はじめに
中国の「市民社会」論とは、現存する「社会主義」の問題を考えるうえでの「理念型」(M・ウェーバー)的指標となっており、グローバルな視野での「市民社会の復権」として提起されている。いいかえれば、現代中国の「市民社会」をめぐる最終的な問いは、いかにして自由、民主主義、そして法治といった近代的規範性のともなう「普遍的価値」を創造(あるいは自己の内部に発見)し、それを中国独自の個別具体的な土壌に根付かせることができるのか、にある。さらに具体的にいえば、そこでは社会に自由と権利が十分に保障され、憲政民主が実行可能となり、それぞれの市民が平等に尊重されつつ、公平な分配を獲得できる制度のもとで自由で平等な市民のための政治共同体を築けるかどうかが問われている。だが、そのための前提作業として、そもそも「普遍的価値」とは何なのか、そしてそれを可能にした「近代」とは現代中国においていったい何を意味するのか、さらにその両者の関係はいかなるものであるのか、といったより根源的問題をそれぞれ問わなければならない。その基礎的作業として、ここでは現代中国における「市民社会」論を振り返りつつ、その根底にあるM.ウェーバーの「理念型」(Idealtypes)によって導かれた社会科学方法論を再検討する。
1.市民社会と「普遍的価値」
西側社会でCivil Societyとは、理論的概念でありながら、歴史的概念でもあり、世俗社会、文明社会、政治社会、公民社会など多くの現実的社会形態を含意している。だが、そもそも現代中国でいわれる「市民社会」とは、いったいどのような社会なのか。一種の理念なのか、それとも実体なのか。中国史上、それはすでに存在したのか否か。中国で市民社会は生まれ得るのか、それとも欧米の市民社会が中国に適用可能なのか。それはまったく存在していない土壌に中国外部から「移植」されるという性格のものなのか、あるいはすでに内部に存在している「萌芽」に対して外部からの刺激を与えてさらに発展していくものなのか、それともそのいずれでもないのか。これまで中国における「市民社会」論をリードしてきた、いわゆるリベラル派(改革派)知識人による理論的立脚点はきわめて明確である。すなわち、たしかに民主、自由、人権、憲政などの市民社会の概念が西洋の社会的経験と知的伝統から生まれたものであるとはいえ、それらがもともと地域、文化を超えた「普遍的価値」と意義を持つものであるがゆえに、仮にその援用に中国という国の特殊な事情を考慮すべきであるにしても、それは中国でも使えるというより、むしろ使うべきものであると彼らは考えるのである1。
とはいえ、中国にはリベラリズムを志向する市民社会の歴史的基礎と文化の伝統はこれまでのところほとんど存在しておらず、逆に中国の近現代史において実際に見られたのは、国家が社会をまるごと併呑していくという変遷のプロセスであり、改革開放後になってようやく自主的な社会的力が立ち上がってきたにすぎない。この意味で、「公民社会」は、「アジア的」(マルクス)コンテクストでは、「市民社会」よりも国家の機能(全体)を強調する傾向があるため、国家だけが行使できる「現実的」政治権力によって、諸個人を自律的な「市民」でも「公民」でもなく、国家に従属的な「臣民」の地位に押し戻す契機をあわせ持っているといえる。いいかえれば、この「公民社会」と「市民社会」という二つの言葉が並存しているという中国の特殊な事情そのものが、東アジアにおいて市民社会を論じることの難しさを象徴的に示しているともいえる。こうした基本的視座を踏まえつつ、現代中国における市民社会を論じることが、その有用性について考えるうえでの重要な鍵になることはいうまでもない。そのための価値判断基準となるものこそ、一定の規範性をともなった「普遍的価値」(「普世価値」)なのである。
2.中国における「市民社会」論の展開
1990年代に入ると、たしかに中国の「市民社会」論者は理論上の分析を通じ、解釈モデルとしての「市民社会」の意義を認識するようになっていた。だが、研究モデルとしての訴求そのものは、当時、わずかに理論上の主張、あるいはこれまでの解釈モデルの延長線上にとどまるのみであった。中国の学術界が「市民社会」理論を導入したのは、この分野での研究を最初にリードした鄧正来・景躍進による「中国の市民社会を構築する」(1992年)と題された論文の発表以降のことであり、これを契機に、この概念と理論が急速に広まっていくこととなる。ここでは新たな研究モデル、すなわち、「市民社会と国家」という相互作用の関係性をめぐる研究に基づき、中国の近代化プロセスにおける国家―社会間の相互作用についての規範的解釈や分析が進められていった。だが、一部の研究が中国社会の転換過程について言及していたとはいえ、そうした研究は当初、西側の市民社会モデルに準拠して、中国社会の歴史に西洋との類似点の発見を期待するか、あるいは西欧近代市民社会モデルを規範として、これに適合しない現象を批判するだけであった。この方向性での焦点が中国と西洋との差異に向けられているものの、それは西側が市民社会発展のためにたどってきた道を中国が近代化に向かう唯一のルートと定めるものであった。
