世界のノンフィクション秀作を読む(3) J・クラカワーの『荒野へ』(上) アラスカの荒野で孤独死したエリート米国青年の数奇な運命

――1992年4月、アメリカ東海岸の裕福な家庭に育った一人の若者が、ヒッチハイクでアラスカへ来着。マッキンレー山の北の荒野に単身徒歩で分け入っていった。四カ月後、彼の腐乱死体がヘラジカを追っていたハンターの一団に発見された。
著者のジョン・クラカワー(1954~:米国のジャーナリスト)は雑誌の編集長から、謎めいた若者の死の周辺について記事を書くよう依頼される。若者の名前はクリストファー(略称クリス)・ジョンソン・マッカンドレスと判明。ワシントンDC郊外の高級住宅地で育ち、学業優秀でスポーツマンとしてもエリートだったという。

彼は90年夏、エモリー大学を優等で卒業し、その直後に姿を消す。名前を変え、二万四千㌦の預金を全額慈善団体に寄付。自分の車と持ち物のほとんどを放棄し、財布にあった現金も全て燃やした。それから、全く新しい人生、社会の末端に身を置き、新鮮な素晴らしい経験を求めて北アメリカを放浪するという生き方に身を投じた。アラスカで遺体が発見されるまで、家族は彼がどこに居るのか、どこへ行ったのかもまるで知らなかった。
著者クラカワーは依頼を受けた雑誌(93年1月号)に記事を書いた後も、亡くなった青年クリス・マッカンドレスに対する関心を持ち続ける。とりわけ気になったのが、彼が餓死した顛末と、彼と己の人生に幾つか相似点があることだった。クラカワーはさらに一年、青年がアラスカの針葉樹林の中で亡くなるまでの複雑な経緯をたどり直し、強い好奇心に駆られ、彼の遍歴を細かく調べ上げていく。

彼クリス・マッカンドレスのことを解明していく過程で、クラカワーの考察は別のもっと広範な問題へと広がっていく。アメリカ人の想像力をかきたてる荒野の魅力、ある種の性格の若者たちを惹きつけてやまない極めて危険な行為。複雑で、つい感情的になりがちな父と息子の絆。そういった問題へ、と著者の関心と調査は向かっていく。
クリス・マッカンドレスは非常に情熱的な若者で、頑固な理想主義者のようなところがあった。そのために、現代の生活にはなかなか馴染めなかった。トルストイの著作に心酔していた彼は、大学当時から極めて禁欲主義的だった。アラスカの森へ分け行った時、彼が求めていたのは正しく危険であり、逆境であり、トルストイ的な克己だった。

年配の電気工ジム・ガーリエンはフェアバンクス市内でヒッチハイカーの若者を拾い、車で二時間ほどのデナリ国立公園まで送った。若者はアレックスと名乗り、森の奥に入り、「数か月間、土地が与えてくれるものを食べて生活するつもりだ」と言った。身長は五㌳七、八㌅、逞しい体つきの彼は、歳は二十四、サウスダコタの出身だとも言った。
森の住人のガーリエンは、この早春に奥地で数か月暮らすにしては、荷物の量が信じられないほど僅かだ、と感じた。「奥地での生活に必要な食糧も、用具も携行していなかったんだ」と言う。会話を交わすうち、アレックスはただの変わり者ではなく、感じがよく教養がありそうだ、と分かった。この地方にはどんな小猟獣が棲息しているか、どんな種類のベリーが食用に適するのか、について彼は的確な質問を浴びせた。

それでもやはり、ガーリエンは心配だった。バックパックの中の食糧が袋入りの米十㍀だけだ、と認めたからだ。内陸部の過酷な状況に対し、この青年の用具は余りにも貧弱に映った。安物の革のハイキングブーツは防水処理も施されていず、上等な防寒靴でもなかった。ライフルは二十二口径一挺だけで、ヘラジカやカリブーのような大物を仕留めるには口径が小さ過ぎて役に立たなかった。斧も、薬も、カンジキも、持っていなかった。
ガーリエンは言う。「奴を説得して、やめさせることはとてもできなかった。決心は固く、まさに本気だった」。出発して三時間を過ぎ、悪路が始まる。ハイウェイから十マイルの処で危険を感じ、ガーリエンは車を止め、「無事に戻ったら、電話をくれよ」と、声をかけた。若いヒッチハイカーは明るく笑い、姿を消した。92年4月28日のことである。ガーリエンはトラックをUターンさせ、考えた。「奴なら大丈夫だろうと思ったんだ。多分、すぐに腹をへらしてハイウェイに出てくる。まともな人間なら、そうするに決まってる」。

