(2023年7月8日)
安倍晋三銃撃の衝撃から、本日で1年である。あの衝撃の正体が何であったか、自分のことながらまだ掴みかねている。「棺を蓋うて事定まる」とはいうが、安倍国葬の愚を経てなお、事は定まっていない。
事件翌日の毎日新聞社説の表題が、「安倍元首相撃たれ死去 民主主義の破壊許さない」であった。記事の冒頭に、「暴力によって民主主義を破壊しようとする蛮行である。…強い憤りをもって非難する」とあった。1年前、その表題の社説を違和感なく受け容れた。標的にされた者がいかに非民主的な劣悪政治家であろうとも、政治テロを許してはならない。民主主義的秩序の崩壊を恐れる気持ちが強かった。要人に対する襲撃の連鎖が起るのではないかと、本気で心配もした。
しかし、間もなく事態が明らかになるにつれて、評価の重点は明らかに変わってきた。「暴力によって民主主義を破壊しようとする蛮行を許さない」ことは当然として、「悲劇の死をもって、劣悪政治家やその政治を美化してはならない」のだ。
板垣が自由民権運動の裏切者であるにせよ、また史実がどうであれ、「板垣死すとも自由は死なず」は名言である。自らの死を賭して、自由民権の理念に身を投じた政治家の心意気を示すものとして、民衆の喝采を浴びた。
安倍晋三には、そのような神話が生まれる余地がない。もし可能であったとして、死の間際に彼は何と言ったろう。「晋三死すとも、疑惑は死なず」「安倍は死すとも、改憲策動は死せず」「晋三死すとも、強兵は死なず」「安倍は死んでも、政治の私物化はおさまらない」「晋三亡ぶも、皇国は弥栄」…。およそ、様にならない。
何よりも、安倍晋三の死は、統一教会との癒着と結びついている。安倍と言えば統一教会、銃撃と言えば統一教会、安倍晋三と言えば韓鶴子・UPF・ビデオメッセージ。そして、誰もが安倍の死に関して連想するのが、祖父の代からの統一教会との深い癒着である。自民党なかんずく安倍3代と、この金まみれの人を不幸にするカルトとの醜悪な癒着は徹底して暴かれなくてはならず。また、徹底して批判されなければならない。
統一教会問題だけでなく、安倍政治を、いささかも美化してはならない。今、岸田政治は、安倍の亡霊に憑依されているからだ。安倍政治から離脱することで、世論に迎合するかに見えた岸田政権だが、党内の安倍残党に支配されているからなのだ。
安倍政治とはなんだったか、日本国憲法に敵意を剥き出しにし、教育基本法を改悪し、集団的自衛権の行使を容認して戦争法制定を強行し、政治を私物化してウソとごまかしを重ね、行政文書の捏造と隠蔽をこととし、国会を軽視して閣議決定を万能化し、恣意的な人事権の行使で官僚を統制した。
沖縄問題を深刻化し、核軍縮に背を向けた。経済政策では、新自由主義をこととして格差と貧困を拡大し、その無能で日本の経済的な地位を極端に低下させた。外交では、対露、対中、対韓関係に大きく失敗し、拉致問題では1ミリの進展もみせなかった。オリンピックでは腐敗と放漫支出を曝け出し、コロナ対策ではもっぱらアベノマスクでのみ記憶されている。
政治テロは許さない決意を固めつつも、銃撃死したことで、安部政治を美化したり、聖化したりしてはならない。非業の死を遂げた人を批判するにしのびない、などと躊躇してはならない。大いなる、醜悪な負のレガシーを持つ最悪・最低の首相だったこんな人物。こんな人物を長く権力の座に据えていた日本の民主主義のレベルを恥じなければならない。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記 改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。」2023.7.8より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=21264
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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