ところが、こうした努力は、この研究過程において往々にして二つの誤った方向へと導いていく。その一つは、理論モデルを研究の出発点にすることで、最終的には中国の歴史と現状において一部の既存モデルに合致した前提的事実だけを参照点にしてしまうことである。その二つ目は、このルートもしくは既存モデルに基づくと、中国の多元的かつ多層的歴史から一部のみを切り取り、本来なら二面的に解読または解釈できる経験的材料についても、一方的解読または批判しかできなくなるということであった。しかしながら、このような解釈モデルとしての市民社会をたんにモデル上の議論、および単純な併用の次元にとどめておくことは、結果的には中国の近代化プロセスにおいて、この解釈モデルの有効性を証明できなくなるばかりか、それを議論の対象として検討すること自体、少なからず困難にさせることになった2。
鄧正来によれば、中国の論者がこうした解釈モデルとしての「市民社会」を強調することは、一つにはそれが打ち建てる実体的対象の軽視につながり、あるいはその中に存在するさまざまな問題を覆い隠したり、無視することにつながりかねない。そのことは、中国の近代化プロセスにおける国家―社会間のさまざまな相互作用の関係、およびその関係性の具体的変化に対して詳しい分析や研究がなされていないことを意味している。それは一部の「市民社会」論者が、中国における実体としての「市民社会」の構築をめぐる諸問題を簡略化していようと、そのために一部の研究者がこの分野の研究に懐疑と異議を持っていようと、いずれもより深い次元で問題の検討を疎かにしてきたということである。いいかえれば、中国の論者を支配する、中国の発展をめぐる方法論としての「市民社会」の建設に当たって依拠する基本的思考の枠組みと、そこに隠された前提に対する検討がないがしろにされてきたということを意味する。中国国内の論者は、「市民社会」を打ち建てる道筋の選択について、「近代化の枠組み」(近代化理論)とそれが持つ全ての前提からの影響を著しく受けている。だが、それはつまるところ、中国の「市民社会」論者がなおも「西洋の発展」という経験を通して自由経済の基礎の上に「市民社会」を打ち建て、その「市民社会」の基礎の上に政治的民主化の実現を見通しているということになる。この認識を中国の近代化発展過程に投影することは、西洋において実現した近代化の道筋が、いわば「普遍的妥当性(有効性)」を持つという前提を強く含意していたのはいうまでもない3。
この研究分野における具体的問題として鄧正来は、次のような五つのポイントを指摘している。その第一が、中国の論者の「市民社会」の道に対する選択は基本的には典型的西洋型の道であり、中国のローカルな経験と知識に基づいてはおらず、西側において政治的近代化を実現した方法論の「普遍的妥当性(有効性)」に関する認識に端を発しているということである。こうした前提的認識は、具体的研究の面において、西洋の制度、構造、そしてそれを中国にそのまま「移植」する可能性について何らの疑問も反映していない。第二が、市民社会は政治的近代化の必要条件ではあるが十分条件ではないということである。中国国内の論者の脳裏には、西洋型市民社会の成功経験が深く刻み込まれているために、彼らの研究にはこの問題はたんに象徴的にしか論じられないというケースが多く見られる。さらに一部の西側の国家がなぜ、市民社会を打ち建てながら政治的近代化には成功していないのかという複雑な現象に対する分析が疎かになっている。第三が、具体的研究において、中国の論者は往々にして、中国の現実的経験と近代市民社会の概念を安易に比較してしまうのだが、その結果、中国がたどってきた複雑な発展の経験の中で西側の定義に合致するものだけが拡大解釈されてしまい、そのために中国の発展において実質的に意味のある経験が軽視される傾向にあることである。第四が、中国の「市民社会」論者は、国内の市場経済に対する具体的分析を軽んじており、西洋の市場経済との差異によって、中国の「市民社会」の問題が近代市民社会とは異なる問題に発展していく可能性について十分な議論を尽くしていないことである。第五が、一部中国の「市民社会」研究に対する批判はあるが、そうした批判や議論が依拠する基準の大部分が、西側の論者による「市民社会」観や近代市民社会の経験だということである。このことは「市民社会」を中国に建設するための基準が実際のところ、西洋型市民社会を中国に打ち建てることの困難さを意味している。とはいえ鄧正来は、こうした困難さはたんに一時的なもので、最終的には克服可能であり、それさえ達成できれば、中国は西洋を内部に包摂した「普遍的」意味での市民社会を打ち建てることができ、さらに政治的近代化も実現できると主張している4。
3.現代中国における「公民社会」と「市民社会」
こうした中国の「市民社会」論のなかで、「社会主義法治国家の確立」という戦略と「公民社会」とを結びつけたのが「社会主義市民社会」論である。それは中国の社会構造に対して市場経済体制が新たな社会主義市民社会の出現にもっとも大きな影響を及ぼしていった。だが、天安門事件(1989年)以降、中国の自立した政治領域が逆に党=国家によって閉鎖されていったことを鑑みれば、この「市民社会」論は毛沢東主義のように使い古された政治概念でみずからを納得させ、国民を欺くようなことになりはしないのか。為政者が現実の変化に即応して中国を「公民社会」に導くことができるかどうかは、共産党がみずからの延命のためだけに働くのか、それとも人民のために汗を流すのかの重要な試金石となっている。これらの議論の背景には少なからず国家イデオロギー的傾向が横たわっているとはいえ、「社会主義市民社会」論は中国の研究者たちが自国の現実に合わせて中国独自の「市民社会(公民社会)」理論を構築するという努力そのものを反映している。
