元首相の「国葬」には反対です~貞明皇后の葬儀でも、もめていた!

小学生が動員された: GHQの統治下にあった1951年5月17日、大正天皇の妻、昭和天皇の母、節子皇太后が66歳で急逝した。追号は貞明皇后とされ、6月22日、「大喪儀」が行われている。護国寺に隣接する豊島岡墓地での葬儀後、その日のうちに、多摩東陵に埋葬されている。この日、地元、池袋の小学校から先生に引率されて、護国寺近くでその葬列を見送った記憶がある。どの先生と誰と、何人くらいで出かけたのかも曖昧ながら、6年生の何人かの代表の一人であった記憶がある。今回の安倍元首相の国葬騒動で、思い出したのである。
 私の卒業した小学校は、とっくに他校と統合されて名前を変えている。気になるので、いま手元にある『創立三十五年記念誌』(1961年)の「沿革」を見てみたが、そんな記録はない。ではと、豊島区役所教育委員会に電話すると、それだけ古いと文書は残っていないというのが庶務課の回答、「行政情報センター」に相談してみてはと、直通電話を知らされる。センターにかけ直してみると、こちらとしても教育委員会に調べてもらうしかないと、まさにタライまわしの展開であった。せめて「豊島区史」のようなもので調べられませんかと尋ねると、1951年には、そのような記載はない、ということであった。手元の貞明皇后の評伝でも、学校現場の弔意状況までの記載がみあたらなかった。当時の新聞を見なければと思うが果たせないでいる。

貞明皇后の葬儀の顛末: 今回の国葬論議にかかわり、元首相ということで、吉田茂の「国葬」が前例として話題になっているが、実は、貞明皇后の葬儀の折にも、政府と宮内庁の間で、つまり、吉田茂首相と昭和天皇との意向の違いがあったらしい。宮内庁のホームページには、「貞明皇后大喪儀」について「昭和26年5月17日、皇太后陛下(貞明皇后と追号された。)が崩御になったので、同年6月22日の斂葬の儀を中心として、一連の大喪儀の儀式が行われました。事実上の国葬とされました。」との記述がある。「事実上の国葬」が気になるところである。
 敗戦後失効した「国葬令」(1926年10月21日)は、大正天皇死去の直前に成立しているが、「国葬」となるのは、「天皇、皇后、皇太后、太皇太后」と明記され、「国家に偉功ある者」も対象になり得るが、ときの内閣の判断に拠ることも明記されていた。貞明皇后の場合は法的根拠も前例もなかったのである。
 貞明皇后の葬儀をめぐっては、田島道治の『昭和天皇拝謁記』に詳しいらしい。未見なので、以下の記事を参考に、そのいきさつをたどってみよう。実にややこしいが、「天皇の政治利用」には違いなかった。

・森暢平「占領期、「国葬」が政治的論点となった貞明皇后逝去 社会学的皇室ウォッチング!/43」(週刊エコノミストオンライン 2022年8月8日配信)
https://weekly-economist.mainichiま.jp/articles/20220808/se1/00m/020/001000d

 貞明皇后が亡くなったのは、1951年5月17日の午後だった。
5月17日夜  吉田茂首相「占領下のため国葬は望まない」➡ 田島道治宮内庁長官
5月18日未明 大橋武夫法務総裁(法務大臣)・佐藤達夫法制意見長官(法制局長官)「国葬は法制上存在しないが、皇太后という身分であることからプライベートとは言い難く、公的な面もあることから、皇室の私的予算の「内定費」扱いではなく、「宮廷費」支弁による「皇室行事」にしては」と提案 ➡ 田島宮内庁長官
5月18日朝9時 田島「上記提案」➡ 昭和天皇「已むを得ず」
5月18日朝10時 岡崎勝男官房長官「宮廷費扱いの準国葬とする」➡ 宮内庁
5月18日夕刻 松井明首相秘書官「内閣は国葬をお願いしたが、陛下の考えで国葬にしないことになった、と説明したいので、了解を」➡ 田島宮内庁長官、拒否

 費用の出所を内定費にしても宮廷費にしても、国費には違いないのだが、このような経過をたどり、首相サイドの提案を宮内庁サイドは拒否した一方、「国情に鑑み、なるべく質素に行うようにとの「御思召」があった」との説明部分を容認したという。吉田首相は、「天皇の意向」ということにして、貞明皇后の葬儀に関しての国会での議論と占領軍への忖度批判の両方を封じたい思惑あったと、上記文献で森暢平は推測する。まさに、天皇の政治利用の一端であったのである。

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1951年6月23日『官報』「皇室事項」に、 葬儀の次第報告と昭和天皇と吉田茂の誄(るい)辞が再録されている

今回の「国葬」: 岸田首相が安倍元首相の葬儀を「国葬」とすると、その理由も曖昧なまま、議会に諮ることもなく、早々に表明した。それというのも、さまざまな政府批判―物価高、コロナ対策、旧統一教会問題、オリンピック汚職などへの批判を、「国葬」をすることによって、いささかでもシャッフルしたい思惑だったのだろう。岸田首相は、元首相の長期の首相在任・功績に加えて、各国からの元首相への哀悼と国民への弔意が示されているので、「国葬」で応えるとの弁を繰り返し、「丁寧な説明」からは程遠い、というより説明がつかないのである。「弔問外交」といっても、参列する国のトップはわずかでしかない。新聞社などの世論調査でも、国葬反対が多くなり、50パーセントを越える結果も出ている。国民の多くは、気づいてしまったのである。
 イギリスのエリザベス女王の葬儀関連の行事が伝統に則して、華麗に進められているが、いまは、チャールズ新国王に渡る4兆円以上の相続財産が国民の関心の的にもなっているという。それこそ、女王が、「国情に鑑み、私の葬儀は極力質素に」とか、相続財産の一部を大型寄付にあてるなどの遺言を残していたら、彼女の人気はさらに高まったのではないか。

 なお、吉田茂や他の国葬については以下に詳しい。
・森暢平「55年前の社会党の失敗 立民は同じ轍を踏むな 社会学的皇室ウォッチング!/47」(サンデー毎日9月25日・10月2日合併号 2022年9月12日配信)
https://news.yahoo.co.jp/articles/93c69894ab305ce6ee25c9c0f362f594cdba28b7

・前田修輔「戦後日本の公葬―国葬の変容を中心に」(『史学雑誌』130-7 2021年7月) https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/130/7/130_61/_pdf

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めずらしく鳩がやって来た!もう一羽は、フェンスのてっぺんを歩いていた。

初出:「内野光子のブログ」2022.9.16より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/09/post-0f7fff.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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