サハラ以南の女流作家で初めてノーベル文学賞を受けたナディン・ゴーディマは母国・南アフリカの人種差別に真正面から取り組んだ。ユダヤ系の白人だった彼女は、イスラエル政府による対パレスチナ政策が南アのアパルトヘイトと本質的に相違はない,と言い切っている。彼女は黒人出身の最初の南ア大統領・故ネルソン・マンデラ氏とも親交があった。
ナディン・ゴーディマは1923年、ヨハネスブルクから五十㌔ほど東のスプリングスという金鉱町で生まれた。父はリトアニアからのユダヤ系移民で、母もユダヤ系だがイギリス生まれの南ア育ち。父は時計の出張修理で鉱山を回って生計を立て、やがて宝飾店を構えるようになった。ゴーディマは「小さい頃から甘やかされて育った」と述懐している。
スプリングスにある女子修道会の学校へ通うが、登校してもすぐ抜け出し、終業のベルが
鳴るまで外の草原を歩き回るような子だったらしい。この時期の思い出を問われ、「間断なく学校をさぼり、草原で一日中遊んでいた」と意識的に語り、文章にも記している。
四歳から十歳までの時期、彼女はバレリーナになるのが夢で、バレエの練習に打ち込んだ。
が、ある日、突然心臓に良くないという理由で運動を止められ、学校通学も叶わなくなってしまう。その後は、いわゆる学校教育は受けていない。そうなったのは、母親の一方的な意向だったようで、背景には両親の不和と母親の恋愛があったらしい。ゴーディマは物真似が上手な子で、声色から仕草まで巧みに真似て見せては、大人たちを笑わせていたという。
随分早い時期から、本を読み、文章を書くようになった。十歳前後の時期に短編らしきものを書き始め、十二歳の頃には読書録のようなものを付けている。だが、彼女の関心は当初から現実の方へ向かっていた。学校の図書館の本との出会いでは、アプトン・シンクレアの社会派小説『ジャングル』に感動した。彼女を魅了したのは、社会を対象に据え、その病理を抉り出していく、語り手の手際とそれを可能にする立場の取り方だった。
49年に短編集『顔と顔を合わせて』で本格的な作家デビューを果たし、53年に最初の長編小説『いつわりの日々』を刊行。74年の著作『保護管理人』でイギリスの著名な文学賞であるブッカー賞を受ける。生涯に長編小説を十二作と二百以上の短編作品を著した。91年のノーベル文学賞授賞の理由は「彼女の壮大な叙事詩は『アルフレッド・ノーベルの言葉』に即した人文主義にとっての重要な利益であったこと」。
ゴーディマの代表作『バーガーの娘』は五十六歳の時の作品だ。南ア文学史上、アパルトヘイト体制下の南ア社会にこれほどトータルな形で挑んだ作品はない。小説の長さから言えば、五作目の『賓客』が一番長いし、他にも長い作品は幾つかある。しかし、その凝縮された文体と複雑な語りが織り成す物語空間は、それまでの、またそれ以後の彼女のどの作品をも凌駕していよう。白人活動家のバーガー一家の生と死を描きつつ、南アの現代史の中で白人が南アの解放に参加していくことができるのか、その可能性を徹底して追求していく。
このバーガーには実在のモデルがいる。白人活動家アブラム(通称「ブラム」)・フィッシャー(1908~75)とその家族だ。フィッシャーはアフリカーナ(アパルトヘイトを創りだした民族:オランダ系移民を主体に仏・独などから入植した人々が合流)の名門出身の弁護士で、オックスフォード大学で法律を修め、南アに帰国して弁護士となった。その時には既に南ア共産党の主要なメンバーとなっている。
フィッシャーはANC(アフリカ民族会議)との共闘を推進。52年、アパルトヘイト法に対する大規模な不服従闘争に関連して百五十六名が逮捕された国家反逆罪裁判で弁護人を務め、全員の無罪を勝ち取っている。しかし、60年代に入ると、ANCは軍事部門を創設し、全国主要都市の政府機関に爆弾闘争を仕掛ける。指名手配中だったネルソン・マンデラが62年に逮捕され、その他のリーダーたちも次々と収監された。この裁判で弁護団の中心となったのがフィッシャーで、被告八名が死刑を免れたのは彼の手腕によるとされている。
この裁判が結審した直後の64年秋、フィッシャー自身が逮捕されてしまう。二年後に終身刑の判決を受け、収監中に脳腫瘍に侵され、75年に死を迎えた。『バーガーの娘』には収監中の黒人活動家の大物として、後に黒人出身の最初の南ア大統領となるネルソン・マンデラの名前が度々登場する。ANCのシンパだったゴーディマはマンデラとも懇意な仲だった。
弁護士だったマンデラは若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、64年に国家反逆罪で終身刑の判決を受けた。二十七年間に及ぶ獄中生活の後、90年に釈放される。翌年にANC議長に就任し、当時大統領だった白人のデクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力。93年にデクラークと共にノーベル平和賞を受賞する。94年に南アフリカの全人種が参加した普通選挙を経て大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、復興開発計画を実施した。
マンデラは収監中も勉学を続け、89年には南アフリカ大学の通信課程を修了し、法学士号を取得。解放運動の象徴的存在となり、その釈放が全世界から求められるようになっていった。釈放直後に彼はゴーディマと旧交を温め、「獄中で『バーガーの娘』は読んだよ」と伝えたという。マンデラは文学好きでもあり、長い獄中生活の間にスタインベックやテニソン、シェリー、ドストエフスキー、トルストイらの諸作品を読破していた、といわれる。
ゴーディマに戻る。彼女はユダヤ系の出身であるが故にイスラエル政府による対パレスチナ政策の是非をよく問われた。彼女の回答は「南アのアパルトヘイト政策と本質的な変わりはない」という否定的なものだった。親交のあったマンデラは2013年暮れに九十五歳で死去し、後を追うように翌年7月にゴーディマが九十歳で亡くなった。
遺児(息子ユーゴと娘オリアヌ)が家族を代表してプレスリリースを出し、その一節にこうあった。「母が生涯で最も誇りに思っていたのは、ノーベル文学賞受賞と1986年の反アパルトヘイト活動家グループの反逆罪裁判で証言台に立ち、彼らが死刑から免れる一助になったことでした」。
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