たとえば、蒋慶を中心に提起された「市民社会」論によれば、中国の5000年に及ぶ歴史・文化的な背景からいって、中国において西側のいう「市民社会」を構築するというのは不可能なことである。さらに「市民社会」とは西側の社会制度および価値観念なのだから、中国文化の本来的な原則、すなわち中華民族の精神や生命に関わる自主性の原則からいっても、自らを放棄して、西側の社会制度および価値観に移入するようなことをすべきではない。それゆえに、中国における「市民社会」の構築とは、むしろ中国独自の「市民社会」を構築するということであり、しかもそれは必ずや中国の歴史文化の伝統という基礎のうえに構築しなければいけないというのである5。
しかるに問題は、この中国の独自なる「市民社会」が、はたして鄧正来らが提起したような、「普遍的妥当性(有効性)」に基づく「近代的」規範性をともなっているのかどうかという点にある。仮にこうした「普遍的価値」そのものが実体概念の先行した西側の論理であるにすぎないと拒否したのであれば、それは「市民社会」の存在理由の根拠としている内在的規範性をすでにして換骨奪胎しているといわざるを得ない。実際、陳明は、中国の「民族」や「国家」を高く評価しつつ、中国独自の正当性を有した「民族」や「国家」が、現代的権利意識、公民意識、法律意識など、中国的コンテクストでの「自由民主主義」によって強調される「現代(モダニティ)」的価値を内包していると主張している。しかも陳は、「社会主義市民社会」の根底にある「公民宗教」(R・N・ベラー)には「近代的」規範性がないことを率直に認めつつ、共通認識、共同善といった「社会文化体の間の最大公約数」を最終基準として求めている。しかもここで国家は、天地に立つべき究極的価値、すなわち信仰に根ざした「公民宗教」としての儒教を、いわば自ら存立するための国家イデオロギーとして正当化している。たしかに、「社会主義市民社会」と民主、法治プロセスの実現と推進にとって、それは現実的意義を有しているのかもしれない。だが、たとえば毛沢東時代、儒教が一種の逸脱した密教として現実的に機能していたのだとすれば、そのイデオロギーを駆使した大衆路線を中国の現実に適合させればさせるほど、諸個人が全体主義的に均一化された「人民社会」へと後退させるロジックとして機能することにもなりかねないであろう。その意味で、汪暉の「システムを越えた公民社会」論が主張するような、儒教をマルクス・レーニン主義とならぶイデオロギーとして重視する立場も、「社会主義市民社会」と同じジレンマを抱えているといわざるを得ない6。
4.「理念型」としての「近代」と「普遍性」
近代的「普遍性」の概念をめぐっては、かつて国内の中国研究学界で激しい論争が巻き起こったことがある。それはかつて劉暁波が植民地化をめぐり、一つの市場と市場文化が閉鎖した知識を打開し、人権・平等・民主・競争が国際的自由競争をもたらしたとしたのに対して、「全面的西洋化と同じであり、欧米に対する見方が甘い」(坂元ひろ子)と批判したことにそもそもの端を発している7。だが、たとえば「08憲章」で劉暁波が基本的に主張したのは、フランス革命以降のヨーロッパ近代市民社会を基礎付けている自由・平等・博愛といった「普遍的」価値を中国においても根付かせたい、ということだけである。たしかに、それが「近代」ヨーロッパに生まれたものであること自体は事実であるにせよ、それは多かれ少なかれ、人類の遺産として継承すべき「普遍的」なものであることに、何ら疑うべき余地はない。では、こうした中国か、西洋かという「二元論」を克服するにはいったいどうすべきなのか。
M.ウェーバーは「理念型」としての「普遍性」という概念を提起しているが、そこで前提としているのは、以下のようなことがらである。すなわち彼は、その論文『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(1904年)において、「存在」と「当為」の峻別を説いている。たしかに、ここで「存在」は「当為」から切り離されるべきであるとはいえ、「科学知」と「価値判断」を行う認識主体(=主観性)という二つの領域は、実際の社会科学の学知においては、その都度、価値判断を下す主体において統合されなければならないという。
そこで提起されたのが「理念型」である。ウェーバーによれば、「理念型は、ひとつの思想像であって、この思想像は、そのまま歴史的実在であるのでもなければ、まして本来の実在であるわけでもなく、いわんや実在が類例として編入されるべき、ひとつの図式として役立つものでもない。理念型はむしろ、純然たる理想上の極限概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この極限概念を規準として、実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を、明瞭に浮き彫りにするのである。こうした概念は、現実に依拠して訓練されたわれわれの想像力が適合的と判定する、客観的可能性の範疇(カテゴリー)を用いて、われわれが連関として構成する思想形象にほかならない」8。
