二十世紀文学の名作に触れる(56) 『ドクトル・ジバゴ』のパステルナーク――旧ソ連での最初の反体制活動作家

 パステルナークは1958年、ノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「現代風の抒情的な詩、および大ロシアの歴史的伝統に関する分野における、彼の重要な功績に対して」。ソ連国内では当時、『ドクトル・ジバゴ』の内容はロシア革命を批判する内容と見なされ、ノーベル賞受賞を辞退するよう、圧力がかかった。彼が始めた反体制運動はソルジェニーツィンやその他の反体制活動家によって引き継がれ、拡大していった。

 ボリス・パステルナークは1890年、モスクワに生まれた。父レオニードはトルストイの『復活』の挿絵などでも知られる著名な画家で、母ロザリヤは優れたピアニストだった。父は純粋のユダヤ人、母はユダヤ系ドイツ人だったが、この家庭にはユダヤ教徒的な雰囲気は全くなく、芸術的香気そのものが漂っていた。作曲家のスクリャービン、ラフマニノフ、画家のレヴィタン、ヴルーベリ、作家トルストイ、そしてドイツの詩人リルケまでが一家の親しい友人だった。

 パステルナークの最初の熱中の対象は音楽だった。十八歳の頃の1903年当時からの六年間、彼は後期ロマン派の最も個性的な作曲家・ピアニストだったスクリャービンに師事し、作曲法の勉強に励んだ。が、絶対音感が自分に無いことを知って挫折。09年、モスクワ大学の歴史・哲学科に入った。もっとも、この音楽の勉強は無駄に終わったわけではなかった。
 「ドストエフスキーが単に小説家というだけではなく、ブローク(二十世紀初めのロシヤの象徴主義の代表的詩人)が単なる詩人だけではないように、スクリャービンも単なる作曲家ではなく、ロシア文化の永遠の祝祭の生きた体現」(『自伝的エッセイ』)だったからだ。
 12年、パステルナークはドイツに留学し、マールブルク大学で哲学を学ぶ。彼が師事した新カント学派のヘルマン・コーエン教授は、その文化哲学で彼に深刻な影響を及ぼした。「マールブルク学派が関心を持ったのは、科学がその二千五百年のその不断の著作行為の中で自身をいかに考えるかであった」――二〇年代の自伝的著作『安全通行証』にこう記した彼の考えは、ほとんどそのままドクトル・ジバゴの考えに生かされている。

 パステルナークが詩作に関心を持つようになったのは、08年~09年の頃からであり、最初に熱愛の対象となった詩人はブロークとリルケだったようだ。両人への愛情は生涯変わることなく続き、この『ドクトル・ジバゴ』にも明らかにその影を落としている。
 ――ブロークにとって散文は、そこから詩が生まれてくる源泉として留まっている。リルケにとっては、現代の小説家たち(トルストイ、フロベール、プルースト、北欧作家)の描写法、心理手法が、彼の詩の言葉、文体と切り離せないものとなっている。――
 やはり『自伝的エッセイ』に記されたこの言葉は、パステルナークがこの作品で散文と詩を融合させる独自のジャンルを生み出した秘密の淵源を垣間見せてくれている。

 彼の詩人としての出発は、象徴派と未来派の交差する地点で始まり、所属もフレーブニコフ(二十世紀初頭に実験詩を試みたロシアの詩人)やマヤコフスキー(2010~20年代に活躍したロシア・旧ソ連の未来派の代表的詩人)らより遥かに穏健な未来派系グループ「遠心力」だった。14年と17年にそれぞれ第一・第二詩集を刊行するが、真に独自な詩人としての出発は「一九一七年夏」の副題を持つ第三詩集『わが妹人生』(22年)である。
 
 パステルナークはソビエト政権が成立したこの時期に、敢て自然を謳った。より正確には外的な自然、現実と人間の内面との交感を謳った。はるか後の56年に書かれた自伝的メモで、彼はこの詩集について次のように回想している。
 ――1917年の意義深い夏、二つの革命の日付の中間期に在っては、人々と共に道が,樹々が、星々が集会を開き、演説をしているかと思われた。
 ここには『ドクトル・ジバゴ』の世界とほぼ等質の感覚が語られている。彼の詩的出発点はここにあったのであり、その後四十年、ここで認識した真実をこの詩人は裏切らなかった。

 第二次大戦後まもなく、ソ連国内ではスターリン=ジダーノフ(ソ連中央委員会書記:48~58年に前衛芸術に対する統制を実施した)による思想統制が始まり、パステルナークは作品発表の場を奪われていく。巻末に添えた詩編だけでも25編を数える畢生の大作『ドクトル・ジバゴ』を40年代後半から50年代前半にかけて完成させる。が、ソ連の文芸雑誌『ノーヴィ・ミール』はロシア革命を批判する内容と見做し、掲載を拒否(以後も88年までソ連国内では発禁処分)した。

 このため原稿は秘かに国外に持ち出され、57年にイタリアで刊行される。この本の内容が高く評価され、翌年に著者パステルナークに対するノーベル文学賞授与が決まる。これはソ連共産党にとっては侮辱的で許しがたい出来事だった。ソ連国家保安委員会(KGB)とソ連作家同盟による反対運動の末、パステルナークは受賞辞退に渋々同意する。ノーベル賞委員会への辞退の手紙には「ソ連当局の反応が辞退の唯一の理由」と述べられていた。この反対運動はソ連当局の国際的信用を大きく傷つける結果を招いた。

 ノーベル賞委員会はこの辞退を認めず、一方的に賞を贈った。このため、パステルナークは辞退扱いにはなっておらず、公式に受賞者として扱われている。彼が始めた反体制運動はソルジェニーツィンやその他の反体制活動家によって引き継がれ、拡大していった。
 パステルナークは60年(ノーベル文学賞受賞の翌々年)に七十歳で亡くなった。

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