――赤道に近づき、海岸から遠くなるにつれ、トビウオが珍しくなくなる。時々、冷たいのが高速で飛んできて顔にピシャリとぶつかり、甲板の当直者の罵声が聞こえることもあった。トビウオのフライは朝食用に好評で、鱒のフライを思い出させた。夜の間にトビウオは五、六尾も発見され、炊事当番を喜ばせた。
二、三日後の深夜、一㍍以上もある長っ細い魚が飛び込んできた。鰻のようにくねくねし、どんよりとした黒い眼と長くて鋭い歯の一杯生えた貪欲そうな顎のある長い鼻面を持っていた。魚類学者がゲムピュリスあるいはクロタチカマスと呼ぶ深海魚で、骨だけは南米などで発見されていたものの、生きたものの確認は我々が初めてだった。
水面と同じ高さの床を持ってゆっくり静かに漂っていく者にとって、海は沢山の驚異を含んでいる。シイラやブリモドキ(鮫の先頭に立って泳ぎ、食物の豊富な場所へ案内。そのおこぼれに与る変わった習性の魚)のように、あんまり仲良くなってしまい、筏に付いて海を渡り、昼も夜も周りに居続けるものも少々あった。
五月二十四日、筏は西経九五度、南緯七度の処をゆったりしたうねりに乗って漂流。我々は正真正銘の海の怪物と遭遇する。頭はだだっ広くて平ら、小さな目が両側に二つ。幅一~二㍍もあるガマのような顎があり、口の両端から長い房毛が垂れ下がる。頭の後ろに巨大な体があり、末端には長くて薄い尾が付き、尖った尾びれがある。怪物はジンベエザメだった。
頭にも体にも小さな白い斑点が細かにある。のんびり泳ぎながら、ブルドッグのように歯を剥き出し、尻尾で水面を叩いた。怪物は平均体長一五㍍、体重一五㌧。我々の周りや筏の下を円を描いて泳ぎ出すと、頭が一方の側に見えるのに、尻尾は未だ反対の側から出ていた。もし襲撃されたら、筏は木っ端微塵なのに、我々は声を上げて笑わずにはいられなかった。
怪物は長い間、筏の周りをうろついた。隅の方にいたエリックが堪らなくなり、二㍍半ある手銛を頭上に持ち上げた。奴が広い頭を筏の隅の真下に持ってくるや、大力のエリックは渾身の力を籠め、銛を怪物の軟骨で出来た頭の中に深々と突っ込んだ。その巨大な奴が一~二秒かかり、やおら薄のろが鋼鉄のような筋肉の山に変わる。銛の綱が突進するシューッという音が聞こえ、巨大な奴が逆さまになって深淵の中に一気に潜ると、滝のような水が見えた。ピンと伸びた太い丈夫な綱がぷっつり切れ、怪物は二度と姿を現さなかった。
出航から二か月後に、真水が腐って味が悪くなったことに気付いた。が、雨の少ない海域は通り過ぎ、激しい夕立が十分水を供給してくれる地域に到着していた。毎日一人につき、たっぷり1㍑の水が割り当てられ、その配給量がいつも全部消費されるわけではなかった。
海流の中には魚が沢山いた。トビウオは自分で筏の上へ飛来する。大きな鰹は艫から来る大量の水と一緒に筏の上に出現した。鰹はとても美味かった。時間を決めて海に入り、日陰になった小屋の中で濡れたまま寝ていると、水を飲む必要はずっと減った。
海洋生物学者のバイコフ博士は海中のプランクトンが人間の食糧になると教えてくれた。プランクトンの大部分はちっぽけなエビジャコのような甲殻類か浮流する魚の卵だ。世界最大の動物・白長須鯨はプランクトンを食べて生きている。こういった小さな有機体がカロリーをたっぷり含んでいることが判る。
ある日、泳いでいる馬のように後ろで激しく水を噴くものがあり、びっくり。外海で、鯨の本当の呼吸音を聞くのは余りにも珍しかった。我々は何度も鯨の訪問を受け、大抵は小さいゴトウクジラで大きな群れを成し、我々の周りを跳ね回った。でかいマッコウクジラやその他の巨大な鯨のことも。時には我々を目がけ、まっしぐらに進んで来ることもあった。
我々は危険な衝突に備え、準備をした。大きな、輝く黒い額は、二㍍もない至近距離までやって来ると、水面下に沈んでしまった。巨大な青黒い鯨の背中が筏の下にあった。我々は丸い背中を見下ろし、息を殺していた。
7月2日、強い風と荒れ模様の海がやって来た。私は舵取り当番だった。真夜中ちょっと前、艫の方から巨大な高波が三つ接近。我々は沸騰した泡の逆巻の中を通り、艫から先に波の広い谷に滑り落ちた。筏が天高く投げ上げられ、周りのあらゆる物が轟轟たる泡の渦巻の中に拉し去られた。海底の動揺は、こういった海域ではそう珍しいものではない。