この定義との関連でいえば、「理念型」としての「普遍性」とは、かりにそれが「理念上の極限概念」であったとしても、純粋概念的に構成された非実在としての一つの「規準」概念であり、それに「編入」されるべきものでも、そこに到達されるべき「理想型」でもなく、単にそこで構成された「理念型」との「比較」によって、実在との「距離」を浮き彫りにして、「測定」するという方法概念であるにすぎない。いいかえれば、「普遍性」なるものとは、いわばある種の実体概念として、すでにどこかに「客観的」に存在しており、人々の努力によってそこへと最終的に到達されるべきであるといった、目的論的性格のものではけっしてない。つまり、それは実現されるべき「当為」でもなければ、現にそこにある「存在」そのものでもなく、認識主体である自己の内部において形成された「理念型」との「比較」において、その「主観的」な価値判断との連関で、その都度、策出的(heuristisch)に発見されるのが、ここでいう「普遍性」概念なのである。
こうした第3のメタレベルでの立場から見れば、たとえば、「近代」という概念も、本来、到達されるべき理想としての「欧米近代」のことを指すものでもなければ、個別の国々や地域の「近代」を意味するものでもなく、逆にアメリカの「近代」も、フランスの「近代」も、中国の「近代」も、この「普遍性」概念の下では等しく相対化されることとなる。それゆえに、たとえば、この「普遍性」概念の下で構成された理念型としての「近代」とは、本来、個別具体的な実在としての「近代」のあり方・形態・逸脱行為を批判する上での、一定の規範性を帯びるものである。
たとえば、劉暁波を批判・攻撃する数少ない手段の一つとして、ノーベル平和賞そのものの政治的意味に疑問を投げかけるという手法が繰り返し採られてきた9。しかし、これらはいずれも、西側社会と中国社会という「二元論」の陥穽に完全に足を掬われた誤った認識である。すなわち、ノーベル平和賞という「近代」システムのもつ価値そのものが、欧米か中国か(あれか、これか)という「二元論」に拠って立つ限り、そこで問われるのも「欧米流の」「普遍性」概念だけとなり、その「授賞基準が普遍性に基づいているという考えは、まったくの幻想としか言いようがない」(代田智明)と、単なる断罪の対象でしかなくなってしまうのである10。だが、このことは、「幻想」であると決め付ける自らを反省的にはとらえられず、その立ち位置を「普遍的妥当性」としては自覚できないでいることを自ら顕わにするものである。なぜなら、代田はここで「普遍性」概念を「西洋的価値」そのものと無前提で同一化してしまっており、しかもその立場から「西洋的価値」を批判する際に、正当なる規範的根拠を持たないまま、その「主観性」を絶対的価値判断基準にしてしまっているからである。だが、折原浩が指摘するように、「文化理想にかんする経験科学的分析の普遍妥当性を性急に否定すれば、たとえば『真にオリエンタルなものはなにか』を知ろうと欲する欧米人にも妥当するように論証することではなく、ただ欧米知識人における『オリエンタリズム』をあばくだけの欧米中心主義の不毛な裏返し(いわばオクシデンタリズム』)に陥る」だけであろう11。ところが実際には、「理念型」としての「普遍性」概念の下では、それぞれの受賞ケースが「相対化」という個別の審査に晒されることとなる。この同じ「相対化」という作業のプロセスにおいて、佐藤栄作やオバマの受賞に疑義を呈することはもちろん可能である。だが、これまでの歴代受賞者の中でも、たとえば、公民権運動のキング敦師、旧ソ連の反体制知識人アンドレイ・サハロフ、ポーランド連帯のワレサ議長、ミャンマーの民主化運動の旗手、アウンサンスーチーなども、すべて佐藤栄作やオバマのケースと同じように、その受賞を一括して無価値であるかのように扱えるのかといえば、恐らくそれは不可能かつ無意味なことであろう。つまり、ここで問われているのも、「欧米中心」の「普遍性」のことではなく、それすらも相対化される、いわば最終審級のもとで「主観的」なものとして下される価値判断に導いていくための「理念型」としての「普遍性」概念であり、その個別具体的ケースに対するメタレベルでの適用のあり方なのである。同じことはまた、「近代」という言葉のもつ「理念型」としての意味内容に対してもそのまま当てはまることはいうまでもない。
5.戦前・戦中におけるM.ウェーバー研究とアジア
こうしたM.ウェーバーの社会科学方法論とアジア社会論を結びつける研究は、日本においてすでに長い歴史的背景をもっている。たとえば、戦後におけるウェーバー研究は、おもに経済学(経済史)や社会学(理論社会学)を中心として発展していったが、戦前・戦中においては、むしろ政治学(アジア社会論)、歴史学が先陣を切って進められた。丸山真男によれば、戦時期におけるウェーバー研究は、とりわけ日中戦争勃発前後から、(1)東洋社会の基礎構造、社会的・経済的構造を「東洋的専制」との関連において取り上げ、(2)ヨーロッパ資本主義を支える経済倫理、あるいはエートスをめぐるウェーバーの概念装置を用いながら、日本または日本が占領した地域における東洋人の経済倫理を問題にするという二つの方向をとっていった12。この二つの動向に共通しているのは、東洋学や東洋の専門学者以外のところから、すなわち、経済学や社会学・西洋史などの領域で活躍していた研究者によるアジア研究がなされるようになり、それとの関連でウェーバーのアジア社会論が着目されたということである。