伝統社会には封建的な家父長制は存在しなかったと考えられるが、しかし極端な権威主義社会であることはまちがいない。そのなかでは女性の社会的地位が非常に低いことはだれしも気づくことである。たとえば、仏教徒ビルマ族にとって僧侶は絶対廷な存在である――上座部仏教、いわゆる小乗仏教は、最も伝統的で保守的な流派であるが、それだけに原始仏教の痕跡を残している。解脱の境地に達する可能性があるのは、彼らだけだとされているからである。しかし女性には出家をして僧侶になることは認められておらず、宗教的道徳的価値秩序において決定的なハンディキャップを生まれながらに背負うことになる。2008年憲法からして、言論・結社の自由を謳い、また民族、宗教、性別による差別を禁じてはいるものの、最後に但し書きをつけている。「男性のみが就くべき地位に男性を任命することを妨げてはならない」としているのだ。国軍系の政党USDPはもちろんのこと、スーチー氏のNLDにおいても女性の議員比率は、2016年時点で15%と低く、その後もほとんど改善はみられていない。スーチー氏がみずからイニシアチブを取って、若い女性たちの権利闘争を励ますようなこともまったくなかった。日本人には誤解があるようで、スーチー氏の政治スタイルとドラクロアの「自由の女神」像とはほとんど重ならない。
以下の内容は、ドイツ公共放送「ドイツの波」(2/1)が特集した記事「ミャンマーで最前線に立つ女性たち」に依っている。残念ながらに日本のジャーナリズムにはこうした切り口のルポルタージュは、最近はほとんどないと言っていい。差別についての社会的感受性や現場肉迫のジャーナリズム魂に欠けているせいであろうか。
地下の統一政府(NUG)は、NLD・スーチー政権の反省も踏まえて包括性を心がけている。包括性とは人事において偏りがなく、人種・民族・宗教の帰属にかかわらず、幅広く人材を登用することを意味する。その一例は、外務大臣に女性であるジンマーアウン氏を登用したことである。その背景には、反クーデタの抵抗運動を女性たちが支えていることがある。クーデタに対する最初の反対運動の一つである市民的不服従運動(CDM)は、病院から始まり、後に学校などにも広がっていった。もともと医療・教育関係の職場では、女性の比率が非常に高い。地元NGO「ジェンダー平等ネットワーク」は、CDMのリーダーの7〜8割が女性であると推定している。
2/17アセアン外相会議へメッセージ送るジンマーアウン外相 FB
また当初街頭での平和デモに参加したあと、3月以降凄惨な弾圧を受けて辺境地域に逃れ、過酷な軍事訓練を自ら進んで受ける女性も多かった。我々の目には、男性と同じ厳しい軍事訓練を課すのは悪平等だと映るが、それだけ若い女性ではとくに自分たちの地位向上への希求が強かったのであろう。私の経験の範囲でだが、1990年代、まっとうな家庭の娘は、午後7時以降は外出するものではないと厳しく躾けられていた。そういった保守的な空気を変えたのが、2010年代の「改革開放?」による自由の享受だったのだ。
2016年、私は6年ぶりにヤンゴンを訪れてびっくりしたのは、まちの様変わり―高層ビルや立体交差や車の大混雑、ではなかった。私はもともと新自由主義による都市開発=乱開発にはきわめて批判的であったからだ。びっくりしたのは、車に乗っていて目に入ってきた光景であった。午後8時ころ、ピー道路というメイン・ストリートの高架の下で若い男女たちが中腰で輪になってかたまっている。交通渋滞がひどいので車は動かない。それでかれらに何をしているのかと尋ねた。すると、ストリート・ボーイに勉強を教えているのだという。貧困家庭の子供たちの多くは、道路に出て花売りをする。あまり学校にも行かないのであろう。それで少年に代わって花売りのボランティアを青年が引き受け、その間の空いた時間にほかのボランティアが薄暗いなか勉強を教えるのだという。午後八時に若い女性たちが街頭にいることにも驚いたが、果敢にボランティア活動に勤しんでいる姿に感動するとともに、大きな変化が訪れようとしていることを確信したのだ。
以下、DWの記事をそのまま引用する。
「活動家のエスター・ゼ・ナウ・バムヴォと、現在地下政府の女性・青年・子ども担当副大臣で、当初は全国規模の抗議行動を組織するのに尽力したエイ・ティンザル・マウンが、2021年9月に米タイム誌の『その年最も影響力のある100人』に選出されている。カチン族のエスター・ゼ・ナウ・バムヴォとシャン族のエイ・ティンザル・マウンは、2月1日にミャンマーから自由を奪ったクーデタからわずか5日後、ヤンゴンで初めて反軍デモを行い、強さと名誉、正当な怒りの象徴となった」
武装闘争の第一線へ /新しい女性指導者 エスター・ゼ・ナウ・バムヴォと エイ・ティンザル・マウン DW
「女性同盟WLBのナウ・サー・サーが言うには、クーデタ以降何が変わったかといえば、女性たちのネットワークは大きく広がっていることだ。かつて軍に反対する運動を長年続けてきたのは主に少数民族地域の女性たちだったが、今ではビルマ中心部の多くの女性や女性組織もWLBと密接な交流を持つようになった。これらのことはすでに非常に良いことだが、まだ目標に到達していない。あらゆるレベルの意思決定に女性が参加できるようにしたい。とにかくクーデタ以降、村や市場でも女性に対する認識が変わってきていることは明らかだ。これまで男女共同参画や女性の権利、ジェンダー平等といった問題は、主にNGOや市民社会で議論されてきた。しかし、クーデタ以降、女性が積極的かつ目に見える形で活躍するようになり、こうした議論が広がってきた。草の根や市場では、女性は革命の一員であり、未来に対して発言権を持つべきだと語られている。しかし活動家がいちばん喜んでいるのは、現在NUGが起草中で、対政府だけでなく他のステークホルダー、特に少数民族を含む国家統一評議会(NUCC)と最近話し合っている連邦国家の憲法に男女平等をしっかり書き入れることができたことである」
なるほど実際は勇ましい話ばかりではない。不服従運動に参加して病院を首になったため、治安当局の目を怖れながら町の小さなクリニックを転々として露命をつなぐような生活をしている医師や看護師たち。テレビのキャスターを務めていたが、クーデタに憤って国境地帯に逃れ、アングラ放送のキャスターを務めてはいるものの、山岳地帯の寒さと不便さに苦しめられ、ヤンゴンの生活を夢に見るというキャリア・ウーマン。山中での軍事訓練に必死に耐え何とか終了したが、いざ戦う段になったら武器がなくてまた訓練地に舞い戻った話等々。しかし軍部独裁下、二重三重の差別に苦しんできたからこそ、ロヒンギャへの迫害や少数民族への無関心の誤りに女性たちはいち早く目覚めたのだ。自分たちより後の世代にこの国を貧困が蔓延し、腐敗堕落し暴力が横行する惨めな状態のままでは引き継がない、そういう決意を期せずして何百万人かの女性たちが行なったのである。いま世界を変えつつある巨大な意識が生成しつつある、と言っては言い過ぎになるであろうか。
<速報!>
本日(2/18)のNNAニュースによれば、アセアン外相会議の報道声明案に、和解を仲介する特使がミャンマー軍政の主張の正当化に加担することを容認しないとする一項を書き入れるとのことである。先のフンセン首相の独断専行を踏まえて、軍事政権へのアセアンの厳しい態度を鮮明にしたものとして歓迎できるであろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11766:220218〕