著者ソロー(1817~1862)は19世紀中葉に活動したアメリカの思想家だ。本書は彼がボストン近郊の田舎町コンコードの近くにあるウォールデン池の畔で二十代後半の二年二か月間を過ごした折の生活記録~随想集。現実的体験を通じて人間の在るべき姿を、格調高い文章で明快に論じ、人々に人生をいかに生きるべきかを教えてくれる。かのトルストイがソローを師と仰ぎ、インドの哲人ガンジーがソローに学んだとされるのも頷ける。
――私が本書の大半を著したのは、マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン池の畔に自分で建てた家においてである。近隣から1㍄(約1.6㌔)離れた森の中にあり、私一人が住んでいた。私は自分の手仕事だけで生計を立て、そこで二年二か月を暮らした。
ほとんどの人々は、しなくてもいい貧乏な生活をしている原因は、近所の人と同じような住宅を手に入れたいと思っているからだ。だが、皆が知っていることは誰もそんな住宅に金を出せる筈がないということだ。そんなものを手に入れることばかり考えず、時には、もっと質素なもので満足しようと考えたらどうだろうか?
1845年3月末頃、私は斧を借り、ウォールデン池畔の森へ行った。真っ直ぐな白松の若木を用材として伐り始め、主な材木を六㌅角に切断。間柱は二面だけを、垂木と床板は片面だけ削り、後は樹皮をそのままに残しておいた。各材木には、付け根の部分に臍穴を慎重に開けて組み合わせた。毎日、バター付きパンを持参し、昼には弁当を包んだ新聞を読んだ。
5月初旬頃、知り合いの助けを借り、小屋の棟上げをした。板を張り、屋根を葺き終わると同時に定住することになった。7月4日(アメリカ独立記念日)のことだ。板はそれぞれ注意深く楔形に切り、重ね合わせたので雨漏りするようなことは絶対になかった。煙突を立てる仕事に入ったのは秋の除草が済んでからで、そろそろ暖をとる季節を迎えたのである。
冬が訪れる前に煙突を建て、雨水が通らないよう前以って四方を板張りにしておいた。漆喰塗りの家は幅10㌳(約3㍍)、奥行き15㌳、柱の高さ8㌳。狭いながら、屋根裏部屋や納戸、西側に大きな窓、二つの引き戸、端の方にドア、反対側に煉瓦造りの暖炉などがある。
この家にかかった経費は板(大半が掘っ立て小屋からの板)代の8㌦余りを始め、屋根材・古煉瓦・釘などの購入費を中心に総計28㌦余り。こうして私が気づいたことは、家を一軒欲しがっている学究なら、毎年支払っている家賃より少ない費用で一生住めるような家を持つことが十分できるということだ。
五年以上もの間、私は自分の手仕事による労働だけで自活の生活をしてきた。分かったことは、一年のうち六週間ほど働けば全生活費が稼げるということだ。私は冬の全期間と夏の大半を自由に自分の研究生活に丸々充てることができた。
私はかつて、周到な準備を重ねて学校経営をしたことがあったが、気がついてみると、その経費は収入に比べて費り過ぎ、かなりの赤字になってしまった。私は自分の同胞のためを思って教えたのではなく、ただ生計を立てるためであったから、失敗に帰したのだ。それから商売もやってみたが、この方面で軌道に乗せるには十年の歳月が必要だろうし、その時は恐らく悪徳の権化への道を辿っているのではないか、と思ったりした。
私が確信していることは、我々が質素で、賢い生き方さえすれば、この地上で自分一人養っていくのは、さして辛いことではなく、楽しいことだという事実である。普通の人が、私より汗かきでもない限り、必要以上に額に汗を流して生活費を稼ぐことはないのだ。
私が初めて森の中に居を構え、昼夜を問わずそこに暮らすようになったのは、偶然にも1845年7月4日の独立記念日だった。その頃、私の小屋は十全に完成していず、雨風をしのぐ程度のものだったから、夜は涼しかった。私はすぐに鳥たちの隣人であることに気付いた。森鶫、ビーリチャイロ鶫、紅風琴鳥、野雀、夜鷹その他、多くの鳥たちと親しくなった。
私は小屋の近くの2㌈半(約1万㎡)ばかりの、砂質の多い土地に主として豆を播き、それから馬鈴薯、玉蜀黍、豌豆豆、蕪を蒔いた。畑には肥料を全くやらなかったが、夏の間、豆の収穫は良かった。自分で鋤を持って仕事にかかったが、それでも耕すには二頭の家畜と一人の男を雇わなければならなかった。支出は14㌦72㌣半、豌豆豆と甘種の玉蜀黍の他に、豆384㍑、馬鈴薯576㍑の収穫があった。農場分の収支は8㌦余の黒字。
私は小さな池の岸辺に坐っていた。森の中の低地で、半㍄(約0.8㌔)先の対岸が一番遠方の地平線になって見えた。最初の一週間は池を見渡すたびに、それが山の中腹にある湖水のような感じがした。この小さな湖は、真昼でも夜の静かな佇まいがあった。鶫がその付近で歌い、湖畔のあちこちにまで聞こえてくるのだ。
私が森へ赴いたのは、人生の重要な諸事実に臨むことで、慎重に生きたいと望んだからだ。
人生を深く生き、その精髄をことごとく吸収し、スパルタ人のように強靭に生きたかった。そのためには、人生に値しないものは全て放擲し、徹底的に厳しい生き方を己に課し、人生を窮地にまで追い詰めようと考えた。
人生を達観できる人にとって、いわゆる全てのニュース記事などはゴシップに過ぎぬ。それを編集したり、読んだりする連中は、余生を楽しんでいる婆さんみたいなものだ。ニュースが何だというのか! 古くならないものは何か、を知ることの方がもっと大切なのだ!