たとえば、羽仁五郎「東洋における資本主義の形成」(1932年)は、当時のマルクス主義者、とくにウィットフォーゲルを中心にさかんに論議されたアジア的生産様式論との関連で書かれている。アジア的生産様式論は、その後、おもにウィットフォーゲルによる一連の中国研究の線に沿って進められ、それを通じてウェーバーへの関心が呼びおこされていく。丸山によれば、ウェーバーの「森の文化」対「治水文化」という対比によって、ウィットフォーゲルがウェーバーの研究から大きな影響を受けていたため、それを媒介にして、ウェーバーの中国論が着目されるようになっていった。だが、これに対して羽仁は、ウィットフォーゲルを媒介せずに『宗教社会学』に示された儒教と道教、あるいはヒンズー教の研究に直接着目し、とくに氏族共同体への問題関心からウェーバーに言及していく。というのも、ウィットフォーゲルに依拠したアジア社会論の支配的潮流は、やがて東亜協同体や東亜新秩序の現実政治と密接に関連しているアポロジーへと流れていったからである。つまり、こうしたウェーバー論は、当時の東洋学者によるアジア社会論に対する一つのアンチテーゼとして機能していたということである。ここで特定社会をめぐる「特殊性」の把握は、歴史学の具体的個別化だけでは達成することができず、ウェーバーのいう「思惟的整序」(denkende Ordnung der empirichen Wirklichkeit)による体系化を通してはじめて可能になる。ここで見られるのは、ウェーバー研究を実際のアジア研究に適用した際に生じてくる「個別性(特殊性)」と「普遍性」という二律背反的両義性をめぐる問題である。丸山はいう。
「当時、さかんに唱えられた東洋社会の特殊的・具体的認識とか、アジアの歴史的体験に立てとか、ヨーロッパ的公式主義から離脱せよとかいった主張にたいして、東洋研究における歴史の社会学としての意義を強調し、その意味での科学のユニヴァーサリズムを擁護するという問題意識が、ヴェーバーの東洋研究の個々の成果への着目とならんで、むしろその底流に作用していると思われます。「支那社会に歴史的特殊的な諸事象の虜となって、その意義及び規定を一般的用語で表現しない人々」といったような表現で、当時の東洋研究のある種の傾向を批判するわけです。(・・・)ヴェーバーを研究対象とすることは、社会学の領域においては、いわば自然的傾向であります。けれども、この社会学の領域におきましても、科学を現実化せよ、実践的科学たらしめよ、という有形無形の圧力の増大にたいして、ヴェーバー研究がいまや研究者の主体的な姿勢、自分の位置の自覚と結びつけてなされざるをえなくなってきた特殊の自覚をもって論じられるようになった、という点が興味があると思います」13。
このように、丸山にとっては、アジア社会のもつ歴史的「特殊性」を無前提に擁護することなく、「科学」としての「普遍主義」が、研究者自身の主体的かつ反省的価値評価(判断)と深く結びついていることに大きな意義がある。いいかえれば、アジア社会の「特殊性」が当時からすでにアジア研究では専門家によって不当なまでに重視されていたのに対して、この分野の研究に新たな展開をもたらすべきものは、ただ限られた「アジア学」にのみ沈潜しているアジアの専門学ではなく、むしろアジア社会の中に「世界史的問題」を見出すといった「普遍的価値」を内包した「科学」でなければならないということである。それはいわば、アジア社会論という個別具体性との関連付けによる、ウェーバーの社会科学方法論を媒介とする「普遍性」概念の再発見である。なぜなら丸山にとって「普遍性」とは、日本やアジアの外側(欧米)にあるものではなく、「特殊」の外部にあるものでもなければ、「特殊」を追求して「普遍」に至るのでもなく、つねに「特殊」と「重なり合って」いるものだからである14。
しかも、その知的作業は、それまでしばしば切り離され、別々に考察されてきたウェーバーの「理念型の理論」と「没価値性の理論」(価値自由論)が、本来的には統一的に理解すべきものであることを承認する過程において進められていった15。丸山にとって、社会科学における「価値自由」とは、あくまでも「事実」としてではなく、「方法」として要求されるものであり、「主観的」であるがゆえにこそ「客観的」であり得るというパラドックスのなかで、「科学」と「信仰」との間に厳格なる一線を引くことを意味していた16。それはアジア社会への「対象的研究」としてよりも、むしろ研究者としての自らの態度を戦時下の状況のなかで位置づけるという、目的意識的「主体的研究」として強く意識されていったのである。M.ウェーバーのいわゆる「ザッヘ」に仕えるというのは、「体をはった」道徳主義やロマン的な「歴史的体験主義」に対して批判的立場を貫くことでもある。というのも、現実の状況のなかで日々決断する人間という側面が脱落すれば、「客観性」と「没価値的認識」の要請はとめどないデカダンスへと転落しかねないからである。だが、そうした傾向への反動として、いわゆる「実践的」もしくは「直観的」主体性が対象の厳密な概念的構成の意味への反省ぬきに高唱されれば、それは「政治的現実」に押し流されるか、「感傷的道徳主義」に堕してしまうことになる17。したがって、丸山にとってこうした二律背反の緊張関係に耐える研究主体こそが、戦前のウェーバー像、あるいはウェーバー研究におけるアポリアから不断に学ぶべき、戦後における「科学としての政治学」という新たな課題につながっていったのである。
