セルマ・ラーゲルレーヴ(1858~1940)は1907年、スウェーデン人として、また女性として初めてノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「その著作を特徴付ける崇高な理想主義、生気溢れる想像力、精神性の認識を称えて」。受賞直前の06~07年に著したのがスウェーデン児童文学の古典『ニルスのふしぎな旅』である。(上)(下)二巻(福音館書店刊、菱木晃子:訳)の一千余頁に及ぶ大作を要約するのは容易ではないが、私なりに敢て挑んでみた。
スウェーデン南端のスコーネ地方の美しい春の日。いつも家畜を虐めてばかりの14歳の腕白坊主ニルスは、小人の妖精トムテの魔法にかかり、人間の手のひら位の小人にされてしまう。小人のニルスは動物の言葉が分かるが、家畜たちは虐めっ子に復讐にかかる。ものの弾みでニルスは鵞鳥のモルテンの背に乗り、雁の群れと北方への旅に出かける成り行きに。雁の隊長アッカは百歳余の雌で、総勢13羽を引率。眼下にはチェックの布地に映るくっきりとした緑の格子のライ麦畑、黄色っぽい灰色の格子は麦畑、茶色っぽいのが枯れたクローバーの原っぱ・・・。夕方、一行はヴォンプ湖の岸に降り、一夜を過ごす。ニルスは息絶え絶えのモルテンを水際まで誘い、お返しにモルテンから小魚をもらって腹ごしらえする。
二日後、東スコーネの畑に雁の群れが降り立つ。ニルスを降ろしたモルテンは運悪く数人の悪童たちに捕まってしまう。賢い鵞鳥は連行先を知らせようと、白い羽根を所々に落としていく。子供たちは近くの古城の方角へ去って行った。ニルスは大奮闘の末、近くの農家で鵞鳥を発見。羽を切られる寸前にきわどく救い出し、一緒に空高く飛んで自由の身に戻る。
一行の隊長アッカはニルスに注意した。「庭の奥では、狐とテンに用心すること。湖の岸辺ではカワウソ。石垣の辺りはイタチや毒のあるクサリヘビ。空には鷹やノスリ、鷲や隼に要注意だよ。カササギや烏、フクロウにも用心するがいい」。
雁たちはスコーネから東方へ飛び続け、バルト海上空に出て、スモーランド地方の沖合に浮かぶ細長いエーランド島の南端にさしかかる。ここには古くからの王室の領地があり、春と夏の終わりには東側の砂浜に何千羽もの渡り鳥が立ち寄っていく。ニルスと雁たちも、この砂浜に降り立つ。海の上にはカモメとアジサシが旋回し、急降下して魚を獲っていた。
鳥の一行はこの後、ゴットランド島~スモーランド地方~東ヨータランド地方~シェーデルランド地方~ウップランド地方・・・と一路北上を続ける。ニルスは行く先々でいろんな見聞と体験を重ね、時には命がけのスリルも味わう。<クマネズミとドブネズミの闘争><鶴の華麗な大舞踏会><悪辣狐スミッレの暴虐><バルト海でのアザラシの襲撃><うすのろまぬけ烏「白羽のガルム」の非運><イセッテルの魔女カイサの所業>・・・
バルト海に面した東ヨータランドとシェーデルマンランドの境に数十㌔にわたる森林地帯が続く。その一角に動物たちの格好の住処<平和の森>がある。そこの森番の男の飼い犬カッルがヘラジカの仔<灰毛>と友情を育んでいく。灰毛はやがて立派に成長し、大きな角を持つ雄のヘラジカと森で決闘。激しい闘いに勝利し、「森と共に生きる!」と姿を消す。
雁たちは北に向かい、シェーデルランド地方の上空を飛んでいる。平地ではなく、大きな森が続いている訳でもない。まるで湖や川や山や森が小さく切り刻まれて、大地にばらまかれたように、いろんなものが混じっている。雁たちは海岸に近い処を飛んでいたので、ニルスは海を見ることもできた。この辺りでは海も広くなく、沢山の島にさえぎられていた。
中南部のネルケ地方には,カイサという一風変わった魔女が住んでいる。平和で豊かなこの地方を雲の端に座って見下ろし、こう呟いた。「平野には立派な農家、山の中には豊かな鉱山や精錬場、ゆったりと流れる川に、魚が一杯の湖。あたしが居なかったら、ネルケの人たちはぼんくらになってしまうよ。人々を刺激し、活気を起こさせるのが必要なのさ」。
