二十世紀文学の名作に触れる(54) 『ジャン・クリストフ』のロマン・ロラン――反戦平和をアピールし続けた理想主義者

 ロランは若い頃、かのトルストイに私淑して文通を試み、弟扱いする返事をもらっている。反戦平和の理想を生涯のテーマに掲げ、数々の小説・戯曲・エッセイの執筆に心を砕く。第一次世界大戦の際には、フランスとドイツ両国に対し共に「戦闘中止」をアピール。国際的には評価されたものの、母国フランスでは好感されず、疎まれる状況が長らく続いたりした。

 彼は1866年、フランス中部のブルゴーニュ地方に生まれた。父は公証人、母の家系も公証人で、比較的恵まれた環境で育つ。中学に通う14歳の時に一家はパリへ転居する。三年後にスイスへ旅行し、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーと偶々邂逅~その風姿に深い感銘を受ける。86年、エコール・ノルマルへ進学し、哲学・歴史などを学び、ピアノを嗜んだ。級友ポール・クローデル(後の詩人・劇作家・外交官)と音楽会に通い詰める。

 トルストイの『戦争と平和』を読んで感動。文通を試み、トルストイから「親愛な弟よ」と呼びかける長文の返事(フランス語)をもらう。ドストエフスキーやフローベールなどの作品にも親しんだ。89年に学校卒業と同時に歴史教授資格試験に合格し、翌々年までローマのフランス学院に留学する。ドイツの女流作家マイゼングークと知り合い、彼女を介しニーチェやワーグナーに関心を深め、ヨーロッパの国際関係に目を開く。

 94年から高等中学で教鞭をとり、翌年に文学博士の学位を取得し、エコール・ノルマルの講師となる。1903年、雑誌に『ベートーヴェンの生涯』を発表して大きな反響を呼び、ソルボンヌで音楽史を担当する。同時に小説『ジャン・クリストフ』を雑誌に連載し始め、12年に脱稿し、翌年にアカデミー・フランセーズ文学大賞を受けた。
 16年にはノーベル文学賞を受賞する。授賞理由は「彼の文学活動の高尚な理想主義に、人類の異なるタイプを描写した思いやりと真の慈愛に、敬意を表して」。

 ロランは『ベートーヴェンの生涯』(筑摩書房刊、訳:平岡昇)の序文に、こう記す。「この著作は、学問のために書かれたのでは決してない。これは傷ついた魂の歌であり、窒息しかけた魂が、息を吹き返し、再び身を起こして、<救世主>に捧げる感謝の歌である。フランスでは、何百万という人々、虐げられた理想主義者の一世代が、解放の言葉を今か今かと待っていた。彼らはそれをベートーヴェンの音楽に見出し、彼に助力を乞いに来た。」

 同書の中で、ロランはベートーヴェンを見舞った悲劇について、こう述べる。
 ――一七九六年(ベートーヴェンは二十五歳)からの五年の間に、聾疾が破壊の働きを始めた。夜となく昼となく耳鳴りの絶える時がなく、腹痛にも責め苛まれた。聴覚は次第に衰えていった。彼は自分の病気を人に気取られないように、人目を避けた。自分だけでこの恐ろしい秘密を守っていた。しかし、一八〇一年に、もう黙っておれなくなった。

 ベートーヴェンは二人の親しい友(医師と牧師)に秘密を打ち明ける。肉体の苦痛に、さらに他の種の懊悩が加わる。彼は絶えず激しい恋愛の熱情に取り憑かれていた。彼は恋愛の神聖さについて、一徹な考えを持っていた。彼の親友は「生涯、処女のような羞恥心を具えていた」と述べている。この天性の血気こそ、彼の霊感の最も豊かな源泉と言っていい。

 ベートーヴェンの以下の指摘は、実に示唆に富む。
 ――音楽は人間の精神から炎を吹き出させなければならない。
 ――音楽は、いかなる智恵、いかなる哲学よりも高い啓示である。……私の音楽の意味をとらえ得る者は、他の人々が這い回っているあらゆる悲惨から逃れうるであろう。
 ――神性に近づき、その光輝を人類の上に撒き広げることほど美しいものは何もない。
 
 代表作の大長編『ジャン・クリストフ』には、ベートーヴェンの面目が躍如とする。

 本題のロランに戻る。14年に第一次世界大戦が始まると、滞在していたスイスからフランスとドイツ両国に対し、「戦闘中止」を訴えた。この行動は国際的には評価され、アインシュタインやヘルマン・ヘッセら知名人との親善~交友が始まる。が、母国フランスでは好感されず、疎まれる社会的状況が以後長期にわたって続いた。

 17年にロシア革命が勃発すると、彼はいち早く支持を表明。レーニンの死やロシア革命十周年に際し、メッセージを送っている。白色テロに反対する「国際赤色救援会」にも参加したが、後年の独ソ不可侵条約の締結をきっかけにソ連批判を強め、没交渉となった。
 私生活では22年、スイスのレマン湖東岸に定住。26年にインドから詩人タゴールや政治家ネルーの訪問を受けている。フランスの作家アンリ・バルビュスと共に「反ファシズム国際委員会」を結成。世界各国の知識人に呼びかけ、32年にアムステルダムで「国際反戦会議」を開催し、「反ファシズム宣言」の公布を行った。

 著作活動では、小説『ピエールとリュース』(1920:ロランの平和への願いが託された二か月の切ない恋物語)、同『魅せられたる魂』(22~23:第一次大戦前後のパリで懸命に生きる一人の女性を描く大河小説)、戯曲『愛と死との戯れ』(25)、同『獅子座の流星群』(28)、エッセイ『闘争の15年』(35)、同『道づれたち』(36)などを発表。好評を得ている。
 日本との交流では、25年に高村光太郎・倉田百三・尾崎喜八・片山敏彦・高田博厚らが『ロマン・ロラン友の会』を結成。一部はロランと文通した。31年にロランとマハトマ・ガンディーがロランのスイスの自宅で会談した折には、高田博厚がロランの素描(後日に彫像作成の含み)のため招待を受け、同席している。

 43年から病床に就くが、翌年パリ解放を知ってソヴィエト大使館の十月革命祝賀会に出席。レジスタンス犠牲者追悼メッセージを送り、年末に原稿の校正を終えると永眠した。享年78歳。

初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1140:230104〕