アレックスことクリス・マッカンドレスはヴァージニア州アナンデール近郊のかなり裕福な中流上層階級で育った。父のウォルトは著名な航空宇宙エンジニアで、60年代から70年代にかけてNASAとヒューズ航空機に勤務。78年に自立し、コンサルティング会社を創業。小規模ながら成功を収めた。新規事業の協力者は、クリスの母のビリーだった。一家は大家族で、八人の子供がいた。クリスと極めて親しかった妹のカリ―ン、それにウォルトが最初の結婚でもうけた腹違いの兄弟と姉たち各三人である。
90年5月、クリスはアトランタのエモリー大学を卒業した。在学中は、学生新聞のコラムニストや論説委員を務め、歴史学と人類学専攻生として平均点三・七二をとり、名を知られていた。最後の二年間の学費は、一家の友人から相続した四万㌦の遺産から支払われ、卒業時にはそれが二万四千㌦以上残った。前記したように彼はそれを全額、飢餓と闘っている慈善団体に寄付。父親は「息子を誤解していましたよ」と認めている。

両親と妹のカリーンは5月12日の彼の卒業式に参列した。6月の終わり頃、クリスは未だアトランタにいて、最終学年の成績表のコピーを両親に郵送。それには、次のような短いメモが貼付されていた。「これは、僕の最後の成績証明書のコピーです。成績はかなりいい方です。最終的に高い平均点が取れました。(中略)他に別に変わったことはありませんが、ここは本当に暑くなり、むしむしし始めました。皆さんによろしく」
アトランタでの最後の年、クリスはキャンパスを出て、家具付きの修道院のような部屋に住んでいた。電話が引かれていなかったから、両親は電話がかけられなかった。それ以後、何の便りもなかったので、秋に両親は車でアトランタへ訪ねていくことにした。アパートに着くと、部屋は空っぽ。管理人によると、6月末に引っ越したとのこと。二人が帰宅すると、夏に息子へ送った手紙が束になってそっくり戻ってきていた。「そんなわけで、息子の身に何があったのか、知る由もなかったのです」と母のビリーは言っている。

当のクリスは五週間前に持ち物を全て中古自動車に積み込み、何の計画も立てずに西へ向かっていた。9月6日にはアトランタから直線距離にして西へ八百㌔ほど(州にして七つ先)離れた西部ネバダ州のミード湖畔に到着。ここで故障した車を乗り捨て、以後はヒッチハイクか徒歩で、アメリカ西部を二か月間近く、放浪して回る。
10月28日には長距離トラックに乗せてもらってカリフォルニア州に入り、南部のソールト湖畔でヒッチハイクが縁で八十歳の退役軍人ロナルド・フランツと知り合った。敬虔なクリスチャンの老人は人生の大半を軍隊で過ごし、沖縄で勤務中の1957年、妻と医学部卒業間際の独り息子を酔っ払い運転の車に轢き殺される。
事故後の数年間、寂しさを紛らすため、彼は個人で沖縄の貧しい子供たちの「世話」をするようになり、結局、十四人もの面倒をみた。フィラデルフィアの医学校へ進んだ最年長の子供と日本で医学の勉強をしていたもう一人には学資も出している。

クリスと会った時、長く眠っていたフランツの父性に新たに火がつく。若者のことが忘れられなくなった。礼儀正しく、愛想がよく、身なりがきちんとしていた。「ひどく頭が良さそうな感じだった」。老人はエキゾチックな地方訛りで言った。「あのヌーディストや酔っ払いや麻薬常習者たちが屯する処の近くで暮らすには、彼はまとも過ぎるような気がしたね」。
フランツは「彼の生き方について」話し合おうと決心する。「教育を受けて、就職して、出世をするように、誰かが説教してやる必要があったんだ」。が、キャンプ地に戻り、彼の生き方をどうするかについて話が及ぶと、クリスは急に相手を遮り、はっきり言った。「僕のことは心配要らない。大学教育は受けているし、好きでこういう生き方をしてるんだ」。とげとげしい口調だったが、そのうち若者は老人に好感を抱き、二人は長いこと話し合った。

その後の数週間、クリスとフランツは長い時間、一緒に過ごした。若者の方が定期的にヒッチハイクで老人のアパートへ赴き、洗濯をしたり、ステーキを焼いたりした。春になったら、アラスカへ行き、「最大の冒険」に乗り出すつもりでいたから、彼は春の到来を待っていることを老人に打ち明けた。
そして今度は逆に、活動的ではない生活は良くないと言って、祖父のような相手に説教を始める。財産などはほとんど売り払い、アパートを出て、放浪生活をするよう、八十歳の男を盛んにけしかけた。フランツはその熱弁を冷静に聞き流し、要するに、クリスとの交友を楽しんでいた。老人はこの若者がすっかり気に入り、養子縁組まで真顔で口にする。あいにく、戸惑い顔の相手に上手くはぐらかされてしまうが……

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