毎年4月の最後の晩、スウェーデン中西部ダーラナ地方の子供たちは屋外で大きな焚火をし、春の訪れを祝う。日が長くなっていて、暗くなるのは午後八時過ぎだ。子供たちは藁の束にマッチで火をつける。炎が上がり、火の手は数㍍の高さにまで一気に燃え広がる。その晩、雁たちは湖の氷の上で眠ることにし、ニルスはモルテンの羽の下に潜り込んだ。
入り江の奥では村人たちが昔の苦労話にふけり、シャスティというおばあさんがこう話した。「不景気な時代の1845年春のこと。十六歳の私は一日に3~40㌔は歩いて七日がかりでストックホルムへ出稼ぎに行き、庭仕事などで二十日ほど働き、帰りも歩いて戻りました。翌年も一層働き、靴が擦り切れ、帰りの二百四十㌔は裸足で歩いて戻った。カラス麦に細かに刻んだ藁を混ぜてパンを焼いたもんですが、飲み込むのがもう至難の業で・・・」
暖かな春の日、ニルスが湖畔の草むらで休んでいる時のこと。通りかかったお婆さんが小学生らしい子供二人に対し、次のような昔話を聞かせているのが小耳に入る。
――私たちが住んでいるウップランド地方というのは、スウェーデンで一番貧しく痩せた土地だったのさ。そこで、国中の二十四地方へ物乞いに出かける。で、一番南のスコーネ地方には土の塊を、その北方の西ヨータランドには小川を一つ、その隣のハランドには岩山を幾つかといった具合に、国中の各地方から山麓や丘陵・広い森と次々とせしめていく。気が付けば、(ストックホルムに)王様と都まで手に入れ、国中で一番になってたってわけさ。
ニルスはまた、バルト海のボスニア湾に面したヘルシングランド地方の上を飛んだ。針葉樹の森には新芽が、白樺の木には若葉が、野原には青々とした草が、顔を出している。山の多い高地で、真ん中に大きな谷が一筋、くっきりと通っている。上空から見下ろすと、緑の多いこの地方は<まるで一枚のどでかい葉っぱみたい>と、ニルスは思った。
一行は最北のラップランドに到着し、ひと夏を過ごす。日が短くなり、長い夜は退屈極ま
りなく、山での暮らしは楽ではなかった。冠雪したケプネカイセ山(標高2111㍍)からの展望は素晴らしい。ニルスは美しいトルネ沼のほとりで、サーメ人(トナカイと共に暮らす北欧の先住民族)が放牧しているトナカイの群れと親しくなった。一帯はどこも雄大で美しかった。秋になり、一行はニルスの郷里である最南のスコーネ地方を目指し、旅立つ。
アッカたちはノルウェー国境沿いのヴェルムランド~ダールスランド地方を過ぎ、西海岸のボーヒュースレーン地方へさしかかる。大昔から大きな岩の石垣で守られてきた処で、かつてはとても頑丈だった石垣が海によって幾つにも分断され、海岸線から何十㌔も奥までフィヨルド(陸地に深く入り込んだ細長い湾)が伸びている。鳥たちが飛行中、下界では漁船が船団を組んで洋上に展開し、ニシンの大群に網をかけようと狙っていた。
ある日、アッカは「明日、バルト海を渡ろうと思う」と口を切り、ニルスを背中に乗せて父親のホルゲル・ニルソンの家まで飛んで行き、改まった様子でこう言った。
――人間は、この世に人間だけで暮らしているのではない。
――人間は広い土地を持っている。私たち貧しい生き物が安心して暮らせるよう、自然の岩礁、浅瀬の湖、沼、湿地、未開の山、人里離れた森を少しぐらい残してくれてもいい、と思う。私たちが安心して過ごせる場所が必要だ、と知っていてほしいのだ。
アッカが飛び去り、ニルスが両親の家の馬小屋に潜んでいると、白鵞鳥のモルテンが飛来する。懐かしい余り、牛小屋の中にある鵞鳥の囲い場に入り、運悪く閉じ込められてしまう。いつの間にやって来たのか、ニルスの母親が外から扉を閉め、閂を掛けてしまったのだ。
(大事なモルテンの命に係わることだぞ。ずっと、お前の親友だったじゃないか!)(いつも一緒だった。凍った湖も、嵐の海も、恐ろしい獣に襲われそうになった時も、いつも一緒だったじゃないか!)モルテンへの愛と感謝の気持ちで満ち溢れたニルスはドアを思いきり叩いた。ドアが開き、お母さんが喜びの声を上げた。「まあ、ニルス!こんなに大きく、立派になって!」。ニルスはようやく分った。(僕、<元のような>人間に戻れたんだ!)
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