6.アジア社会におけるコミュニズムと近代
では、こうした「普遍性」概念を中国(あるいはアジア)社会との具体的な関連性で理解するうえで、戦前・戦中のウェーバー研究は戦後政治学に対していかなる有意性をもったのか。丸山は「ある自由主義者への手紙」(1950 年)において、共産主義と欧米的民主主義の対抗という図式で現代日本の政治状況を理解する際の一種の「公式性」に言及している。ここで丸山は、人間の行動様式と民主化をめぐる政治的ダイナミックスを分析の中心課題として、とくに大衆的規模における「自主的人間の確立」が西欧社会と比べて相対的に「左」の集団の推進力を通じて進行するというパラドックスについて明らかにした。ここでいわれる「民主化」とは、基本的には「西欧的」、かつ「市民的」なものであって、けっして「ソ連的」なものではなく、むしろ行動様式やモラル(人間関係)におけるさまざまな「前近代的」共同体をめぐる規制からの解放を課題としている。それは民主主義の西欧的制度や機構を問題にしているのでなければ、歴史的段階として「西欧近代」をすべて経過しなければならないと主張しているのでもない。いいかえれば、仮に「西欧的自由」という一つの理念が西欧社会に体現されているとすれば、それとまったく対立した理念がコミュニズムの世界に体現されているということである。
「アジア社会、例えば中国においては非常に逆説的な言い方ですが、コンミュニズムというものが、歴史的にはブルジョアジーが西欧的自由を打立てていった、それと同じダイナミックスを東洋の現実の中で実現しているということもいえるのではないか。もちろん西欧的自由と同じものをつくっているとか、その段階を経過しなければ次の段階にいけないといった図式的なことを言っているのではない。僕はロシア型の共産主義が、モスコーから遠心的に世界的に普遍化していくということは決して信じません。しかしながら東洋のような、いわゆる後進地域ではウエスタン・デモクラシーそのままが植付けられるのではなくして、西欧的自由によって人格が解放されていったその歴史的過程というものが、ここではヨーロッパにおいてそれを担った力よりもはるかに、”左”の力によって行なわれているし、また行なわれざるをえないという歴史的状況にある」18。
ここで「ロシア型」共産主義が普遍化するとは思えないと述べるとき、丸山は言外に、「中国型」共産主義が「西欧的自由」に類似したものを実現するかもしれないという可能性について指摘している。コミュニズムがアジアにおける「西欧的自由」の確立へと導くダイナミズムとして機能しているというのは、「アジア社会」としての歴史的位相にある中国共産党が、むしろ「西欧近代」とほぼ同じ規範性を包摂したある種の「普遍的<近代>」の建設を担っているということである19。ここで丸山は、仮にアソシエーション(近代的結社)の力がウェーバー的なコミュニティ(伝統的共同体)への「緊縛から解放された」(「呪術からの解放」)自主的人格の創出という過程を仮に東西で同じように可能にしていたとしても、アソシエーションの歴史的かつ具体的内容やその階級的基盤は、東洋と西洋とではまったくちがうという20。「中国の場合は比較的簡単で、現実問題として中共以外に中国を近代化する主体的力はないし、また中共にはそれだけの実力があると思うのです。けれども日本は中国とも歴史的条件がちがいます。資本主義の発展にしても中国とはちがって、とにかく一応世界的水準まで達した独占資本を持ったし、技術的レヴェルもはるかに高度です。と同時に他方では農業のようにきわめてプリミティヴな生産様式が残っている。日本は中国とちがって、ほぼヨーロッパに似た封建制をもったという点、歴史的発展段階から見ても、もっとヨーロッパ社会に近い。それだけ問題が複雑です」21。
したがって、同じことが多かれ少なかれ、地理的には中国と同じアジアに位置している日本についてもいえる。すなわち、日本の戦後民主主義における「リベラルなもの」とは、西側の資本主義体制を支えるリベラル・デモクラシーという「右」からではなく、むしろマルクス主義という「左」から推進されているという逆説が、このアジア社会には共通して内在している。それゆえに丸山にとって、アジア社会ではコミュニズムの力によってかえって「近代化」が遂行されているというのは、共産党が必ずヘゲモニーをとって、共産党独裁政権をしいて、それが主体となって「近代化」するのではなく、共産党が「推進力」になることを意味している。しかも、その「推進力」の度合いは、中国とロシアとちがうように、アジア社会の各民族によってちがうのであり、中国と日本もまさにその点で大きく異なっている。たとえば、中国の場合、政権を担ったのは連立政権(政治協商会議)であって、広範な社会的グループの参加を得なければ革命は実現できず、いわば共産党が「近代化」の一つのファクターになっていた22。中国革命による「郷紳支配」と「宗族主義」の転覆が数百年閉じこめられていた巨大な社会的エネルギーをはじめて解放したことについて丸山は、ジョン・フェアバンクから、また中国と日本の「近代化」のちがいについては竹内好から、それぞれ大きな学問的示唆を受けたとしている。
