1960年 大学2年~3年 58(邦画35+洋画23)本、テレビ3(邦画1+洋画2)本、シナリオ講座17(邦画4+洋画13)本、合計78本
白波五人男(佐伯幸三) 暗黒街の対決(岡本喜八)春の夢(木下恵介)
わが愛(五所平之助) 雪之丞変化(渡辺邦男)女は抵抗する(弓削太郎)
美人蜘蛛(三隅研次) 珍品堂主人(豊田四郎) 黒い画集(堀川弘通)
女経(吉村公三郎、市川崑、増村保造) バナナ(渋谷実)
国定忠治(滝沢英輔) 青年の樹(桝田利雄) 青い野獣(須川栄三)
接吻泥棒(石原慎太郎) 酔いどれ天使(黒澤明) 生きる(黒澤明)
娘・妻・母(成瀬巳喜男)女の坂(五所平之助) 青春残酷物語(大島渚)
学生野郎と女たち(中平康)大学の山賊たち(岡本喜八)
お姐ちゃんに任しとキ(筧正典 ) 乾いた湖(篠田正浩)
離愁(大庭秀雄) 西遊記(薮下泰司) 日蓮(田坂具隆)
悪い奴ほどよく眠る(黒澤明) 秋立ちぬ(成瀬巳喜男)
がめつい奴(千葉泰樹) 誰よりも君を愛す(田中重雄)
偽大学生(増村保造) 炎上(市川崑)
神坂四郎の犯罪(久松静児) 赤線地帯(溝口健二)
或る殺人(オットー・プレミンガー)
ガンヒルの決斗(ジョージ・スタージェス)
灰とダイヤモンド(アンジェイ・ワイダ)
今晩おひま?(ジャン・ピエール・モッキー)
旅情(デビット・リーン)
北北西に進路をとれ(ヒチコック)
十二人の怒れる男(シドニー・ルメット)
自殺への契約書(ジュリアン・ディヴィヴィエ)
バベット戦場へゆく(クリスチャン・ジャック)
ロベレ将軍(ロベルト・ロッセリーニ)
追いつめられて(J・リ・トンプソン)
大人は判ってくれない(フランソワ・トリュフォ)
鉄路の斗い(ルネ・クレマン)
危険な曲り角(マルセル・カルネ)
いとこ同士(クロード・シャブロル)
太陽がいっぱい(ルネ・クレマン)
いまだ見ぬ人(ドニス・ド・ラ・パトリエ)
バファロー大隊(ジョン・フォード)
明日なき脱獄者(ポール・スチュアート)
刑事(ピエトロ・ジェルミ)
逢うときはいつも他人(リチャード・クワイン)
奥様の裸は高くつく(リチャード・マ―シャル)
許されざる者(ジョージ・ヒューストン)
*テレビ:
山びこ学校(今井正、1952年)
巴里野郎(ピエール・ガスパル・ユイ、1955年)
港のマリー(マルセル・カルネ、1949年)
*シナリオ研究所(登川直樹解説):
パリの屋根の下(ルネ・クレール1930年)
自由を我らに(ルネ・クレール、1931年)
商船テナシティ(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1934年)
別れの曲(ゲザ・フォン・ボルヴァリ、1934年)
ミモザ館(ジャック・フェーデ、1935年)
制服の処女(レオンテイーネ・サガン、1931年)
地の果てを行く(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1935年)
我らの仲間(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1936年)
美しき争い(レオニード・モギー、1938年)
旅路の果て(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1936年)
邪魔者は殺せ(キャロル・リード、1947年)
赤い風車(ジョン・ヒューストン、1953年)
パリの空の下セーヌは流れる(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1951年)
また逢う日まで(今井正、1950年)
花咲く港(木下恵介、1943年)
雁(豊田四郎、1953年)
浮雲(成瀬巳喜男。1955年)
1960年は、やはり私にとっても、特別な年だったと思う。大学では、毎日のように、自治会の集会があり、1学年15人程度の専攻クラスの討論が行われ、国会への安保改定反対の請願デモが続いていた。講義や掛け持ちのアルバイトの合間を縫って集会やデモに参加している友人たちが多かった。私もノンポリながら、それなりに集会やデモにも参加していた。「鉄路の斗い」は1945年の作品だが、これは大学の学園祭での上映作品であった。ルネ・クレマンの旧作に集客力があった時代であったか。
「鉄路の斗い」(ルネ・クレマン監督、1945年)鉄道員たちがナチスと闘う抵抗映画である。