我々を取り囲む現実を絶えず己の心に浸透させ、徐々に受け入れることによって、初めて崇高にして高貴なるものの全てを理解することができる。宇宙は常に、率直に我々の思索に答えてくれる。人生を思索することに使おうではないか。知性とは大きな包丁である。それは物事の秘密を見分け、その中へと切り込んでゆく。私の頭は穴を掘る器官なのだ。
世界にソルボンヌ大学(1274年創立)、オックスフォード大学(1249年創立)が永久にその存在を謳歌しているだけで良いのだろうか? 学生たちがこの土地に寄宿し、コンコードの大空の下で一般教育を受けることができないものか? この国では、ある点で、村こそヨーロッパの貴族に代わって何かをするべきだ。村が芸術の後援者になって然るべきだ。
我々の環境は貴族よりも恵まれており、資力も勝っている。ニューイングランド(米国東北部の六州を指す)が世界の賢人をことごとく雇い入れ、教えに来てもらい、その間はその人々に宿を提供してやれば、田舎臭い意識から抜け出すことができる。これこそが我々の求めるアンコモン・スクール(特殊な学校)というものだ。貴族の代りに、人民の力で高尚な村づくりをしようではないか。
私はゆとりのある人生が好きだ。ある夏の午前中、陽当たりの良い戸口の処に坐り、物思いに耽っていた。周囲は様々な樹木が静寂そのものの佇まいの中に群生。小鳥たちが囀りながら、音もなく、小屋の中をすいすいと飛び抜けてゆく。やがて夕日が西の窓に落ち、遥かなる街道を往還する旅人の馬車の音で、ふと私は一日が暮れてゆくことに気づくのだった。
家事をすることは楽しい気晴らしだった。床が汚れれば、朝早々と起き、家具をことごとく戸外の芝生の上に並べた。床の上に水をうち、池から運んできた白い砂を上にかけ、箒でごしごし白くなるまで磨いた。小屋は朝日ですっかり乾いているから、家具を再び運び入れる。やおら瞑想を始め、誰にも妨げられることは殆どなかった。
5月の末頃になると池へ通じる小道の両側に、可愛らしい花の短い茎の周りにヒコ桜が咲いていた。その短い茎は秋になると、見事な大粒の桜んぼうで垂れながら、花輪の重みのために、放射線のように前後左右に倒れかかっていた。桜んぼうの実は美味いとは言えないが、<自然>へのご挨拶代りに採って食べてみた。
夏の午後、窓辺に座っていると、数羽の鷹が上空を旋回している。野鴨が二羽、三羽と私の視界をかすめるように飛んで行き、小屋の裏手にあるストロープ松の枝に止まって、不安な様子でクークーと大空に向けて鳴き声を放っている。一羽の鴨が鏡のような池の水面から、小波を立てながら、さっと魚を一尾くわえ上げた。
時々、日曜日ごとに、幾つかの教会の鐘を耳にする。風向きが良いと、軽やかで、快い響きで、私の住む未開地に流れてくるのに相応しい。森から相当隔てた場所から聞こえてくる鐘の音は一つの同じ効果を産み出し、宇宙の竪琴を震動するかのようでもある。
夏のあるひと時、七時半になると、決まったように夜鷹たちが玄関の側にある切り株や小屋の棟木に止まって一刻、晩餐の聖歌を唄う。彼らが静まり返っている時に、アメリカオオコノハズクたちが「ウ・ルー・ルー」と唄う。その憂愁を誘う啼き声は、最も荘重な墓場の歌だ。
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