映画監督黒澤明の原爆・原発観について黒澤論・補遺として書いた(11年4月16日の当ブログ)。関東大震災における黒澤の体験も「補遺2」として書いておきたい。(註)
黒澤明が関東大震災を経験したのは中学2年生の時であった。家族と共に体験して書いた地震の恐怖体験を二つの視点から見ていきたい。一つは、「朝鮮人虐殺」に関する観察である。二つは、兄丙午と共にした「遠足」の体験である。
《「朝鮮人虐殺」にかかわる観察》
黒澤は、震災発生後に「髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指差して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往するのをこの目で見た」と書いている。また彼の父親が「ただ長い髭を生やしている」だけの理由で朝鮮人と間違われた時に、父親が「馬鹿者ッ!!」と一喝したら連中がコソコソと散っていったとも書いている。自警団の一員としての無意味な経験を述べた後に更にこう書いている。
▼もっと馬鹿馬鹿しい話がある。町内の、ある家の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だと云うのである。私は惘(あき)れ返った。何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書だったからである。私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。
「巨匠」は13歳の経験を次のように解釈している。
▼下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その闇に脅えた人達は、恐ろしいデマゴーグの俘虜(とりこ)になり、まさに暗闇の鉄砲、向う見ずな行動に出る。経験の無い人には、人間にとっての闇というものが、どれほど恐ろしいものか、想像もつくまいが、その恐怖は人間の正気を奪う。どっちを見ても何も見えない頼りなさは、人間を心の底からうろたえさせるのだ。文字通り、疑心暗鬼を生ずる状態にさせるのだ。関東大震災の時に起った、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である。
《兄との「恐ろしい遠足」》
火災が収まった頃に、兄丙午(へいご)から「明、焼跡を見に行こう」といわれる。浮き浮きした気持で出掛けた黒澤が観たものはたとえば次のような光景であった。
▼黒焦げの屍体も、半焼けの屍体も、どぶの中の屍体も、川に漂っている屍体、橋の上に折り重なっている屍体、四つ角を一面に埋めている屍体、そして、ありとあらゆる人間の死にざまを。私は見た。私が思わず眼をそむけると、兄は私を叱りつけた。
「明、よく見るんだ」
いやなものを、何故、むりやり見せるのか、私は兄の真意がよくわからず辛かった。/
兄はそれから、隅田川の橋を渡り、私を被服廠跡の広場へ連れていった。そこは、関東大震災で一番人の死んだ処である。見渡すかぎり死骸だった。そして、その死骸は、ところどころに折り重なって小さな山をつくっている。その死骸の山の一つの上に、座禅を組んだ黒焦げの、まるで仏像のような死骸があった。兄はそれをじっと見て、暫く動かなかった。そしてポツンと云った。
「立派だな」
私もそう思った。
/その恐ろしい遠足が終った夜、私は、眠れる筈はないし、眠ったにしても怖い夢を見るに違いない、と覚悟して寝床へ入った。しかし、枕に頭を載せたと思ったら、もう朝だった。それほど、よく眠ったし、怖い夢なんか一つも見なかった。あんまり不思議だから、その事を兄に話して、どういうわけか聞いてみた。兄は云った。
「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。よく見れば、怖いものなんかあるものか」
今にして思うと、あの遠足は、兄にも恐ろしい遠足だったのだ。恐ろしいからこそ、その恐ろしさを征服するための遠足だったのだ。
《『赤ひげ』の震災と『影武者』の死者》
黒澤明の震災体験は、空襲体験と重なり合って、『赤ひげ』の地震の場面や『影武者』のクライマックスによく投影されていると思う。前者にある「佐八(山崎努)」と「おなか(桑野みゆき)」の悲恋物語の地震の描写。後者のラストに至る死屍累々の場面がそれである。焼け跡の風景の多い『素晴らしき日曜日』、『酔いどれ天使』、『生きものの記録』、『まあただよ』などにもその影響や余韻が感じられる。兄丙午と弟明を、徳川夢声は「ネガとポジ」だと直感したが、『影武者』の無常観を漂わせる場面を見れば、そう簡単にはいえないと感ずる。死屍累々の場面を黒澤はそれまではこのように使うことはなかったからである。
(註)黒澤明『蝦蟇の油―自伝のようなもの』(岩波現代文庫、01年)による。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0548:110715〕