既述のように、丸山における「近代」とは、「複数の近代化」という多元性、あるいは多様性をもつものである。「前近代」と「近代」との関連でいえば、ソ連は西欧近代市民社会を経ないで「封建社会」から一足とびに社会主義社会に入ってしまった。いうまでもなく、ここで「封建的」社会とは、厳密な社会構成体ではなく、「市民社会」的な政治慣行と文化様式をほとんど経験していない「アジア的」社会にあることを意味している。いわばここには、「プロレタリア革命のあとにブルジョア革命が来る」という「歴史のアイロニー」が横たわっているのである。
「そういう意味でアメリカではともすると近代社会を絶対化し永遠化する傾向があって、近代社会の持っている危機なり矛盾なりに対して盲目になりがちだ。それに対してソヴェートはおよそ市民社会的なものを、西欧的とかブルジョア的とかいって頭から退けてしまう傾向がある。だからこの両雄が真正面から対峙すれば、一種の思想的な絶対主義と絶対主義とのぶつかり合いになる危険が非常に多い。そこで、この二つの国の間に狭まれていて、近代化と現代化という問題を二つながら解決することを迫られている日本の立場というものは、世界史的に見れば非常に重要な意味を持っているのではないかと思う」23。
このように丸山は、アメリカの「近代」を無前提に擁護しているのでなければ、「西欧的」、「ブルジョア的」として即座に否定するソ連の「前近代性」や「封建性」への批判を、たんなる西欧的「近代主義」の擁護としておこなっているのでもない。むしろ既述のように、「伝統型の分解が直ちに新たな型の行動様式への転化を意味しない(一見新たな自我意識と映ずるものも実は部落の共同体的行動様式の一側面をなしていたエゴイズムの肥大現象である場合が少なくない)ところに依然として大きな問題が残されているので、これを体制論や機構論の規定からくる近代か前近代か(あるいは、独占資本か封建遺制か)というような問いと混同してはならない」とする、いわば「事実と価値判断の峻別」を唱えるウェーバーと同じ規範的立場に依拠しているのである24。
おわりに
これまで見たように、現代中国の「市民社会」をめぐる最重要課題とは、いかにして自由、民主主義、そして法治といった近代的規範性のともなう「普遍的価値」を創造(あるいは自己の内部に発見)し、それを中国独自の個別具体的な土壌に根付かせることができるのかにあった。社会に自由と権利が十分に保障され、憲政民主が実行可能となり、それぞれの市民が平等に尊重されつつ、公平な分配を獲得できる制度のもとで、はたして自由で平等な市民のための政治共同体を築けるのか否か。こうした根源的問題が問われるとき、「普遍的価値」はその都度、より客観的な「価値判断」を下すための「導きの糸」として、「近代」をめぐる概念そのものや中国における「市民社会」(あるいは「公民社会」)という個別具体的な実在としての社会のあり方・形態・逸脱行為を批判的に検討する上での、一定の規範性を帯びるものである。それは実現されるべき「当為」でもなければ、現にそこにある「存在」そのものでもなく、認識主体である自己の内部において形成された理念型との「比較」において、その主観的な価値判断との連関で、その都度、策出的(heuristisch)に発見されるのが、この「普遍的価値」なのである。なぜなら、丸山真男にとってそうであったように、「普遍性」概念とは日本やアジアの外側(欧米)にあるものでもなければ、「特殊」の外部にあるものでもなく、さらに「特殊」を追求して「普遍」になるのでもない、いわばつねに「特殊」と「重なり合って」成立している、一つの方法論的概念(理念型)だからである。
注
1. 現代中国においてリベラル(自由)派を中心に形成されてきた「市民社会」論については、石井知章・緒形康・鈴木賢編著『現代中国と市民社会―普遍的<近代>の可能性』勉誠出版、2017年を参照。
2. 鄧正来(本田親史訳)「国家と社会―中国における市民社会研究の回顧(原著:「国家与社会―回顧中国市民社会研究」、張静編『国家與社会』浙江人民出版社、1998年所収)」、同『現代中国と市民社会―普遍的<近代>の可能性』所収、60-61頁。
3. 同、61-62頁。
4. 同、75頁、注73。
5. これについては、徐友漁「市民社会の理論研究」、同所収、24-25頁、および陳弘毅「市民社会の理念と中国の将来(原著:「市民社会的理念与中国的未来」、『中国伝統文化與現代民主憲政』商務印書館<香港>、2013年所収)」、前掲『現代中国と市民社会―普遍的<近代>の可能性』所収、48頁以下を参照。
6. 緒形康「中国社会は何を前景化したのか?」、同所収、525-529頁。
7. 論争の発端は、2010年12月4日に法政大学で開催された日本現代中国学会関東部会研究会にある。ここでは、「劉暁波『現象』をめぐる論争」をテーマにして、坂元ひろ子(一橋大学)「中国知識人としての「劉暁波」とどう向き合えるか」、代田智明(東京大学)「六四天安門事件と劉暁波」、及川淳子(法政大学)「劉暁波『現象』と政治体制改革をめぐる言論空間」の3名が、それぞれのタイトルで報告した。この研究会のフロアでの討論時間では、劉暁波の評価をはじめ、その政治性や普遍性の問題をめぐり、筆者を含めて激しい議論が交わされたが、さらに論争は中国研究所が発行する月刊誌『中国研究月報』へと舞台を移し、さらに発展していった。そこでの関連する論考は以下の通りである。代田智明「[光陰似箭]書評の太平楽」『中国研究月報』第65巻第5号(759号)2011年5月、石井知章「[論評]太平楽論の体たらく――代田氏に反論する」『中国研究月報』第65巻第7号(761号)2011年7月、代田智明「[論評]蛸壺のなかのまどろみ」『中国研究月報』第66巻第5号(771号)、坂元ひろ子「[論評]劉暁波『現象』所感」『中国研究月報』第67巻第1号(779号)2013年1月。ちなみに、この論争は2019年10月現在、なおも継続中である。