二日後、最初の嵐があった。予期していなかった方向から突風が吹き寄せ、舵取り当番が筏を操るのを不可能にした。周りの波は五㍍もの高さに跳ね上がり、我々全員、くの字になって甲板を這い回らなければならなかった。風は竹の壁を揺すぶり、索具という索具の中でひゅうひゅう、轟々鳴った。海水は耳を聾する雷のような音を立てて筏の上に砕けた。
天候が落ち着くと、筏の周りは鮫や鮪、シイラ、少数の鰹で一杯だった。闘っているのは主に鮪とシイラだ。シイラは大群を成してやって来、素早く敏捷に動いた。鮪が攻める方で、七〇~九〇㌔位なのが口の中にシイラの血みどろの頭をくわえて空中高く跳び上がる。時々、鮫もまた、大きな鮪を捕まえ、闘うのが見える。我々は二㍍前後もある鮫を九匹も釣り上げた。鮫は丸一日海水に漬け、切り身からアンモニアを取ると、鱈のような味がした。
7月21日。毎秒十五㍍以上の突風が吹き、トルステインの寝袋が波に攫われ、ヘルマンが捕まえようとして海中に落ちた。艫で舵オールを握るトルステインと舳先にいた私が気づき、救命具のところへ突っ走った。ヘルマンは素晴らしく水泳が上手かったが、既に舵オールのずっと後ろに流され、必死に泳いでいる。クヌートが片手に救命帯を持ち、海に飛び込む。筏の四人は救命帯の索を握り、ここを先途と引っ張り、二人を筏の上に救出した。
まる五日の間、天候は完全に暴風になったり、軽い強風に変わったり。海は掘り返されて広い谷となり、その谷は泡立つ灰青色の波から出る煙霧で一杯に。それから五日目に天が裂け、青空がちょっと顔を出す。我々は舵オールを折られ、帆を裂かれて、強風の中を切り抜けた。垂下竜骨はだらりとぶら下がっていたが、我々自身と荷物は完全に無疵だった。
二つの暴風の後、コン・ティキ号は繋ぎ目がうんと弱くなった。険しい波浪を乗り越えるため無理をし、全部の綱が伸び切り、絶え間なく動く丸太のために綱がパルサの木に食い込んだ。我々はインカ族のやり方に従ってワイヤ・ロープを使わなかったことを神に感謝した。
我々は舵オールを、鉄のように硬いマングローヴの長い副木を付けて、接ぎ木して縛り付けた。竹の甲板を全部持ち上げると、主な綱のうち三本だけが擦り切れていることが判った。丸太が非常な重さの水を吸い込んでいるのは明らかだったが、荷物は軽くなっていた。だから、これは大雑把に言って、差し引きとんとんだった。
7月30日朝、遥か東の水平線に初めて島の姿を認める。エリックの測定ではプ・プカ島で、ツアモツ群島最前線の前哨だという。我々はこの三か月間、実際に前進していた(平均速度は一日42.5海里)のだ。我々は現実にポリネシアに着いたのだという満足感で一杯だった。航海百二日目の8月7日、コン・ティキ号は環太平洋のツアモツ諸島のラロイア環礁に座礁。ポリネシアの原住民~フランス太平洋植民地総督府の援助で無事救出される。
三か月半近くにわたる筏による航海距離は4,300マイル(8千㌔弱)に及んだ。現在、学界では色んな知見や遺伝子分析の結果などから、ヘイエルダールが主張したポリネシア人の南米ペルー起源説には否定的な意見が優勢なようだ。
2002年、彼が八十七歳で亡くなると、ノルウェー政府はオスロ大聖堂で国葬で送った。
<筆者の一言> 「板子一枚、下は地獄」。古代の筏(複製)での南太平洋横断――ヘイエルダールの命知らずな企画にノルウェー人の友人・知人が四人も、二つ返事で誘いに乗っている。私はつい反射的に、ヴァイキングの故事を思い起こした。中世のノルウェー、血の気の多い漁民たちは欧州などへ広範囲にわたって遠征。略奪や侵略を繰り返し、恐れられた。“向こう見ず“な点では、ヘイエルダールの一統も先祖の荒くれたちに一向に引けを取らない。
翻って、我が日本の海民。中世から近世にかけ、「倭寇」は朝鮮半島や中国大陸の沿岸部などを荒らし回り、存在を知らしめた。さて、現代の日本。かの安倍政権当時、冒険家輩出を希い、「三浦雄一郎記念日本冒険家大賞」なるシロモノが創設された。よころが、この六月で創設十年を迎えるというのに、未だ受賞者ゼロ。かつての海民の荒ぶる血は今いずこ!? 「前代未聞」(内閣府)の事態に、関係者は頭を抱えているらしい。
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