私も、ご近所の小学生の家庭教師も務めていたが、自宅通学はそれだけでも恵まれていたのかもしれない。この頃、私は、「映画愛」?が高じてシナリオ研究所の研修講座(夜間部)にも4月から半年間通って、いつかは映画シナリオを書きたいと本気で思っていた。雑誌『シナリオ』を購読し、『キネマ旬報』は図書館で読んでいた。評論家の志賀信夫から寺山修司まで、いろいろなシナリオライターの話が聞けて楽しく、ほぼ週一で、登川直樹の解説で、1930年代の名画を見ることができたのは、収穫であった。大学と集会・国会議事堂と青山一丁目下車のシナリオ研究所の三か所を地下鉄で行き来する日も多い半年間だった。6月15日の夜の樺さんの事件は、遅い夕食のお蕎麦屋さんのテレビで知った。提出すべきシナリオのプロットは、いかにも面白くない、はしにも棒にもかからないものだと自覚するのだった。それでも、あきらめきれないで、就活の折、東映の教育映画部の大学の先輩を頼って訪ねたこともあった。
1960年代に入ると、私の映画記録は、ますます簡略になってゆく。たとえば、1961年は、以下のようなメモでしかない。洋画26本、邦画28本、併せて54本であったがとなった。相変わらず二本立てが多い。
1962年には、映画館でみるのはぐっと減って、邦画9本、洋画8本。テレビで見たのがなんと18本で、その中には、「市民ケーン」(オースン・ウェルズ 1941年)、「パルムの僧院」(クリスチャン・ジャック 1948年)「鉄格子のかなたに」(ルネ・クレマン 1949年)などが記録されている ちなみに、63年21本(洋画18邦画3)64年28本(洋画18邦画10)、65年22本(洋画19邦画3)66年31本(洋画22邦画9)といった具合である。「誓いの休暇」「かくもながき不在」「ウェストサイド物語」「西部戦線異状なし」「慕情」などは、地元池袋の人世坐、その姉妹館の文芸座で見ていることも記されていた。洋画から伝わる熱量に圧倒され、日本の映画は遠ざかってゆくのだった。
そして、何がきっかけだったのか思い出せないのだが、この頃から、演劇にも若干の関心を持ち始め、1962年には、民芸「イルクーツク物語」(アルブーソフ作 宇野重吉演出)、前進座「雲と風と砦」(井上靖作)、63年には「るつぼ」(アーサー・ミラー作 菅原卓演出)、「泰山木の木の下で」(小山祐士作 宇野重吉演出)、64年「冬の時代」(木下順二作 宇野重吉演出)「奇跡の人」(菊田一夫演出)、66年「セールスマンの死」(アーサー・ミラー作 菅原卓演出)や72年「三人姉妹」(チェーホフ作 宇野重吉演出)など民芸が多いのは、65年以降、当時、職場に”演劇青年“がいて、よく勧められては、何回かに一度買っていたものと思われる。プログラムや半券を残しているものもある。1967年の俳優座養成所の「第16期卒業公演」のプログラムと半券も出てきた。「47年3月10日」「ご招待」とあるので、例の同僚から譲り受けたものではないか。いまから見ると、16期卒業生の顔ぶれがスゴイ。古谷一行、太地喜和子、河原崎健三、大出俊、鶴田忍・・・。卒業生のプロフィルと名前から、卒業後、たしかに活躍していた前田哲男、田村寿子、松川勉らもいるが、いまはどうしているのだろうか。プログラムの巻末には、なんと、今では考えられないが、住所録までついている。〇〇アパート〇号室、〇〇方が圧倒的に多い。
1963年12月、姪とクリスマス公演を見に行っていたはずだが。
1964年には「イタリア映画祭」、1965年10月末から一か月、国立近代美術館で、「イタリア映画戦後の歩み」が開催され、13本が上映されているが、スーパー付きが4本しかない。そんなこともあってか、イタリア文化会館の夜間講座にも通ったこともあるが、挫折。1964年から、10年近く「ソ連映画祭」に通ったことは、先のブログでも書いた。職場では、ロシア語の初級講座を受けさせてもらったが、これも挫折。いったい何をしたかったのか、何を考えていたのか。
1950年代の映画記録から、いろいろ思い出すことも多かった。家族が映画好き、というより、ごく普通の家庭の娯楽と言えば、ラジオと映画くらいしかなかった時代、娯楽というより、映画は、私のもう一つの学校ではなかったか。1960年代になると、63年に就職、社会人となり、映画より実社会から学ぶ比重が高くなり、映画も選んで見るようになったのだと思う。
私の映画記録は1966年を最後には途絶えているので、日記を追っていくなどしないとわからない。もうその気力もないので、映画の思い出はこの辺で終わりにしたい。
初出:「内野光子のブログ」2023.1.23より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/01/post-2d6149.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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