8. M.ウェ一バー(富永祐治・立野保男訳:折原浩補訳)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波書店、1998年、119頁。
9. 最近の例としては、羽根次郎「劉暁波の死をきっかけに」、『週刊読書人』、2017年8月25日、第3204号、https://dokushojin.com/article.html?i=1940(最終閲覧日:2019年10月11日)を参照。なお、この記事に対する批判的コメントしては、梶谷懐「「私には敵はいない」と語った劉暁波は、「私利私欲」を捨てた人だったのか、それとも「私利私欲」を貫いた人だったのか」、『梶ピエールのブログ』、2017年9月11日、http://kaikaji.hatenablog.com/entry/20170911/p1(最終閲覧日:2019年10月14日)を参照。
10. 代田智明「[光陰似箭]書評の太平楽」『中国研究月報』第65巻第5号(759号)、2011年5月。
11. 前掲『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』、「解説」、207頁。
12. 丸山真男「戦前における日本のヴェーバー研究」、『丸山真男集』第九巻、岩波書店、1996年所収、307頁。なお、このテーマについては、拙稿「戦後政治学におけるマックス・ウェーバーと中国問題――丸山真男と近代をめぐり」、早稲田大学政治経済学部教養諸学研究会『教養諸学研究』第145-146合併号(2018年度1・2合併号)、1-11頁を参照。
13. 前掲『丸山真男集』第九巻、309-310頁。
14.丸山真男「普遍の意識欠く日本の思想」、前掲『丸山真男集』第十六巻所収、59頁。
15.前掲『丸山真男集』第九巻、316頁。
16.同、318頁。
17.同、319-320頁。
18.丸山真男『現代政治の思想と行動(新装版)』未来社、2011年、514頁。
19.ここでいう「普遍的<近代>」とは、丸山の言葉でなければ、ウェーバーの言葉でもない。本来、具体的特殊性を媒介にして成立しているのが丸山やウェーバーの「普遍性」概念だとすれば、啓蒙としての「近代」概念にそれを直接結び付けて使用することには、あるいは西欧「近代」の概念を実体化し、理想化する危うさが伴っているのかもしれない。だが、「いったい、どのような諸事情の連鎖が存在したために、他ならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる――と少なくともわれわれは考えたい――文化的諸現象が姿を現わすことになったのか」(「世界宗教の経済倫理」序言、M・ウェーバー(大塚久雄・生松敬三)『宗教社会学論選』みすず書房、1972年、5頁)と問題提起しつつ、近代ヨーロッパの文化世界に生を享けたウェーバー自身が「普遍史的な諸問題」を取扱った際、そこで問われたものとは、「近代西欧的」価値を称揚するというより、むしろそうした態度を禁欲する「価値中立的」なものであったといえる。したがって、ウェーバー(そして恐らく丸山)が「普遍妥当的」と認めるような段階にまで到達した「科学」を「近代」の概念に結び付けていたという意味で、その社会科学方法論の根底にあったのは「普遍的<近代>」の概念であったといえる。
20. この「緊縛から解放された自主的人格の創出」との関連で補足すれば、丸山は「普遍的なもの」の価値と結び付けつつ、人間の個性という「究極的価値」について次のように述べている。「日本の知性は魔術的なタブーの前に実にもろい。そういったマーギッシュな考えを我々の下意識の世界から追放しなければならない。それは大変な問題です。僕がそういうと、「近代主義」といわれます。しかし僕は、そういった「近代化」のみが「永久革命」に価すると思う。社会主義が永久革命だなんてとんでもない。それは歴史的状況のもとにおける体制にすぎない。僕がいったような、普遍的なものへのコミットだとか、人間は人間として生まれたことに価値があり、どんなに賎しくても同じ人は二人とない、そうした個性の究極的価値という考え方に立って、政治・社会のもろもろの運動・制度を、それを目安にして批判してゆくことが「永久革命」なのです。それが僕の考えです」(「普遍の意識欠く日本の思想」、前掲『丸山真男集』第十六巻所収、60頁)。
21.前掲『現代政治の思想と行動』、514-515頁。
22.同、515頁。
23.同、516頁。
24.同。
*本稿の初出は『現代中国研究』第44号、2020年であるが、同編集部の許可を得て転載した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1219:220424〕