◆〈人殺しを許される!〉国家とは
死刑と戦争……。これは国家という組織が人の生命を奪っても罰せられない、つまり〈人殺しを許されている〉ことになっている行為だと言えると思います。
誰が許しているのか? 明言はできませんが、一つは国民という集団の多くがYESとしていること、もう一つは国家とは絶対神や天の代行者としてあるのかもしれない、ということくらいでしょうか。でも、いのちを奪うことを許す、何の根拠にもなりません。人間の観念の存在でしかない神や天など言い訳にはならないし、人殺しを許されない個々の国民が、多数決で「殺してもいい」と言ってよいはずもありません。
死刑執行を命じるのは法務相です。ハンコを押すだけの地味な行為という認識は、ギャングのボスが手下に殺せと命じるのと似たような大愚きわまる認識。人を殺せと命じることへの恐れを欠いています。戦争を始めるよう命じるのも同様に、人を殺せと命じる行為です。
仏教では「殺スナカレ」だけでなく「殺サシメルナカレ」と戒めています。死刑や開戦の命令は、まさに殺せと命じることで、しかも命じた当人は殺しに直接に手を染めません。「殺ス」より「殺サシメル」は、はるかに罪が重いと思うべきです。原爆投下を命じた大統領や、東京大空襲などを命じた将軍などのことです。
◆「教育」という国家による〈洗脳〉装置
例えば、核兵器やミサイルを持ちたがったり、軍備を増強したがったりするのは、人殺しの能力の増強にほかなりません。それを行うのには、〈国民という集団の多くのYES〉が強く望まれます。
そのためには、疑問や不信などを持たずに政府(行政)が行いたい政策にYESと言う国民を育てることが必要です。国権を握る者たちが目を付け、介入し統制して利用したがるのが「教育」です。
明治政府は、多少は開明的な「学制」を発布したものの、やがて国家による教育の統制を強めました。学問と教育とを分けた上で、「教育」は国家のことを最先にし、生徒たちのためでなく国家のために行うべきで、学ぶ者を教師の指導に従わせ守らせるように、となり、教育勅語体制になっていきます。
アベ政権による教育基本法の大改悪は、こうした国家による教育、支配と統制の「再生」を目指したものでした。国や郷土を愛するなど「態度を養う」ことを定めた改悪教基法第2条(教育の目標)や、徳目を国家が定める道徳教育の復活は、国家の教育による「好ましい国民づくり」、いわば国家による〈洗脳制度〉だと理解したほうがいいと思います。
◆教育の国権からの独立と自由の大切さ
国家による教育支配・統制の「再生」のための大改悪は、教育の独立と教育行政の役割の限定(教育諸条件の整備確立を目標)を定めた1947年教基法第一〇条の解体でした。政治や一般行政の教育活動や内容への介入を容認したのです。
個人の尊厳や思想信条、言論表現の自由、学習権などの保障とともに、教育の自由・独立は民主的社会の基盤です。それは、戦前の日本もですが、ロシアや中国の現実を見れば確かでしょう。教基法の大改悪は、民主主義の、その基盤の破壊にほかならないと考えたいです。アベ元首相は、だから「国賊」なのだ!
47教基法の復活を実現したいと、強く願います、民主主義のために。(読者)
初出:「郷土教育761号」2022年12月号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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